[会長ブログ ― ネコの目]
朽ちてゆく村

詳細は、財団ホームページをご高覧頂きたいのですが、私ども笹川記念保健協力財団は、今を去る30年前、当時のソビエト連邦で発生したチェルノブイリ原発事故後、現地の人々、殊に子どもたちの甲状腺がん検診を支援しました。それから、早くも30年、一世代が過ぎました。昨年の30周年式典には、他用で参加できなかったのですが、今回、遅まきながらの現地見学の機会を得ました。

今はウクライナ国となった現地では、なお、多数の方々が、31年前の事故の「後始末」に尽力されています。ひとつの原子炉の爆発がもたらした筆舌尽くし難い経過は、多数の出版物に記されています。事故発生時の状況、少し専門的に申しますと、災害発生時から急性期にかけて生じたことごとくは福島と著しく異なりますが、ふたつの原発事故のたどるべき長き道程を思うと、言葉もありません。

当の原子炉は、フランス企業が関与した、高さ108m、幅275m、長さ162m、重さ36,000トン、地上最大の稼働建造物である新たなシェルターに覆われています。なお、そのシェルターが原発を被う1週間の移動シーンはyou tube(https://www.youtube.com/watch?v=dH1bv9fAxiY)にあります。昨日、現場を見た後で見直すと涙が出ました。原子炉を作ったのも、事故を起こしたのも、また、それに対応したのも、このシェルターを作ったのも人間です。

ガイドさんに案内されて、廃墟となった村落、華やかであったであろう住宅地の広場、人影もなく朽ちた家々の残る「雑木林」をめぐりました。
まっすぐに伸びる道の両側に点在する、それほど大きくなないが一戸建ての家々。雨漏りのせいでしょうか、天井が抜け、その下の床も腐っているお宅、小さなテーブルと4脚の椅子が、くしゃくしゃにもたれあい、埃りまみれのまま朽ちようとしている食堂らしき小部屋、ベッドルームだったのでしょうか、開かれたままの衣類棚に残る、古いプラスティックのかごは色も見えないほど埃が積もっています。広い前庭の奥の平屋は、幼稚園だったとか。金属製の枠だけの子ども用ベッドには、30年間、目を閉じないままの人形が座っていました。もはや原型をとどめないまま壁にかかっている布製の衣類らしきもの、そしてかつて人々が行きかっただろう舗装道路に、ひび割れを作り、もこもこと凹凸を付けている木の根、広大な広場の周辺の、ホテルの建物、ショッピングセンター、しゃれたレストランであったらしき建物、ベンディングマシンは錆びついたまま、傾いています。
シェルターは後100年間、原子炉を被うとされています。気の遠くなる年月。起こそうと思って起こされたのではない事故、災害の結果です。
朽ちてゆく村・・・しかし、私は、未来に立ち向かう人々の力を信じます。
毎年、8月に、私どもは、福島医大、長崎大学の協力を得て、福島県で、放射線災害に対する学生研修を行っています。
福島でも、無人となっている、草だけが茂った避難地域を通る時、人影もないコンビニ、さび付いた交通信号を見ると、にぎやかだった学生諸氏も口数が少なくなります。
ここで研修を開き、ウクライナの若者と交流できたら・・・と思いました。

巨大シェルターと記念碑

巨大シェルターと記念碑

事故のため完成しなかった隣の原子炉

事故のため完成しなかった隣の原子炉

幼稚園・・30年前から

幼稚園・・30年前から

 

廃墟の前‥猫柳は芽吹いています

廃墟の前‥猫柳は芽吹いています