[理事長ブログ ― ネコの目]
ウクライナ

昭和30(1950)年頃、日本を語る際に使われたキーワードにフジヤマ、ゲイシャ、スキヤキがありまた。今なら、ジブリ、ユニクロ、ポケモンでしょうか。

この度、チェルノブイルを訪問(先のブログ)しました。1991年に独立して今はウクライナですが、1986年の事故発生時は旧ソビエト連邦の一部でした。情報開示のなかった当時、初期状況は、現地ですら明らかでなかったことは、この事件の発端が、そもそもかなり離れたスウェーデンでの放射性物質の検知から外部に分かったことでも理解されます。事故直後、壮絶な消火作業では多数の消防士たちや動員された兵士に犠牲者が出ています。現地で、この事件の15年後になる2011年9月11日のアメリカ同時多発テロでの消防士を思い出しました。

長らく、私がこの国に持っていたイメージは、「屋根の上のヴァイオリン弾き」、主人公の牛乳屋さんテヴィエが住む、貧しい小さな村のユダヤ人たち・・でしたが、首都キエフは、そもそも、12,3世紀に栄えたルーシー族(ロシアという言葉の由来とも聞きました)のキエフ大公国の流れを汲む歴史的な街、広大なヨーロッパ中世風の街であることは納得ですが、ややさびれた風を感じたのは、まだ、冬であっただけでなく、この国のもつ何だかはっきりしない立場、立ち位置にもよるのでは、と思いました。

ソビエト時代に、キエフ空港で飛行機を乗り換えた経験がありましたが、国内に入ったのは初めて。空から見ても、走ってみても、この国はほとんど平坦、山らしい山は、南のクリミア山脈と西のカルパチア山脈しかなく、最高峰もたった2000mほどです。キエフは割合坂の多い街でしたが、かつて、ヨーロッパの穀倉地帯と呼ばれたように平坦な農業向きの国のように思いました。もっとも、時期的に、道中みぞれが降ったり、雑木林に雪が残っていたり、寒々とした荒野でした。朝の気温は1度程度、樺太辺りと同緯度ですから、さもありなんですが。でも、もう1カ月もすれば緑一色のステップとよばれる草原が出現するそうで、コサックの馬が疾走するイメージも浮かびました。

その国の一角に、原発が設置され、いくつかの核兵器工場があったと聞きましたが、何処にあったのか、お目にかかった方々も定かではありません。兵器工場がにぎやかな街中にあったり、まして、核兵器工場が、大っぴらに宣伝されたりすることはあり得なく、国が分裂する時には、かつての支配者が引き上げるのは当然でしょう。日本の近くでも、核兵器を持て遊ぶ方がおいでですが、紛争、戦争にまつわるどんな武器も、何一つ、人々に良いことはもたらしません。

人口の80%を占めるウクライナ人は親ヨーロッパ的ですが、1991年の独立来、親西欧と親ロシアの政治的せめぎあいが続いています。東部はロシア民族が多く、数年前に、自治権を持つ共和国化を目指す住民投票を行い、あっという間にそれをロシアが認知しました。そもそも、ウクライナの法律に反する住民投票でありましたが、現在に至るまで、ロシアが実質的に支配しています。一夜にして国籍が変わるなどは、古来、ずぅぅっと日本人であった一族の末裔の私には想像を超えていますが、親戚のおじさんは外国人などという話は、アフリカなどでも耳にしました。いずれにせよ、この国は、エネルギーの大半を委ねているロシアと交戦状態にあることもあって、ヨーロッパの最貧国のひとつです。

そのクリミアと云えば、1853-56年の間、ナポレオン支配の帝政フランス、ビクトリア女王治世の英国、当時の雄オスマントルコ帝国、さらに統一前のイタリア北部の小公国サルディニアが組んで、南下政策を取るロシアと戦いました。この近代最大の戦争とされた戦いは、結局、どの国も勝利も敗北もないまま、すべての関与国が疲弊し、そしてヨーロッパでは、中世以来の帝国のいくつかが滅び、イタリア統一のきっかけとなりました。その中で、イギリスから現地に赴いたナイチンゲールと、小国ながら勝ち組的立場をしめたサルディニア公エマニュエル2世が目立ちます。前者は、申すに及ばぬ近代看護の祖、後者は、続いて始まったイタリア統一戦争のリーダーシップを握りました。そのサルディニア公らが仕掛けたイタリア統一戦争の一場面が、赤十字の誕生につながるソルフェリーノの戦い・・・・と、かつて赤十字の看護大学に属した私には、忘れられない地名、などなど、ある国について思い出せばきりがなくなります。

北方領土問題を抱える日本はロシアとの関係も大事ですが、日本食レストランや日本語訓練も流行っており、とても親日的とうかがったウクライナを、もう少し詳しく理解してから、再訪したいものだと、自分の年齢を忘れて思いました。

17-03-22_キエフ郊外

17-03-22_ソフィア大聖堂