[会長ブログ ― ネコの目]
さくら

少し肌寒く、時折、小雨も冷たい週末でしたが、桜は満開。と云っても、お花見に出かけたのではなく、ほんの100メートルばかりに先にある、さる企業の社員寮のたった4本の桜見物、でも見事でした。

日本中、桜の名所だらけですが、必ずしも数が問題ではありません。
日本五大桜は、それぞれ1本から数本です。岐阜県の根尾谷の国指定天然記念物淡墨桜は樹齢1500年ですから、聖徳太子の時代。山梨県の山高神代桜は、さらにさかのぼって、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征時に植えたという神話時代ですが、日本最古最大級の巨木で、樹齢1800年とか2000年、卑弥呼の時代です。福島県の三春町の瀧桜も有名、またまた、全山桜一色もあれば、何キロもの桜並木もあります。が、濃い緑の中の一本の薄墨紅色もあれば、少し時期がずれますが、列車やバスの窓から、はるかかなたに、重厚な山桜の古木が見えたり、誰もいない田んぼのあぜ道に見事な桜並木が続いていたりと、さまざまです。ただし、日本で桜がもてはやされるようになったのは、平安時代で、それ以前の万葉集の時代の花とは梅だったそうです。

新米医師の頃、花より団子の友だちがおにぎりを作り、数年間、桜写真撮りに大阪、京都、奈良近郊を走りまわったこともありました。

まずは、いにしへの奈良の都の八重桜 今日九重ににほひぬるかな (伊勢大輔)は、百人一首にあります。この歌は、奈良から宮中、つまり平安京に届けられた花を受け取った女官の伊勢大輔が即興で詠んだもの、奈良公園で詠まれたものではありません。が、いずれにせよ、奈良も京都も、その昔は、世界遺産ではありませんでしたが、名だたる観光地であり、どこもかしこも花よりも人が八重九重でした。

この伊勢大輔(イセのタイフまたはオオスケ)は、989年頃の生まれ、1060年頃に亡くなったとされる平安中期の女流歌人、父は、同じく歌人の大中臣輔親(オオナカトミのスケチカ)、高階成順(タカシナのナリノブ)に嫁し・・・と父や夫の名前は残っていますが、女性である伊勢大輔は役職名でしか残っていません。でも、11世紀の日本では、宮仕えしていた女性は読み書きができた上に、即興でこのような巧みな詩を詠めたのですね

 奈良で桜と云えば、何と云っても、数万本といわれる吉野山です。
この辺り一帯に桜が多いのは、山上に、修験道の本山である金峯山寺(キンプセンジ)を開いた役行者(エンのギョウジャ)が、山桜の木に蔵王権現(ザオウゴンゲン)を刻んだことから、信者たちが桜の苗木を寄進し、辺り一帯に植えたことによるとされています。とにかく、壮大な山のあちこちが桜です。

山の裾あたりを下千本、中腹の如意輪寺あたりを中千本、山頂に近い吉野水分神社(ヨシノミクマリジンジャ)あたりを上千本、さらに奥にある西行庵一帯が奥千本です。ここでいう千本は、単に多いということであって、それぞれ何千本もあります。そして下から、中、上そして奥千本へと、約1ヵ月近く、波のように満開が異動してゆきます。

ここでは、吉野好きの西行法師の 願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ を思い出しますが、実際、法師は、望み通り旧暦二月十六日(現在の4月上旬)に亡くなっています。

 桜といえば春ですが、実は、吉野の桜は12月、と私は思うことがあります。極寒の頃ですが、黒々とした幹と枝ばかりの桜の木々は、墨絵の世界。チラチラ粉雪の舞う吉野山を、まさに修験道の世界ですが、人影もなく、生と死の境界のような静けさの中を散策したことがあります。寒さはこの上なく、声も出ないほど寒かったものの、趣ある光景でした。

 さて、ご近所の4本桜、今朝は、はらはらと散り初めていました。
久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ(紀友則) たった数日の花は、潔さの代名詞でもありますが、しぶとく生き抜く力も必要な社会状況です。頑張りましょう。
来週には、もう若葉でしょうか?

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