[会長ブログ ― ネコの目]
ロンドン その2 チャリング・クロス街84番地

タイトルに番地がつく書籍や映画は沢山あるように思いますが、とっさに思い出すのは、「チュウチュウ通り何番地」は、ネコイラン町(つまり猫不要町)のハツカネズミの童話で、何番もありました(アマゾンを確認しましたら1~10番)。「9番地のチャールズのおはなし」は犬。ネコの番地付きは思い出せませんが、「夜廻り猫」は、ちょっと訛り言葉をはきながら、庶民の街に出没する平蔵、重郎ネコの人情噺、癒されます。ボチボチ思い出しました。ジェフリー・アーチャー「めざせダウニング街10番地」は、ビビッドな政治スリラー、街では「モルグ街の殺人事件」、広場では「メイフェア・スクエア7番地」は幽霊の話、都市では「二都物語」は、もちろんディケンズ。道では司馬遼太郎の膨大な「街道をゆく」、「2丁目3番地」は倉本聰・・・

「チャリング・クロス街84番地」という本があります。
1969年、初めてロンドンに来た折、チャリング・クロス街はまだ観光案内書にかかれていた古本屋街でした。確かに、本屋さんが並び、時代がかかった金文字題名の全集が並ぶ店もありましたが、まだ、駆出しの医師で1ドル360円の時代・・・買ったのは衛兵の絵葉書だけでした。

江藤淳訳「チャリング・クロス街84番地」を古本で見つけ、読みました。
ニューヨーク在住の脚本家で、仕事上もありましょうが、まことに重症の読書中毒症であるらしいへレーン・ハンフと云う女性が、『サタデー・レビュー』で見た絶版本を扱うロンドンの古書店街チャリング・クロス街84番地のマークス社に、欲しい書籍のリストを送るところから始まる往復書簡を翻訳したものです。

これに対応した、とても律儀な(古い言葉ですね!)マークス社のフランク・ドエルの返信は、「マダム・・・」とはじまります。第二次世界大戦後の20年間、正確には1949年10月5日から1969年1月8日の間の往復書簡です。

今年のチェルノブイリ会議(前回参照下さい)時に、チャリング・クロス街に行こうと思った理由が三つあります。まずは、弊財団に職を得たことで、ハンセン病対策にたずさわる機会を得たが、財団活動のひとつである歴史をたどっている内に、中世ヨーロッパのハンセン病の状況、就中、当時の療養所はどんなだったのかを少し詳しく知りたくなり、ヨーロッパの古本・・・チャリング・クロス街を連想したこと、たまたま今年のCTB会議後、ニューデリーに立ち寄るため、別件を含め、週末のロンドン滞在が可能になったこと、さらに、観光案内からチャリング・クロス街がもはや古本街でなくなったことが分かったので、その代りともされるCecil Courtという地域を探検したいことでした。

昭和59(1984)年翻訳の「チャリング・クロス街84番地」は、訳者江藤淳の言葉づかいの所為かもあって、とてもクラシックな時代を感じさせます。それ以上に、第二次世界大戦勝利国アメリカのやや繁栄ぶりがしのばれる状況と、後の首相チャーチル以下、欧州戦線を戦い疲弊しつくして、食糧は配給制であったらしいイギリスの比較、そして、まだ、往時の世界最大の混乱が収まっていない時代にあっても、書簡を交わしている2人(マークス社の方は徐々に多数者が関与しますが)のような教養と知性を備えたが人々が確として存在していたことなど、とても興味深い小冊子です。

まず、口火を切ったへレーンは、仕事柄もあるのでしょうが、生活費以外の収入のすべては本につぎ込むような読書家であるだけでなく書籍そのものに愛着がある、そして優しい女性です。1949年12月8日(たまたまですが、真珠湾の日!)、最初の注文書発送からたった2ヵ月、ほんの2、3通の注文書や発送連絡、支払やり取りしかない頃に、また、まだ、相手がどんな人が判らないFPD(フランク・P・ドエル)という頭文字のマークス社スタッフに、クリスマス用にハム3kgその他を送ります。その、やや押しつけがましい贈り物の言い訳に、ニューヨーク在住イギリス人の情報として、「お国では食糧が配給制で、肉は一週に一世帯当たり60g、卵は1ヵ月に一人1個・・・」だから、ささやかながらプレゼントすると理由を書いています。

配給・・・などという言葉も懐かしい古語ですが、私は、子どもの頃、配給切符をもって小麦を受け取りに行った記憶がありますので、イギリスもそうだったのか、と感慨を新たにしました。このようなとても優しく、困っている人がいると何かしたくなる・・・ちょっと浪速のオバサン的お節介屋サンのようなへレーンの書籍に対するズケズケした批判やハム効果もあったのか、真面目な応答に終始していたFPDだけでなく、他のスタッフも手紙を交わすようになります。

この当時の古書の代金が、また、1ドル80セントとか、1ドル15セントとか・・・世界がバブルを経験した現在と異なる貨幣価値が偲ばれます。次第に、顧客の好みに合いそうな稀覯本を送るようになったドエル、女性スタッフにナイロンのストッキングを送るへレーン、両者の関係性は仕事を離れたレベルに到り、何時かお金をためてイギリスに行きたいというヘレーンに対し、自宅を提供するという古書店のスタッフ。しかし、両者の関係は、ドエルが1968年12月15日、盲腸が破裂し、腹膜炎を起こして急死することで終わります。昭和43年(1968年)、小児科医になった頃、日本でも盲腸炎から腹膜炎はあった・・・と思い出しました。大西洋をまたいでへレーンとフランクたちの手紙が往来した20年は日本の昭和24~44年、私は小学生から医学部を卒業し、新米小児科になった間に当たります。

私が、チャリング・クロス街に行った頃、この本のエピローグが書かれています。
歴史・・・は、時代がかった政治家や将軍だけがつくるのではなく、どの街にも生きた人々の証があり、それが歴史なのだと思います。

さて2017年12月のチャリング・クロス街は、残念ながら、観光客がうろつく繁華街、予測通り、古本稀覯本にはめぐりあえませんでしたが、それもまた歴史ですね。

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