[理事長ブログ ― ネコの目]
わが国に知の世界を広げた「生田長江」

先般、鳥取県×日本財団共同プロジェクト「みんなでつくる“暮らし日本一”の鳥取県」を頼りに、私どもが行っている「日本財団在宅看護センター起業家育成事業」への研修生リクルートに鳥取に向かったことをブログ「地域社会 コミュニティを維持すること」に書かせて頂きました。

県関係者との面談まで少し時間があったので、県庁一階の県民室に参りました。鳥取県の歴史、名所旧跡、名産品、色々な催しの広報や社会活動の情報が展示掲示されている一角に、郷土出身文学者シリーズという冊子が並んでいました。その⑥が『生田長江』、その名前に、心がザワッとしました。どんな文学者だったのかという疑問ではなく、忘れている何か別のものがあったような・・・

手に取ってパラパラと見て、直ぐに思い出しました。ニーチェを日本に持ち込んだ方、平塚らいてう<ライチョウと読みますね>らの、今から見ても斬新さにかげりの無い、新しき女性運動、雑誌『青鞜』が生まれた背景に存在された巨大な翻訳家にして評論家、小説家、劇作家とされています。が、気持ちがザワついたのは、そんなことではない、何だったのか・・・気ぜわしくページを繰りました。何だったか、忘れていたことは、生田長江という巨大な文学者は、ハンセン病を背負いながら、日本の近代化に絶大な足跡を残された方でしたが、私(たち)が高校生だった頃、昭和30年代にそのことをキチンと受け止めていなかった・・・何か口にしただろうけど、決してポジティブなことではなかっただろうという、その想い、卑屈な記憶があったのでしょう。ぼんやりしていますが、何か口走った卑怯な云い方が、どこかに残っているとげのように思い出されました。

高校生の頃、文学少女とよぶに相応しい、活字中毒、いえ、書籍からはなれられない友人たちがいました。私たちは、サルトル、ボーヴォワールにかぶれ、三太郎の日記を良く理解しているかのように話しました。ニーチェにかぶれていたのもいました。今も覚えているのは、「みだりに人とつきあったらあかん。ニーチェが云うてはる(云っていらっしゃる  の大阪弁)のは、ひととつきあったら、色々言い訳したり、格好つけたりするから、柄が悪くなる、特に品性の悪い人とつきあったら絶対あかん!」と解説(*)してくれていました。

生田長江 本名弘治は、1882(明15)年4月21日生まれ、私の祖父母世代です。そして1936(昭11)年1月11日、第二次世界大戦の前に亡くなっています。54才という年齢は、この頃には短すぎたとは申せません。が、もし、この方が、この病気を持っていなかったら・・・と、思わずにはおれませんでした。

その小冊子から、2013年に、荒波力著『知の巨人:評伝生田長江』が出版されていることを知り、行きつ戻りつ、1週間をかけてしっかり読みました。

​ 生田長江 本名弘治は、今の鳥取県の日野町生まれ、若くして兄のいる大阪に出、英語を学び、キリスト教に触れ、さらに東京に出て、第一高等学校から東大哲学科に学んでいます。若い時から、文筆に優れておられたのですが、日本の近代文学に出てくる高名な方々のすべての人々と関係があるといっても間違いではないほど、活躍されたのに、何故か、あまり名前が出なくなった…その理由がハンセン病だったとしたら、日本の知的レベルもこぞって、この病気を差別していたと云えるのではないかと思います。​

たった一人、この方の活動は、20世紀初頭からの日本の文学史のように思えました。

上田敏、馬場弧蝶、森田草平は同志的、与謝野鉄幹・晶子夫妻は隣人的関係、佐藤春夫、生田春月らは弟子的関係、大杉栄らとも交友関係があり、そして女性のために開催された講習会『閨秀文学会』の中に、平塚らいてう、大貫かの子、青山菊栄がいたのです。

そしてニーチェ(『ツァラトゥストラ』他、全集)だけでなく、ダンテ(『神曲』)、ゲエテ(『ファウスト』他)、トルストイ(『アンナ・カレニナ』)、ドストエフスキー(『罪と罰』)、ルッソオ(『懺悔録』)、ツルゲネフ(『猟人日記』)、オスカー・ワイルド(『サロオメ』)、フローベル(『サランボオ』)、ダヌンツィオ(『死の勝利』)、そして一部分だけですが、マルクス『資本論』他、おそらくどなたもがどれかは手に取ったことがあろう、膨大な翻訳のほか、沢山の評論、啓発書、英語の勉強法などなど・・・

キリスト教に親しまれたのは早かったのですが、後年、総括的に取り組まれた『釈尊傳』の途中で54才の生涯を終えられました。その頃には、失明され、容貌が崩れるまでに進んでいたそうです。『知の巨人』の中に、後に作家として活躍された同郷の大江賢次氏が、郷土の先輩を尋ねられた時の記録があります(346頁~)。

初めてこの偉人の姿を視た瞬間、思わず息を呑んだ。その姿は「くずれたガンジーの様だった」・・・持ち上げた長江の右手を見ると、ショウガのような手に画家のデッサン用の鉛筆がくくりつけられている・・・・

ただ、膨大な業績のすべては、割合、若いころに発病したハンセン病を抱えながらのものであり、この方が社会的活動を減じられていったのは、決して病気の所為ではなく、卑怯にも、この病気をあえて暴露した同業者がいたことであったのです。が、生田長江という人の知的活動は毫も揺らいでいないことに圧倒されます。長江の一生の業績は、古い時代のワカモノがかぶれた西欧の智をわが国に導入したこと、そしてそれから日本人一般の中の近代が始まったことのように思いました。このハンセン病対策を活動の一つにしている笹川記念保健協力財団に来なかったら、この病気に、斯くも深くかかわることもなく、生田長江にめぐりあうこともなかった…と思うと、数十年タイムスリップして、もう一度、高校時代をなぞりたいと思いました。

20170519生田長江② 20170519生田長江

(*)正確には、生田長江訳 ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」 隣人愛の節にある一節、「ただにその知識に反して談<カタ>る者のみ詐<イツワ>るにあらず、その無識に反して談る者は更に甚だしく詐る。しかしてかく汝等はその交際に於て汝等自らを談り、汝等自らを以て隣人を欺く。かく愚なるものは言う。「人と交われば品性を害<ソコナ>う。何らの品性を備えざる場合に於て特に然り」と。

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5月は看護の月

連休-観光案内やご無沙汰の郷里訪問で美しい自然に癒された方々も多いかと思います。

壮大な山野にはじまり、露地の片隅、小さな生垣、拙宅では100円ショップで求めた小さな植木?に到るまで、色合いは異なりますが緑、ミドリに自然の息吹を感じます。が、新緑・・・と申しますが、山々では、淡い黄色っぽい新芽を壮大に吹いている感ありのクスの大木もあれば、街々の生垣には名前通りに赤いベニカナメモチ(英名も赤が入ってレッドロビン)の燃えるような朱色もきれいです。

子どもの頃の郷里宝塚や大阪郊外の農村では、田植の準備が始まったものです。

そう云えば、5月の別名皐月<サツキ>は、田植すなわち早苗月<サナエツキ>に始まるそうです。また、五月雨<サミダレ>は、本当は梅雨<ツユ>のシトシト雨ですから、五月晴れはその合間の晴れ間でした。この言葉が生まれた旧暦5月、今の6、7月にぴったりだったのでしょう。ま、かつて住んだ九州や沖縄では、5月に梅雨が始まることもありますので、文字通りの五月雨、五月晴れもありました。

さて、連休も終わりました。どちらさまも、新年度事業が忙しくなってきた時期でしょう。

さてさて、その5月は世界的に看護の月です。ご承知のように、近代看護の祖であるフローレンス・ナイチンゲールの誕生日5月12日が看護の日ですが、この日を挟む週は看護の週、そして5月が看護の月です。

その国際ナースデー(International Nurses Day)は、1974(昭和49)年に国際看護師連盟(International Council of Nurses, ICN)が制定しました。日本では、1990(平成2)年に当時の厚生省により、記念日、週が制定され、翌年から各種催しが行われるようになりました。なお、ICNは、この日を記して、毎年、記念のコメントやキットを発表しています。今年は、「看護師:(社会を)導く声-持続可能な開発目標を目指して(2017 – Nurses: A voice to lead – Achieving the Sustainable Development Goals)」です。手前味噌ですが、間もなく4期生の研修が始まる私どもの「日本財団在宅看護センター起業家育成事業」のスローガンは、「看護師が社会を変える!!」なので、ちょっと近い感じ・・・と悦に入っています。自己満足ですが。

さて、ウィキペディアの5月の季語を見ますと、125もありました。ある季節を連想させるに斯くも豊富な語彙を持っている(国の)言葉ってあるのでしょうか?自然が豊かであったわが国には、豊かな文化が育ち根付いてきました。それを途切れることなく次世代に伝えることも大事なこころのケアの一環かと思いますが、皆さま、以下、全部読めますか?

立夏、初夏、卯月、卯浪、牡丹、更衣<コロモガエ>、袷<アワセ>、鴨川踊、余花、葉桜、菖蒲葺く、端午、菖蒲<ショウブ>、草合、武者人形、幟<ノボリ>、吹流し、鯉幟<コイノボリ>、矢車、粽<チマキ>、柏餅、菖蒲湯、薬の日、薬玉、新茶、古茶、風呂、上族<マユづくり時期の蚕>、繭<マユ>、糸取、蚕蛾、袋角<フクロヅノ:鹿の若いツノ>、松蝉、夏めく、薄暑、セル(毛織物の一種)、母の日、夏場所、夏炉、芭蕉巻葉、苗売、苗物、苗植う、茄子<ナス>植う、根切虫、練供養、葵祭、祭、筑摩祭、茄子、夏花、夏書き、西祭、若楓、新樹、新緑、若葉、柿若葉、椎若葉、樟若葉、常磐木落葉、松落葉、杉落葉、夏蕨<ワラビ>、筍、篠の子、筍飯、蕗<フキ>、藜<アカザ、雑草の1種>、蚕豆<ソラマメ>、豌豆<エンドウ>、豆飯、浜豌豆、芍薬、都草、踊子草、駒繋、かくれ蓑、文字摺草、羊蹄<ギシギシ>の花、擬宝珠<ギボウシ>、ゲンノショウコ、車前草<オオバコ>の花、罌粟<ケシ>の花、雛罌粟、罌粟坊主、罌粟掻、鉄線花、忍冬<スイカツズラ>の花、韮<ヒル>の花、野蒜の花、棕櫚の花、桐の花、朴<ホオ>の花、泰山木の花、大山蓮華、手毬花、アカシアの花、金雀枝<エニシダ>、薔薇、茨の花、卯の花、卯の花腐し、袋掛、海酸漿<ウミホオズキ>、蝦蛄<シャコ>、穴子、鱚<キス>、鯖、飛魚、烏賊<イカ>、山女<ヤマメ>、菜種刈、麦、黒穂、麦笛、麦の秋、麦刈、麦扱、麦打、麦藁、麦藁籠、麦飯、穀象<コクゾウムシ>

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地域社会 コミュニティを維持すること

先般、岡山県瀬戸内市で、財団主催の国際会議を開催させて頂きました。いずれホームページでご報告させて頂きます。私は、その間に鳥取県に参りました。こちらでは、私どもの親財団である日本財団が、地元と連携した壮大な鳥取県X日本財団プロジェクトを展開されています。今回は、私どもが行っている在宅看護センター起業家育成事業へのご参加をお願いするための訪問でしたが、それについては、また、別にして、道中で気が付いたことです。

岡山駅から因美線経由鳥取までは、特急で2時間弱ですが、それぞれの駅付近の、敢えて申しますと小ぶりの街を除けば、道中、まことに麗しい日本の原風景が続きます。時期的に新緑の候、レンゲがひろがる田畑、散在する民家、少しずつ異なる緑、翠、碧、ミドリ系に装った木々が群れる山々、時折現れる川と渓流・・・読もうと手にした本を置いて、移り行く景色を堪能しました。JRの線路に沿って整備された道路、時折、それにつながる道筋、いくばくかの信号は点滅しており、それ程、車の往来が多くないように見えました。まして、人の歩く姿はほとんどなく、ごくごく稀に畦道を行く人影がありました。また、遠景に高速道路でしょうか、集落の向こうあるいは集落をまたぐ橋梁も見えました。列車は2輌、1/3位の乗車、二組4人の外国人の姿もありました。

限界集落という単語が人口に膾炙されて久しく、さらに消滅集落という言葉も馴染みになりかけています。集落を横文字にするとcommunityコミュニティでしょうか。

1991年、もう50代でしたが、紛争地勤務の後、思い立ってジョンズ・ホプキンス大学大学院での研修の機会を頂きました。昨年開学100周年を迎えた世界初の公衆衛生大学院ですが、地域社会つまり集団の健康をどう護るかを学びました。ホプキンスのあるボルチモア市はアメリカでは最も古い街のひとつ、ペンシルバニアの石炭による工業化で栄えた他、良港に恵まれ、クラブ(カニ)サンドイッチが有名です。かつて栄えた街の中心部の住宅地はアフリカ系の人々ばかりになり、いわゆる白人は郊外の住宅地にと、やや二分化していました。私は、ちょうどその移行地帯にあるタウンハウスに下宿しました。家主は、アメリカ赤十字社のHIV/エイズプロジェクトの責任者という女性でした。

家主との契約は、食糧費、日常消耗品費は折半すること、可能な限り、週末には車で30分ほどのショッピングセンターに買い出しに同行すること、地域活動のお手伝いをすることでした。地域活動とは、ボランティア的な街の清掃や高齢者訪問ほか近郊の農村の人々が開く朝市の当番でした。夜明け5時頃からの市では、Farmers’ Market(農民市)と染められたお揃いのポロシャツを着て、色々な農産物を売りました。家主は、パイ作りが趣味で、毎日、アップルパイを食べさせられたこともありますが、何処ででも手に入るトイレットペーパー、洗剤、日常用のナプキン、サランラップや日常的なプラスチック製品は、わざわざ徒歩7, 8分のスーパーに廻って求めました。わざわざ回り道するのです。ある日、私は、「同じ値段なのに、どうして、郊外のショッピングセンターで買わないの?」のと尋ねました。

家主曰く。「年を取って、遠くに行けなくなった時、また、高級ショッピングセンターに行く余裕がなくなった時、ともかく、一応のものが手に入るスーパーが近くにないと困るでしょう。だから、この店が継続していて欲しいから、幾らかはここで買わなくっちゃ、ね」

地域社会communityが成り立つためには、私たち住民の自主協力が必要です。すべて国が、地方の行政つまりお上がやってくれるのではなく、自分の住む街をどう維持するか、ひとりひとりが、少しは長期的展望を持つことも必要なのだと教わりました。便利さだけ、しゃれたもの、欲しいものをどこかで自由に入手することだけでは地域社会は成り立たないのです。

時折、JRの廃線が話題になり、最後の列車に沢山のカメラマンが押し寄せます。でも、その地に暮らし続ける人々にとっては、それからの生活はどうなるのでしょうか・・・

災害の多いわが国では、ある地域に達する何本もの複数道路の整備は必要です。が、今後の高齢社会、何時までも誰でもが車を運転できる時代でも地域ばかりでもありません。

出来れば、たった2輌の列車でも、1輌でも、毎日、決まった時間に列車が走り続けてくれれば、地域の生活は安心ではないでしょうか。

車がなければ、毎日が成り立たない地域も増えました。が、地方のJRには、なるべく乗って、廃線予防に貢献することも、必要ではないか・・・と、流れゆく地域、地域の村落を眺めながら思いました。

鳥取

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祈り

熊本の地震から1年が、東北大震災からは6年が、阪神淡路大震災からは20有余年が過ぎました。

震度7という劇烈な揺れが、短時間に二度も襲った「平成28年熊本地震」では、本震にたいする前震などと云う言葉が生まれました。正式には「平成23(2011)年東北地方太平洋沖地震」と命名された、通称東北大震災は、1000年に一度の規模ともされますが、想像を絶する津波災害、そして福島では今も対応に苦慮される放射線災害が起こりました。阪神淡路大震災、正式には「平成7(1995)年兵庫県南部地震」は、先進国の人口過密都市を襲った巨大地震でした。この地震では、とても古いものではありましたが、私自身、生まれ育った郷里宝塚の実家が被災取り壊され、また、多くの知人を亡くしています。特に、生き埋めのまま、長時間の火災による死者の話は胸が痛みました、今もですが。

災害が直接原因の死者の数は、熊本が死者225人、負傷者2,753人、最大避難者数183,882人、行方不明者は0(2017.4.13 消防庁発表)、東北大震災は、死者15,893人、行方不明者2,553人、負傷者6,152人、最大避難者数40万人以上(2017.3.10 警察庁)、阪神淡路大震災は、死者6,434名、行方不明3名、負傷者43,792名、最大避難者数316,678名(2008 消防庁)です。

熊本では、本震から1年の4月16日、朝日新聞によりますと、避難生活中の体調悪化が理由でお亡くなりになった方々、いわゆる災害関連死の認定を、なお、少なくとも195人の方々のご遺族が審査待ちと報じています。その熊本の災害関連死は170名で、既に死者全体の3/4で、この数と比率は、かつての新潟中越地震のそれに迫っているとか。関連死認定は、その後の補償に繋がりますので、審査は、慎重になされねばなりませんが、災害が終わった後の家族の死は、日々の生活の維持、どこから手を付けてよいやらの復興や復旧、見慣れた地域の光景が一転した被災地のなかで、さらに人々を打ちのめます。近年では、災害救援の早い時期から、メンタルな支援も加えられていますが、やっと助かった、少し落ち着いたかと思う中での、親しい人の死が人々に与える打撃は、殊の外、強烈なようです。

 2005年、福岡県西方沖地震で、当時勤務していた看護大学学生が、島ごと避難された玄界島の人々のその後を調べさせて頂いたことがありました。それまで結束固く、協働で漁業に従事しておられたこともあるのでしょう、災害後のご年配者の死は、生き延びられた方々に、災害死とは異なるダメージを与えている様子をうかがいました。また、阪神淡路大震災の被災者の知人は、対話中に突然沈黙が訪れることは、今でもあります。

災害や紛争犠牲者、また避難民支援の現場では、しばしば死者や避難者の数の大きさが援助の規模の決め手になります。かつて、WHO本部緊急人道対策部門に勤務した際、ある紛争国に発生した自然災害支援の規模を議論する会議で、現地からの、遺体を保存する身体バッグとか遺体パウチとよばれる袋を何千も送付されたいとの依頼に対して、支援は生存している被災者、つまり生きている方々にのみすべきだとの意見と死者を弔う文化へも配慮が必要とのスタッフ間の激論の調整にてこずったこともありました。

 災害時、大きな救援が行われるにしても、外部には個々の死は見えにくく、災害=死者の数が独り歩きしかねません。それが災害の大きさとなってしまします。が、現実には、おひとりおひとりの命、個々の生きた証が消えたことによる、別の被災があります。

 不意に失われた命への畏敬と弔いは、年月の経過にかかわりなく、長い間、個々の人々の中で、繰り返し、繰り返し行われているはずです。それは、宗教の有無、宗旨の如何を問わず、また、祈りのありかた、形に何かを求めるかではなく、死者を悼む文化・・・でしょうか、先に述べた玄界島でも、お話しの途中に、ふとした沈黙が訪れることで気づいたことでした。

 最近読んだ東大寺長老森本公誠師によるドキュメンタリー的な「聖武天皇」からの受け売りですが、麗しい文化が栄えた時代のように思える天平時代(8世紀頃)ですが、かの東大寺の大仏様も、薬師寺も、法華寺もすべて、当時頻発した地震と、わが国を初めて襲った天然痘大流行をおさめるための祈りから発しているのです。

 気象庁の地震情報によりますと。先日2017(平成29)年04月18日00時40分と00時38分頃に福島県浜通りでM3.0、震度1が、また一昨日2017(平成29)年04月17日22時35分と22時30分頃に熊本熊本地方でM2.3、震度2と22時25分と22時22分頃には、同じくM2.2 震度1の地震が起こっています。わが国は、災害とともに生きてきたのです。

一周年、六周年・・・の問題ではなく、災害を忘れないこととともに、私どもは、常に祈りを忘れてはいけないと思いました。改めて、災害の犠牲者に祈りをささげたいと思います。

注 『聖武天皇 責めはわれひとりにあり』 森本公誠 講談社
  ISBN-10: 4062161389 ISBN-13: 978-4062161381

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さくら

少し肌寒く、時折、小雨も冷たい週末でしたが、桜は満開。と云っても、お花見に出かけたのではなく、ほんの100メートルばかりに先にある、さる企業の社員寮のたった4本の桜見物、でも見事でした。

日本中、桜の名所だらけですが、必ずしも数が問題ではありません。
日本五大桜は、それぞれ1本から数本です。岐阜県の根尾谷の国指定天然記念物淡墨桜は樹齢1500年ですから、聖徳太子の時代。山梨県の山高神代桜は、さらにさかのぼって、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征時に植えたという神話時代ですが、日本最古最大級の巨木で、樹齢1800年とか2000年、卑弥呼の時代です。福島県の三春町の瀧桜も有名、またまた、全山桜一色もあれば、何キロもの桜並木もあります。が、濃い緑の中の一本の薄墨紅色もあれば、少し時期がずれますが、列車やバスの窓から、はるかかなたに、重厚な山桜の古木が見えたり、誰もいない田んぼのあぜ道に見事な桜並木が続いていたりと、さまざまです。ただし、日本で桜がもてはやされるようになったのは、平安時代で、それ以前の万葉集の時代の花とは梅だったそうです。

新米医師の頃、花より団子の友だちがおにぎりを作り、数年間、桜写真撮りに大阪、京都、奈良近郊を走りまわったこともありました。

まずは、いにしへの奈良の都の八重桜 今日九重ににほひぬるかな (伊勢大輔)は、百人一首にあります。この歌は、奈良から宮中、つまり平安京に届けられた花を受け取った女官の伊勢大輔が即興で詠んだもの、奈良公園で詠まれたものではありません。が、いずれにせよ、奈良も京都も、その昔は、世界遺産ではありませんでしたが、名だたる観光地であり、どこもかしこも花よりも人が八重九重でした。

この伊勢大輔(イセのタイフまたはオオスケ)は、989年頃の生まれ、1060年頃に亡くなったとされる平安中期の女流歌人、父は、同じく歌人の大中臣輔親(オオナカトミのスケチカ)、高階成順(タカシナのナリノブ)に嫁し・・・と父や夫の名前は残っていますが、女性である伊勢大輔は役職名でしか残っていません。でも、11世紀の日本では、宮仕えしていた女性は読み書きができた上に、即興でこのような巧みな詩を詠めたのですね

 奈良で桜と云えば、何と云っても、数万本といわれる吉野山です。
この辺り一帯に桜が多いのは、山上に、修験道の本山である金峯山寺(キンプセンジ)を開いた役行者(エンのギョウジャ)が、山桜の木に蔵王権現(ザオウゴンゲン)を刻んだことから、信者たちが桜の苗木を寄進し、辺り一帯に植えたことによるとされています。とにかく、壮大な山のあちこちが桜です。

山の裾あたりを下千本、中腹の如意輪寺あたりを中千本、山頂に近い吉野水分神社(ヨシノミクマリジンジャ)あたりを上千本、さらに奥にある西行庵一帯が奥千本です。ここでいう千本は、単に多いということであって、それぞれ何千本もあります。そして下から、中、上そして奥千本へと、約1ヵ月近く、波のように満開が異動してゆきます。

ここでは、吉野好きの西行法師の 願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ を思い出しますが、実際、法師は、望み通り旧暦二月十六日(現在の4月上旬)に亡くなっています。

 桜といえば春ですが、実は、吉野の桜は12月、と私は思うことがあります。極寒の頃ですが、黒々とした幹と枝ばかりの桜の木々は、墨絵の世界。チラチラ粉雪の舞う吉野山を、まさに修験道の世界ですが、人影もなく、生と死の境界のような静けさの中を散策したことがあります。寒さはこの上なく、声も出ないほど寒かったものの、趣ある光景でした。

 さて、ご近所の4本桜、今朝は、はらはらと散り初めていました。
久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ(紀友則) たった数日の花は、潔さの代名詞でもありますが、しぶとく生き抜く力も必要な社会状況です。頑張りましょう。
来週には、もう若葉でしょうか?

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うだつが上がっている人々

やや古い言葉のような気もしますが、「うだつが上がる」とか、「うだつが上がらない」とか申します。若いころ、うだつが上がらないといわれるのは、ぼんやりと「さえない」とか「見栄えが悪い」という雰囲気を察知してはいましたが、さて、その「うだつ」とは何なのでしょう。

学生時代から新米医師の頃、盆踊りに凝って、各地をめぐったことがありました。数年間、熱心に通ったのは、一夏中、街の中が盆踊り一色になる岐阜県の「郡上踊り」でした。古い屋並み、ここで、隣りあう家と家の間、屋根と屋根の間に、小さな塀のような仕切りがあって、それを「袖うだつ」というのだと教わりました。つまり、一階の屋根の上で、お隣様との境界を示す塀とでも申しましょうか。古い江戸時代の絵には、その「うだつ」が見える立派な長屋が描かれたものがあります。それらの家々は、皆、うだつが上がっていたのでしょう。

では、なぜうだつを上げたのか?
まずは、お江戸の華であった火事の際の防火壁だったとか、強風で屋根が飛ぶのを防いだとかもありますが、次第に装飾的になったとも云われています。特に、江戸時代中期以降、各地で商業が繁栄した頃には、大通りに面する店々では、装飾性を強め、次第に派手々々しくなった、広告用のネオンサイン的役割もあったのかもしれません。
お金持ちが立派な「うだつ」をつける、「うだつ」がある家はお金持ち、うだつが上がっている次第となったのでしょう。これが高じて、大屋根の両側に、金のしゃち鯱<シャチホコ>風に、鴟尾<シビ>とよばれる魚の尾っぽ風の飾りを置くことがありますが、これもうだつの一種と聞いたことがあります。本当でしょうか?が、魚の尻尾を屋根に飾る理由は、魚のいるところは水の中ですから、火事除けの意味があったとか。さらにも一つ「?」付の話ですが、うだつという漢字は「梲」ですが、その木偏の上に、「ノ」をつけると税になります。うだつが上がって、屋根の上に飾り「ノ」が付く家は税金を払うとか・・・白川静先生の漢字の歴史を学ぶまでもなく眉唾ですが、面白い説ですね。

前置きが長くなりました。3月25日には青森県十和田市で、「日本財団在宅看護センター起業家育成事業」三期生の太田緑氏が、26日には、名古屋市緑区で同二期生木村いずみ氏が、30日には、一期生で既に在宅看護センター開業の大槻恭子氏が新たに看多機(小規模看護多機能居宅介護センター)を、年度が替わって4月1日は、北海道帯広市に隣接する音更<オトフケ>町では三期生片岡順子氏が、そして昨日4月2日には群馬県前橋市で、二期生高橋佳子氏が、それぞれ地元の方々を招いての開業式を開かれました。これで、合計26の在宅看護センターと二つの看多機が、日本財団在宅看護センターネットワークの下に稼働することになりました。
事務所がマンションといった、新しい建物であることもありますが、地方の古い住宅を活用しての開業もあります。ふと見上げると、鴟尾・・・うだつモドキが青空に輝いて見えました。
24時間、365日、各地域の健康と、安心・安全を支える26人、そしてこれから開業を目指す9人、そのすべての仲間は、すべからく、大いに「うだつが上がった」人々です。ご活躍を祈ります。

うだつモドキの鴟尾

うだつモドキの鴟尾

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いくさ

近々、花戦<ハナイクサ>という映画が封切られます。
戦国時代の京の街、紫雲山頂法寺<チョウホウジ>というお寺があります。関西では、旧盆の8月13-15日の間、観世音菩薩が衆生を救う際に33のお姿になられたとの信仰に基づく、近畿2府4県と岐阜県にある33のお寺をめぐる御詠歌を、仏壇の前で詠えますが、頂法寺は、その西国三十三カ所の第18番目の札所です。本堂の形から、通称六角堂と呼ばれていますが、このお寺の元祖ご住職が華道池坊流というよりは、華道の元祖専好師です。この方にまつわるお話が、映画になった由。あらすじは、天下の太閤秀吉が、千利休に切腹を命じた後、加賀百万石前田利家邸の大広間で、猿が戯れる画を背景に巨大な松を生け、かつての主君織田信長から「サル」とよばれた秀吉を諌めたということが主題です。いくさに武器はつきものですが、花によって戦<イクサ>に勝利をおさめたという、はやり言葉的にはまことにスピリチュアル、日本文化的な優雅ないくさの勝利です。

花にまつわる西洋の戦では、ばら戦争があります。15世紀中庸のイングランド、ともにエドワ-ドIII世の流れを継ぐランカスター家とヨーク家が権力争いした際、前者が赤いバラ、後者が白いバラを記章にしていたので、そう呼ばれたとされていますが、実際の戦いの場では、武器が使われているはずです。そして、この頃のヨーロッパでは、百年戦争とか30年戦争とか、長い戦争状態が続いていました。

そのヨーロッパでは、中近東からの避難民受け入れが首長選挙の大きな争点となっており、アメリカでは隣国との間に塀を作る話も、まだ、解決していません。どちらも、不法に国境を超えることを防ぎたい意向ですが、そもそも、何故、人々がヨーロッパやアメリカを目指すのか、です。中東は、果てしない紛争が続き、アメリカではあまりに顕著な経済格差があります。

中東一帯では、国と国が戦う戦争ではなく、国を名乗っているものの、国際的に国家と認知されてはいない「イスラム国」関連の地域紛争が主体です。イスラム過激派ともよばれるこの集団は、イラクとシリアを拠点に生まれ、ISIS<Islamic State of Iraq and Syria>とも名乗っていますが、そのシリアを国名とするシリア・アラブ共和国は、国家政府と反政府の激しい対立が続き、大統領勢力が及ぶ地理的面積は「イスラム国」よりも狭いほどですが、解決の糸口もない様に見えます。これらの地域には、近代的武器産業の工場、つまり武器の生産能力はないはずなのに、多様で破壊力の大きな武器武力が延々と行使されています。誰が、何のために、武器を提供しているのでしょうか?

破壊された建物、かつては瀟洒だった建物の壁一面の銃痕、そのような環境で育つ子どもたちが、全員が悪い人間になるとは思いませんが、いくさのほかに従事する仕事がないという社会の在り方を変えられないまま時間が流れています。武力に対し武力を行使するが故に、いくさは拡大し、さらに破壊力の大きな武器が必要になる。そして、行き着くところは核兵器、あるいは貧者の最終的武器とも云われるテロ。

そんな紛争地の若者に、平和な日本を見て欲しいと思います。
が、今や、ヨーロッパで問題となっている一匹狼テロリストの多くがイスラム国などの影響を受けていることを思えば、そのような地域の人々を招きいれることは日本にとってリスク・・・という考えは、ヨーロッパのポピュリズム、右傾化傾向とも同じ考えかも知れません。ならば、花戦<ハナイクサ>のような、雅やかなことごとを、それらの地に持ち込むことは不可能でしょうか。

遠い昔、日本のお祭り、アニメを難民の子どもたちに見せたい、ついでにお饅頭をお腹いっぱい食べられる日が作れないかと思ったことがありました。仲間には一笑に付されましたが、立花で敵をやっつける発想の日本人になら、出来そうな気がします。如何でしょうか?

[理事長ブログ ― ネコの目]
ウクライナ

昭和30(1950)年頃、日本を語る際に使われたキーワードにフジヤマ、ゲイシャ、スキヤキがありまた。今なら、ジブリ、ユニクロ、ポケモンでしょうか。

この度、チェルノブイルを訪問(先のブログ)しました。1991年に独立して今はウクライナですが、1986年の事故発生時は旧ソビエト連邦の一部でした。情報開示のなかった当時、初期状況は、現地ですら明らかでなかったことは、この事件の発端が、そもそもかなり離れたスウェーデンでの放射性物質の検知から外部に分かったことでも理解されます。事故直後、壮絶な消火作業では多数の消防士たちや動員された兵士に犠牲者が出ています。現地で、この事件の15年後になる2011年9月11日のアメリカ同時多発テロでの消防士を思い出しました。

長らく、私がこの国に持っていたイメージは、「屋根の上のヴァイオリン弾き」、主人公の牛乳屋さんテヴィエが住む、貧しい小さな村のユダヤ人たち・・でしたが、首都キエフは、そもそも、12,3世紀に栄えたルーシー族(ロシアという言葉の由来とも聞きました)のキエフ大公国の流れを汲む歴史的な街、広大なヨーロッパ中世風の街であることは納得ですが、ややさびれた風を感じたのは、まだ、冬であっただけでなく、この国のもつ何だかはっきりしない立場、立ち位置にもよるのでは、と思いました。

ソビエト時代に、キエフ空港で飛行機を乗り換えた経験がありましたが、国内に入ったのは初めて。空から見ても、走ってみても、この国はほとんど平坦、山らしい山は、南のクリミア山脈と西のカルパチア山脈しかなく、最高峰もたった2000mほどです。キエフは割合坂の多い街でしたが、かつて、ヨーロッパの穀倉地帯と呼ばれたように平坦な農業向きの国のように思いました。もっとも、時期的に、道中みぞれが降ったり、雑木林に雪が残っていたり、寒々とした荒野でした。朝の気温は1度程度、樺太辺りと同緯度ですから、さもありなんですが。でも、もう1カ月もすれば緑一色のステップとよばれる草原が出現するそうで、コサックの馬が疾走するイメージも浮かびました。

その国の一角に、原発が設置され、いくつかの核兵器工場があったと聞きましたが、何処にあったのか、お目にかかった方々も定かではありません。兵器工場がにぎやかな街中にあったり、まして、核兵器工場が、大っぴらに宣伝されたりすることはあり得なく、国が分裂する時には、かつての支配者が引き上げるのは当然でしょう。日本の近くでも、核兵器を持て遊ぶ方がおいでですが、紛争、戦争にまつわるどんな武器も、何一つ、人々に良いことはもたらしません。

人口の80%を占めるウクライナ人は親ヨーロッパ的ですが、1991年の独立来、親西欧と親ロシアの政治的せめぎあいが続いています。東部はロシア民族が多く、数年前に、自治権を持つ共和国化を目指す住民投票を行い、あっという間にそれをロシアが認知しました。そもそも、ウクライナの法律に反する住民投票でありましたが、現在に至るまで、ロシアが実質的に支配しています。一夜にして国籍が変わるなどは、古来、ずぅぅっと日本人であった一族の末裔の私には想像を超えていますが、親戚のおじさんは外国人などという話は、アフリカなどでも耳にしました。いずれにせよ、この国は、エネルギーの大半を委ねているロシアと交戦状態にあることもあって、ヨーロッパの最貧国のひとつです。

そのクリミアと云えば、1853-56年の間、ナポレオン支配の帝政フランス、ビクトリア女王治世の英国、当時の雄オスマントルコ帝国、さらに統一前のイタリア北部の小公国サルディニアが組んで、南下政策を取るロシアと戦いました。この近代最大の戦争とされた戦いは、結局、どの国も勝利も敗北もないまま、すべての関与国が疲弊し、そしてヨーロッパでは、中世以来の帝国のいくつかが滅び、イタリア統一のきっかけとなりました。その中で、イギリスから現地に赴いたナイチンゲールと、小国ながら勝ち組的立場をしめたサルディニア公エマニュエル2世が目立ちます。前者は、申すに及ばぬ近代看護の祖、後者は、続いて始まったイタリア統一戦争のリーダーシップを握りました。そのサルディニア公らが仕掛けたイタリア統一戦争の一場面が、赤十字の誕生につながるソルフェリーノの戦い・・・・と、かつて赤十字の看護大学に属した私には、忘れられない地名、などなど、ある国について思い出せばきりがなくなります。

北方領土問題を抱える日本はロシアとの関係も大事ですが、日本食レストランや日本語訓練も流行っており、とても親日的とうかがったウクライナを、もう少し詳しく理解してから、再訪したいものだと、自分の年齢を忘れて思いました。

17-03-22_キエフ郊外

17-03-22_ソフィア大聖堂

[理事長ブログ ― ネコの目]
朽ちてゆく村

詳細は、財団ホームページをご高覧頂きたいのですが、私ども笹川記念保健協力財団は、今を去る30年前、当時のソビエト連邦で発生したチェルノブイリ原発事故後、現地の人々、殊に子どもたちの甲状腺がん検診を支援しました。それから、早くも30年、一世代が過ぎました。昨年の30周年式典には、他用で参加できなかったのですが、今回、遅まきながらの現地見学の機会を得ました。

今はウクライナ国となった現地では、なお、多数の方々が、31年前の事故の「後始末」に尽力されています。ひとつの原子炉の爆発がもたらした筆舌尽くし難い経過は、多数の出版物に記されています。事故発生時の状況、少し専門的に申しますと、災害発生時から急性期にかけて生じたことごとくは福島と著しく異なりますが、ふたつの原発事故のたどるべき長き道程を思うと、言葉もありません。

当の原子炉は、フランス企業が関与した、高さ108m、幅275m、長さ162m、重さ36,000トン、地上最大の稼働建造物である新たなシェルターに覆われています。なお、そのシェルターが原発を被う1週間の移動シーンはyou tube(https://www.youtube.com/watch?v=dH1bv9fAxiY)にあります。昨日、現場を見た後で見直すと涙が出ました。原子炉を作ったのも、事故を起こしたのも、また、それに対応したのも、このシェルターを作ったのも人間です。

ガイドさんに案内されて、廃墟となった村落、華やかであったであろう住宅地の広場、人影もなく朽ちた家々の残る「雑木林」をめぐりました。
まっすぐに伸びる道の両側に点在する、それほど大きくなないが一戸建ての家々。雨漏りのせいでしょうか、天井が抜け、その下の床も腐っているお宅、小さなテーブルと4脚の椅子が、くしゃくしゃにもたれあい、埃りまみれのまま朽ちようとしている食堂らしき小部屋、ベッドルームだったのでしょうか、開かれたままの衣類棚に残る、古いプラスティックのかごは色も見えないほど埃が積もっています。広い前庭の奥の平屋は、幼稚園だったとか。金属製の枠だけの子ども用ベッドには、30年間、目を閉じないままの人形が座っていました。もはや原型をとどめないまま壁にかかっている布製の衣類らしきもの、そしてかつて人々が行きかっただろう舗装道路に、ひび割れを作り、もこもこと凹凸を付けている木の根、広大な広場の周辺の、ホテルの建物、ショッピングセンター、しゃれたレストランであったらしき建物、ベンディングマシンは錆びついたまま、傾いています。
シェルターは後100年間、原子炉を被うとされています。気の遠くなる年月。起こそうと思って起こされたのではない事故、災害の結果です。
朽ちてゆく村・・・しかし、私は、未来に立ち向かう人々の力を信じます。
毎年、8月に、私どもは、福島医大、長崎大学の協力を得て、福島県で、放射線災害に対する学生研修を行っています。
福島でも、無人となっている、草だけが茂った避難地域を通る時、人影もないコンビニ、さび付いた交通信号を見ると、にぎやかだった学生諸氏も口数が少なくなります。
ここで研修を開き、ウクライナの若者と交流できたら・・・と思いました。

巨大シェルターと記念碑

巨大シェルターと記念碑

事故のため完成しなかった隣の原子炉

事故のため完成しなかった隣の原子炉

幼稚園・・30年前から

幼稚園・・30年前から

 

廃墟の前‥猫柳は芽吹いています

廃墟の前‥猫柳は芽吹いています

 

 

 

[理事長ブログ ― ネコの目]
国境

2017年3月5日のニューヨークタイムスインタネット版に「国境を閉ざすことは『人道の危機』をきたす(Closed Afghan-Pakistani Border Is Becoming ‘Humanitarian Crisis’ 下部写真参照)」なる記事がありました。

目下の国境問題と云えば、アメリカとメキシコでしょうか。

選挙中から、全長3,141Kmにわたる両国国境に塀を造ると公約してきたトランプ大統領は、就任直後に壁建設を命じる大統領令に署名しました。そんなことができるのか、と思っていましたが、3月5日には、国土安全保障省傘下の税関国境警備局が、企業に壁設計案提出を求める方針を明らかにしています。そして、驚いたことに(というのは、私の意識の問題ですが)、壁建設事業に関心を示す企業が、何と300社もあることです。まだ、詳細が不明なままですが、彼の国でも、政府発注公共事業を受注してきた建設会社が多く手を挙げている様子です。100億ドル(約1兆1400億円)とか、250億ドルとかの総工費ですから、ビジネス的には大きな仕事かもしれませんが、何か釈然としません。

一方、上記ニューヨークタイムスの記事は、アフガニスタンとパキスタン間の通称デュランドラインとよばれる2,640Kmの国境です。

アフガニスタンやパキスタン北西部には、古来、同民族が住んでいましたが、1893年、当時は英領だったインド帝国の外務大臣モーティマ・デュランド(イギリス人)とアフガニスタン国王アブダラフマーン・ハーンが合意した国境線のせいで、同じ民族が片やアフガン人、片やパキスタン人に二分された経緯があります。この辺りは、1970年代の旧ソビエトのアフガン侵攻以来、タリバンやアルカイダや、現在のISISイスラム国と、落ち着かない状態が続いていますが、19世紀から20世紀にかけては、アフガニスタンという国の独立が(大英帝国によっ)保障されたことで、大英帝国と南下政策をとるロシア帝国間の、いわゆるグレート・ゲームがひとまずの安定を見たことは事実です。

間もなく40年にもなりますが、旧ソビエト軍の侵攻によって生じた数百万のアフガン難民がパキスタンに流入したのは、かつて同民族だった親和性によることは、現地で勤務した際に実感しました。

アフリカ諸国と共に、長く地域武力紛争が続いているこの地、荒々しい天候ではありますが、美しい自然に恵まれた地、どうすればこの地に安定が根付くのか、当時、鉄の鎖で仕切られただけの国境に比し、街灯が続いている、立派になった国境の写真を見ながら、ため息が出るばかりです。

アフニスタンとパキスタンの国境

アフニスタンとパキスタンの国境


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