[理事長ブログ ― ネコの目]
いくさ

近々、花戦<ハナイクサ>という映画が封切られます。
戦国時代の京の街、紫雲山頂法寺<チョウホウジ>というお寺があります。関西では、旧盆の8月13-15日の間、観世音菩薩が衆生を救う際に33のお姿になられたとの信仰に基づく、近畿2府4県と岐阜県にある33のお寺をめぐる御詠歌を、仏壇の前で詠えますが、頂法寺は、その西国三十三カ所の第18番目の札所です。本堂の形から、通称六角堂と呼ばれていますが、このお寺の元祖ご住職が華道池坊流というよりは、華道の元祖専好師です。この方にまつわるお話が、映画になった由。あらすじは、天下の太閤秀吉が、千利休に切腹を命じた後、加賀百万石前田利家邸の大広間で、猿が戯れる画を背景に巨大な松を生け、かつての主君織田信長から「サル」とよばれた秀吉を諌めたということが主題です。いくさに武器はつきものですが、花によって戦<イクサ>に勝利をおさめたという、はやり言葉的にはまことにスピリチュアル、日本文化的な優雅ないくさの勝利です。

花にまつわる西洋の戦では、ばら戦争があります。15世紀中庸のイングランド、ともにエドワ-ドIII世の流れを継ぐランカスター家とヨーク家が権力争いした際、前者が赤いバラ、後者が白いバラを記章にしていたので、そう呼ばれたとされていますが、実際の戦いの場では、武器が使われているはずです。そして、この頃のヨーロッパでは、百年戦争とか30年戦争とか、長い戦争状態が続いていました。

そのヨーロッパでは、中近東からの避難民受け入れが首長選挙の大きな争点となっており、アメリカでは隣国との間に塀を作る話も、まだ、解決していません。どちらも、不法に国境を超えることを防ぎたい意向ですが、そもそも、何故、人々がヨーロッパやアメリカを目指すのか、です。中東は、果てしない紛争が続き、アメリカではあまりに顕著な経済格差があります。

中東一帯では、国と国が戦う戦争ではなく、国を名乗っているものの、国際的に国家と認知されてはいない「イスラム国」関連の地域紛争が主体です。イスラム過激派ともよばれるこの集団は、イラクとシリアを拠点に生まれ、ISIS<Islamic State of Iraq and Syria>とも名乗っていますが、そのシリアを国名とするシリア・アラブ共和国は、国家政府と反政府の激しい対立が続き、大統領勢力が及ぶ地理的面積は「イスラム国」よりも狭いほどですが、解決の糸口もない様に見えます。これらの地域には、近代的武器産業の工場、つまり武器の生産能力はないはずなのに、多様で破壊力の大きな武器武力が延々と行使されています。誰が、何のために、武器を提供しているのでしょうか?

破壊された建物、かつては瀟洒だった建物の壁一面の銃痕、そのような環境で育つ子どもたちが、全員が悪い人間になるとは思いませんが、いくさのほかに従事する仕事がないという社会の在り方を変えられないまま時間が流れています。武力に対し武力を行使するが故に、いくさは拡大し、さらに破壊力の大きな武器が必要になる。そして、行き着くところは核兵器、あるいは貧者の最終的武器とも云われるテロ。

そんな紛争地の若者に、平和な日本を見て欲しいと思います。
が、今や、ヨーロッパで問題となっている一匹狼テロリストの多くがイスラム国などの影響を受けていることを思えば、そのような地域の人々を招きいれることは日本にとってリスク・・・という考えは、ヨーロッパのポピュリズム、右傾化傾向とも同じ考えかも知れません。ならば、花戦<ハナイクサ>のような、雅やかなことごとを、それらの地に持ち込むことは不可能でしょうか。

遠い昔、日本のお祭り、アニメを難民の子どもたちに見せたい、ついでにお饅頭をお腹いっぱい食べられる日が作れないかと思ったことがありました。仲間には一笑に付されましたが、立花で敵をやっつける発想の日本人になら、出来そうな気がします。如何でしょうか?

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ウクライナ

昭和30(1950)年頃、日本を語る際に使われたキーワードにフジヤマ、ゲイシャ、スキヤキがありまた。今なら、ジブリ、ユニクロ、ポケモンでしょうか。

この度、チェルノブイルを訪問(先のブログ)しました。1991年に独立して今はウクライナですが、1986年の事故発生時は旧ソビエト連邦の一部でした。情報開示のなかった当時、初期状況は、現地ですら明らかでなかったことは、この事件の発端が、そもそもかなり離れたスウェーデンでの放射性物質の検知から外部に分かったことでも理解されます。事故直後、壮絶な消火作業では多数の消防士たちや動員された兵士に犠牲者が出ています。現地で、この事件の15年後になる2011年9月11日のアメリカ同時多発テロでの消防士を思い出しました。

長らく、私がこの国に持っていたイメージは、「屋根の上のヴァイオリン弾き」、主人公の牛乳屋さんテヴィエが住む、貧しい小さな村のユダヤ人たち・・でしたが、首都キエフは、そもそも、12,3世紀に栄えたルーシー族(ロシアという言葉の由来とも聞きました)のキエフ大公国の流れを汲む歴史的な街、広大なヨーロッパ中世風の街であることは納得ですが、ややさびれた風を感じたのは、まだ、冬であっただけでなく、この国のもつ何だかはっきりしない立場、立ち位置にもよるのでは、と思いました。

ソビエト時代に、キエフ空港で飛行機を乗り換えた経験がありましたが、国内に入ったのは初めて。空から見ても、走ってみても、この国はほとんど平坦、山らしい山は、南のクリミア山脈と西のカルパチア山脈しかなく、最高峰もたった2000mほどです。キエフは割合坂の多い街でしたが、かつて、ヨーロッパの穀倉地帯と呼ばれたように平坦な農業向きの国のように思いました。もっとも、時期的に、道中みぞれが降ったり、雑木林に雪が残っていたり、寒々とした荒野でした。朝の気温は1度程度、樺太辺りと同緯度ですから、さもありなんですが。でも、もう1カ月もすれば緑一色のステップとよばれる草原が出現するそうで、コサックの馬が疾走するイメージも浮かびました。

その国の一角に、原発が設置され、いくつかの核兵器工場があったと聞きましたが、何処にあったのか、お目にかかった方々も定かではありません。兵器工場がにぎやかな街中にあったり、まして、核兵器工場が、大っぴらに宣伝されたりすることはあり得なく、国が分裂する時には、かつての支配者が引き上げるのは当然でしょう。日本の近くでも、核兵器を持て遊ぶ方がおいでですが、紛争、戦争にまつわるどんな武器も、何一つ、人々に良いことはもたらしません。

人口の80%を占めるウクライナ人は親ヨーロッパ的ですが、1991年の独立来、親西欧と親ロシアの政治的せめぎあいが続いています。東部はロシア民族が多く、数年前に、自治権を持つ共和国化を目指す住民投票を行い、あっという間にそれをロシアが認知しました。そもそも、ウクライナの法律に反する住民投票でありましたが、現在に至るまで、ロシアが実質的に支配しています。一夜にして国籍が変わるなどは、古来、ずぅぅっと日本人であった一族の末裔の私には想像を超えていますが、親戚のおじさんは外国人などという話は、アフリカなどでも耳にしました。いずれにせよ、この国は、エネルギーの大半を委ねているロシアと交戦状態にあることもあって、ヨーロッパの最貧国のひとつです。

そのクリミアと云えば、1853-56年の間、ナポレオン支配の帝政フランス、ビクトリア女王治世の英国、当時の雄オスマントルコ帝国、さらに統一前のイタリア北部の小公国サルディニアが組んで、南下政策を取るロシアと戦いました。この近代最大の戦争とされた戦いは、結局、どの国も勝利も敗北もないまま、すべての関与国が疲弊し、そしてヨーロッパでは、中世以来の帝国のいくつかが滅び、イタリア統一のきっかけとなりました。その中で、イギリスから現地に赴いたナイチンゲールと、小国ながら勝ち組的立場をしめたサルディニア公エマニュエル2世が目立ちます。前者は、申すに及ばぬ近代看護の祖、後者は、続いて始まったイタリア統一戦争のリーダーシップを握りました。そのサルディニア公らが仕掛けたイタリア統一戦争の一場面が、赤十字の誕生につながるソルフェリーノの戦い・・・・と、かつて赤十字の看護大学に属した私には、忘れられない地名、などなど、ある国について思い出せばきりがなくなります。

北方領土問題を抱える日本はロシアとの関係も大事ですが、日本食レストランや日本語訓練も流行っており、とても親日的とうかがったウクライナを、もう少し詳しく理解してから、再訪したいものだと、自分の年齢を忘れて思いました。

17-03-22_キエフ郊外

17-03-22_ソフィア大聖堂

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朽ちてゆく村

詳細は、財団ホームページをご高覧頂きたいのですが、私ども笹川記念保健協力財団は、今を去る30年前、当時のソビエト連邦で発生したチェルノブイリ原発事故後、現地の人々、殊に子どもたちの甲状腺がん検診を支援しました。それから、早くも30年、一世代が過ぎました。昨年の30周年式典には、他用で参加できなかったのですが、今回、遅まきながらの現地見学の機会を得ました。

今はウクライナ国となった現地では、なお、多数の方々が、31年前の事故の「後始末」に尽力されています。ひとつの原子炉の爆発がもたらした筆舌尽くし難い経過は、多数の出版物に記されています。事故発生時の状況、少し専門的に申しますと、災害発生時から急性期にかけて生じたことごとくは福島と著しく異なりますが、ふたつの原発事故のたどるべき長き道程を思うと、言葉もありません。

当の原子炉は、フランス企業が関与した、高さ108m、幅275m、長さ162m、重さ36,000トン、地上最大の稼働建造物である新たなシェルターに覆われています。なお、そのシェルターが原発を被う1週間の移動シーンはyou tube(https://www.youtube.com/watch?v=dH1bv9fAxiY)にあります。昨日、現場を見た後で見直すと涙が出ました。原子炉を作ったのも、事故を起こしたのも、また、それに対応したのも、このシェルターを作ったのも人間です。

ガイドさんに案内されて、廃墟となった村落、華やかであったであろう住宅地の広場、人影もなく朽ちた家々の残る「雑木林」をめぐりました。
まっすぐに伸びる道の両側に点在する、それほど大きくなないが一戸建ての家々。雨漏りのせいでしょうか、天井が抜け、その下の床も腐っているお宅、小さなテーブルと4脚の椅子が、くしゃくしゃにもたれあい、埃りまみれのまま朽ちようとしている食堂らしき小部屋、ベッドルームだったのでしょうか、開かれたままの衣類棚に残る、古いプラスティックのかごは色も見えないほど埃が積もっています。広い前庭の奥の平屋は、幼稚園だったとか。金属製の枠だけの子ども用ベッドには、30年間、目を閉じないままの人形が座っていました。もはや原型をとどめないまま壁にかかっている布製の衣類らしきもの、そしてかつて人々が行きかっただろう舗装道路に、ひび割れを作り、もこもこと凹凸を付けている木の根、広大な広場の周辺の、ホテルの建物、ショッピングセンター、しゃれたレストランであったらしき建物、ベンディングマシンは錆びついたまま、傾いています。
シェルターは後100年間、原子炉を被うとされています。気の遠くなる年月。起こそうと思って起こされたのではない事故、災害の結果です。
朽ちてゆく村・・・しかし、私は、未来に立ち向かう人々の力を信じます。
毎年、8月に、私どもは、福島医大、長崎大学の協力を得て、福島県で、放射線災害に対する学生研修を行っています。
福島でも、無人となっている、草だけが茂った避難地域を通る時、人影もないコンビニ、さび付いた交通信号を見ると、にぎやかだった学生諸氏も口数が少なくなります。
ここで研修を開き、ウクライナの若者と交流できたら・・・と思いました。

巨大シェルターと記念碑

巨大シェルターと記念碑

事故のため完成しなかった隣の原子炉

事故のため完成しなかった隣の原子炉

幼稚園・・30年前から

幼稚園・・30年前から

 

廃墟の前‥猫柳は芽吹いています

廃墟の前‥猫柳は芽吹いています

 

 

 

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国境

2017年3月5日のニューヨークタイムスインタネット版に「国境を閉ざすことは『人道の危機』をきたす(Closed Afghan-Pakistani Border Is Becoming ‘Humanitarian Crisis’ 下部写真参照)」なる記事がありました。

目下の国境問題と云えば、アメリカとメキシコでしょうか。

選挙中から、全長3,141Kmにわたる両国国境に塀を造ると公約してきたトランプ大統領は、就任直後に壁建設を命じる大統領令に署名しました。そんなことができるのか、と思っていましたが、3月5日には、国土安全保障省傘下の税関国境警備局が、企業に壁設計案提出を求める方針を明らかにしています。そして、驚いたことに(というのは、私の意識の問題ですが)、壁建設事業に関心を示す企業が、何と300社もあることです。まだ、詳細が不明なままですが、彼の国でも、政府発注公共事業を受注してきた建設会社が多く手を挙げている様子です。100億ドル(約1兆1400億円)とか、250億ドルとかの総工費ですから、ビジネス的には大きな仕事かもしれませんが、何か釈然としません。

一方、上記ニューヨークタイムスの記事は、アフガニスタンとパキスタン間の通称デュランドラインとよばれる2,640Kmの国境です。

アフガニスタンやパキスタン北西部には、古来、同民族が住んでいましたが、1893年、当時は英領だったインド帝国の外務大臣モーティマ・デュランド(イギリス人)とアフガニスタン国王アブダラフマーン・ハーンが合意した国境線のせいで、同じ民族が片やアフガン人、片やパキスタン人に二分された経緯があります。この辺りは、1970年代の旧ソビエトのアフガン侵攻以来、タリバンやアルカイダや、現在のISISイスラム国と、落ち着かない状態が続いていますが、19世紀から20世紀にかけては、アフガニスタンという国の独立が(大英帝国によっ)保障されたことで、大英帝国と南下政策をとるロシア帝国間の、いわゆるグレート・ゲームがひとまずの安定を見たことは事実です。

間もなく40年にもなりますが、旧ソビエト軍の侵攻によって生じた数百万のアフガン難民がパキスタンに流入したのは、かつて同民族だった親和性によることは、現地で勤務した際に実感しました。

アフリカ諸国と共に、長く地域武力紛争が続いているこの地、荒々しい天候ではありますが、美しい自然に恵まれた地、どうすればこの地に安定が根付くのか、当時、鉄の鎖で仕切られただけの国境に比し、街灯が続いている、立派になった国境の写真を見ながら、ため息が出るばかりです。

アフニスタンとパキスタンの国境

アフニスタンとパキスタンの国境

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里は笑わないのでしょうか?

先般、「山笑う」という季語をご紹介しました。

里も笑うのでしょうか?季語を調べてみましたが、里桜、里燕、里祭、里若葉などはありましたが、里は笑わないようです。

が、ご覧ください。里も晴れやかに笑っているように見えました。 菜の花畑では、一匹のアブ様の虫ドノが、忙し気にはたらいていました。忙しくって、笑ってはおれない・・・すみません。写真なんぞを取らせて頂いて・・・

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ネパールのハンセン病スクリーニングキャンペーン

今週は、昨年4月に続いて、ネパールに参っています。と申して、今夕帰国しますが。
2年前、2015年4月25日にマグニチュード7.8の大地震がネパールを襲いました。お隣のインド、チベット、バングラディシュにも被災が出たほか、ヒマラヤトレッキング中の観光客ら15カ国の犠牲者を含む各国の100名以上を合わせ、総計9,000名近くの命が失われました。直後、私どもは、被災地の中で、かつてのハンセン病罹患のために障害を残しておられる方々が複数おられる地域への緊急支援を致しました。昨年4月は、そのフォローアップに参った間、日本では熊本に前震などと云う言葉が生まれる原因となった強烈なシリーズ地震が発生しましたので、印象は特別です。

緊急支援フォローアップと同時に、なお、ハンセン病が多く残る世界16カ国中第8位のネパールの関係者とも意見交換した結果、比較的、ハンセン病者が多いことが判っている15地域中、インド国境地帯から、短期集中スクリーニングの実践が浮かび上がりました。そこで、ネパール政府保健省が中心となり、WHOネパール事務所、ハンセン病対策に関与するNGO/NPOらが協力する地域限定集中スクリーニング計画が提案され、私どもも支援することを決めました。今回、その2地域での成果を確認するために参りました。

初日は、首都カトマンズで保健次官、大臣を表敬しました。いささか失礼な言い方ですが、この国には、まだまだ、対策不十分な感染症が沢山あります。その中で、ハンセン病対策を第一にお考え頂くことの困難さは百も承知ですが、しっかりしっかりお願いと申すか、確認をさせて頂きました。ハンセン病の原因のらい菌は、とても弱い菌で、滅多なことでは感染しない、発病までの、いわゆる潜伏期も何年もという長期、そして困ったことに、痛くも痒くもないどころか、痛みを感じなくさせてしまうのです。熱も出ないし、やせもしない・・初期に、病気という認識は持ちがたい、ホントに厄介な病気なのです。大概の場合、初期は皮膚斑紋、それだけといえばそれだけ。見かけでは、何処が病気?という時期も長く、直ぐには生命に危機をもたらさない。しかし、放っておくと四肢末端や顔面という、見えるところに障がいを来すために、差別偏見の対象にされてきた・・・

さて、昨年10月頃から始まったバルギラとネパールグンジュというネパールの南西部の2地域の短期集中スクリーニングの経過を拝見しました。沢山の地域ボランティア・・ヘルスワーカー/保健作業者に初期症状などの見分け方を伝授し、1週間という限られた期間に、一斉に地域内を歩く、疑わしい人が見つかったら、簡単な診断治療を行える保健専門家が常駐する保健ポストで確認し、さらに地域病院やハンセン専門家がいる施設で確定診断と進み、ある地域では住民の85%程度に当たる323,758名を調べ、1,754名の疑い者をみつけ、内145名が感染者と確定診断され、直ちに無料の多剤併用療法をうけておられます。お訪ねした一軒では、7名家族中3名が感染者でしたが、どなたも、ご自分が病気という意識はお持ちでなかった・・・幸いなことに、これらの人々は、重篤な障がいを示しておらず、治療によって、根治出来るレベルでした。メディアを動員し、学校検診を活用したことなど、新たな取り組みも拝見しました。報告会では、地域の保健局長らも出て下さり、関心の高さがしのばれましたが、この一大キャンペーンは、日本の長崎大学での研修経験を持つ、保健省のハンセン担当局次長パンディ医師の貢献大であります。(Meeting Nepal’s Challenges)

ネパールは、ご承知のようにヒマラヤ山脈の傍、大国インドと中国に挟まれた内陸国です。かつて、国立国際医療センター(当時)勤務時にも、この国最初の医学部が開設されたトリプバン大学など、いくつかのJICAプロジェクトに関与させて頂き、何度も訪問しています。それから25年、昨年の地震被災地の山岳地帯もそうでしたが、今回の南西部のかなり辺鄙な村落でも、ほぼ電気が通り、プロパンガスコンロが設置されています。また、大通りはほぼ舗装されており、かつての低開発国色は相当消えています。何よりも、首都カトマンズだけでなく、南西部のネパールグンジュでも、多数の黄色いスクールバスが走っています。そして、高校生でしょう、見かけは大人と同じの体格の男女から、教材が入っているのでしょうか、背にしているナップザックが地面に届きそうな小さな子どもまで、制服姿を各所に眺められました。

まだ、裸足で牛を追っている子どもがゼロではありませんし、中年以降の、特に女性たちの識字率が十分上がっているとは思えませんが、この国は、今、変化の途上にあると思いました。かつて、この国に関与した仲間からは、最後の王政の頃の政治的混乱、いわゆるマオイスト(共産主義者)の跋扈が、特に地方への関与を難しくさせていたことを憂いる便りも受けましたが、今は、明らかに変化の途上にあると確信しました。

ある国が、どのようであるか・・を短時間の訪問で評価はできませんが、感じることはあります。
ヒマラヤを抱くこの国は、やっと平静さを取り戻したのでしょう。インドのカレー料理とは、ちょっと味が違いますが、数日間、カレーに浸った胃は、少し、良い意味のヒリヒリを感じています。ほどほどの開発の中で、ハンセン病のスクリーニングが、他の疾患対策への活用を前提に、しっかりと根付いて欲しいと願いました。

スクールバス_ネパール

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緩和ケアの医師たち

笹川記念保健協力財団は、43年前、世界のハンセン病対策のために設立されました。財団企画の催しにご参加下さったか、ホームページをご高覧頂いたなら、ご承知のことであり、複数回同じ話を聞いて下さった方もおありでしょう。つまり、常にその前口上を述べるほど、私どもにとってのハンセン病対策は、重要なraison d’être(存在意義)であり、今もそれは替わりません。

先週、私どものもう一つの重要なプロジェクトに関する集まりを持ちました。
私どもは、2001年以来、ホスピス緩和ケアに従事する医師の養成を支援しています。(財団HP: ホスピスドクター研修ネットワーク
養成支援・・・とは大げさな云い方ですが、当時、まだ、耳新しかったこの分野の数少ない先達にお願いして、当該分野を専門的に学ぼうとされる医師のご指導を委ねる、いわばマッチング役を始めたのは、名誉会長日野原重明のイニシアティブでした。同様に、緩和ケア、ホスピスケアを学ぶ看護師たちのネットワークも2002年以来です。医師は、2017年1月現在94名が、看護師は3,800余名が登録されています。

医師に関して、私どものプログラムにより緩和ケアを研修された医師が20名に到った2005年から、年に1度の交流会を開催しています。(財団HP: ドクターネットワーク情報交換会
毎回、平均20名前後のお集まりですが、形式ばった会でなく、また学会のような決まりがある訳でなく、世話役をお引き受け下さるメンバーの企画で、毎回、新たな試みがあります。

今回は、初めて現場見学を加えることが企画され、現在の世話役でもある相河 明規先生(ケアタウン小平クリニック)他、これまでたくさんの医師の研修を受け入れてくださった聖ヨハネ会桜町病院のホスピスが会場となりました。

午前午後には、それぞれ現在研修中の医師と、今や各地の第一線で活躍中のかつての研修生の発表、そして意見交換、昼食時には二組に分かれて、ホスピスの見学、最後は場所を変えての懇親会・・・9時半から19時半の長丁場でしたが、退屈するどころか、どのご発表もご意見も時間不足、経験の長さは異なりますが、一言で申せば、緩和ケアが果てしなく幅広く奥深いものであることへの想いと、そのための実践の奥義が論じられたと思いました。

「ひとが生まれる時と死ぬ時は神様の領域」なのに医者が入っておかしくしている、とのコメントを読んだこともありました。進行した認知症や回復見込みのない終末期病者への胃ろう、止められないまま継続される点滴、呑めもしない膨大な投薬・・・などなどが過剰医療ともみなされ、高齢者医療費抑制もあって、それこそやや過剰に議論もされています。
終末期が神の領域とは、言い得て妙であり、ある意味で真実だと思いたいですが、今は21世紀、やはり科学の力を活用することを放棄すべきではないと、私は思います。
いずれにせよ、どんな人も、ヒトが生物である以上、生存の長さが如何に伸びようとも、有限であることは事実。その中、終末期問題がにぎやかになっていること自体、高齢社会であり、多死社会を示しているのかもしれません。

が、どこで、どのように生を終えるかの議論が喧しい割には、一体、それをどのように実践するのか、誰がそれをどのように担い、経費はどうするのか・・・あまり具体的な議論は少ないように思います。

いつもの年寄りの繰り言をお許し頂きたいのですが、私が小児科医だった1960, 70年代は、わが国の出生率ははるかに高く、今もそうですが、こどもは死すべきではなく、当然、長い一生をまっとうすることが前提でした。つまり、当時の小児科医は病気を治すこと=治療cureが至上の使命でありました。

過日の「緩和ケア医」の集まりに陪席してオールド元小児科は思いました。確かに、ひとが生を終える時は、身体的だけではなく精神的あるいは流行りの言葉ですが、スピリチュアルなケア=careが必要な時期なのだと。そして、生の終焉とは、実は年齢に関係なく、幼子にも青年にも壮年期にもあるのだ、と。

緩和ケアは終末期ケアそのものではなく、適切な緩和技術を行使することで、積極的な治療cureが可能なこともあるのですが、過日、お集まりくださった医師たちは、誰にも訪れる生の終末期を扱う際には、文字通り、神の域に近づきながら、持てる科学の知識を行使しておられると思いました。当日、ご参加下さった山崎章郎先生(ケアタウン小平)と川越厚先生(クリニック川越)は、そう思って拝見すると、何だか神様のようなお顔に見えました。

集まったメンバーとの記念撮影

集まったメンバーとの記念撮影

聖ヨハネホスピスラウンジ

 

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山笑う

俳句の季語に「山笑う」というのがあります。何時の季節かお判りでしょうか?

昨年来、二度目となる全国のハンセン病療養所への表敬を致しています。
3年前には、南から順番にお訪ねさせて頂きましたが、今回は、岡山県の長島愛生園と邑久光明園から始め、東京都の多磨全生園を終えて年末。年が明けて宮城県東北新生園と青森県の松丘保養園、先週は鹿児島県と熊本県でした。

2月2日に鹿児島県に飛び、星塚敬愛園を訪問しました。東京からはかなり暖かに感じた鹿児島で1泊し、壮大な桜島、そしてはるかに開聞岳を眺めました。次いで、新幹線で熊本へ。九州新幹線の南半分はとても沢山のトンネンル続きです。つまり、列車は、山のお腹の中を疾走しますが、合間合間には、濃い緑が美しく眺められます。そして、時には遠方に海もみえます。

菊池恵楓園は、熊本市の北東部に位置する合志市にあります。災害で馴染みのなかった地名を覚えることが増えましたが、町の大半が被災した益城町のほぼ北に位置します。熊本は、周辺で修復工事が始まっていますが、無残な姿が目につく熊本城あたりを含め、昨年4月の地震の名残であろうブルーシートも残っています。世界最大のカルデラ火山阿蘇は、熊本からは見えません。

菊池恵楓園訪問の夜は、福岡県朝倉市杷木に借りている古民家に1泊しましたが、周りは山また山・・・翌日は、その山家の拙宅を出て、有名なクルーズトレイン「ななつ星」も走る九大線の無人駅筑後大石駅から一両だけの列車に乗って、久留米で開催された「日本ホスピス在宅ケア研究会in久留米」に参加しました。列車は、筑紫次郎ともよばれる筑後川の南側を走ります。車窓の南には、まだ、寒いながら、うらうらとした日差しの中で、鷹取山、発心山、耳納山がかすんで見えます。

久留米で一泊後、翌日は再び熊本へ。前熊本県知事で、現在日本社会事業大学理事長であられる潮谷義子先生のお招きで、県の男女共同参画事業の大会でお話しさせて頂きました。その夜は、熊本大学、県看護協会、その他地元のご関係の方々との懇親会を楽しみ、翌朝は新幹線で博多、つまり福岡県へ。久留米、博多と都市圏に近くなりますと、ビルの波ですが、やはりもやっとした山が眺められました。

弊財団の事業である「日本財団在宅看護センター」を企業運営するための看護師研修を終えて、既に開業している仲間と関係者への支援お願い。そして、博多から高速バスで、再び、朝倉市の杷木へ。

突然、思い出したのが「山笑う」、
正岡子規の句の「ふるさとや どちらをみても 山笑う」

です。子規が見た笑っていた山は、どの山なのか・・・ですが、山が笑うのは春なのです。

まだ、寒いです。けど高齢化の視力低下では決してありませんよ。何となく遠くの山がかすんで見える季節になっています。

そして東京に向かう前に買ったのは、福岡拠点の西日本新聞です。このローカルながら、とても興味深い記事が沢山載る新聞の、さらに興味深い聞き書きシリーズは、現在、前述潮谷先生の「命を愛する」です。それを読もうと開いたページは、投書欄なのですが、そのテーマが「山眠る」でした。山が眠るのは・・・冬、山も冬眠するのですね。で、「山滴る」のは夏で、「山粧う<ヨソオウ>」は当然秋ですね。

「山笑う」春は、もうすぐです。

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看護師が社会を変える

私ども公益財団法人笹川記念保健協力財団が、親財団である日本財団の強大な協力を基に、高齢化がすすむ地域の保健医療サービスを支える「日本財団在宅看護センター」を企画運営できるように、看護師サンたちの経営者への変身を支援する研修事業を開始して3年経ちました。過日、この研修からみの公開講座の第4回を開催しました。

初日Part 1は、8カ月の研修を終えて、既に各地で開業している仲間の内から以下の5名が経過と現状を発表しました。

横浜市 株式会社日本財団在宅看護センター横浜 代表取締役社長
兵庫県豊岡市 一般社団法人ソーシャルデザインリガレッセ 代表理事
東茨城郡 一般社団法人ハーモニーナース 代表理事
岡山市 合同会社岡山在宅看護センター晴 代表社員
福岡県宗像市 一般社団法人ミモザ 代表理事

3年または2年前には、優しい、しかしオーソドックスでどちらかと云えば受け身の姿勢だったナース、その5人が、今や地域の保健医療体制の一角を担う経営者の、ちょっと厳し気な雰囲気を備えたナイスミディに、ものの見事に変身しています。同じ時期、共に学んだ仲間、そしてこの分野に関心を持つ数十名が、熱心に聴講下さいました。看護師諸氏が、社会を変えようとする姿勢を強く感じました。嬉しい限りです。

二日目のPart 2は、各地で365日24時間、地域の健康を支えておられる以下の4名の在宅医療の先達医師のお話しでした。

渡邉淳子先生(東京都葛飾区 医療法人 淳友会 わたクリニック 院長)
川越厚先生(東京都墨田区 医療法人社団パリアン クリニック川越 院長)
二ノ坂保喜先生(福岡県福岡市 医療法人にのさかクリニック 院長)
船戸崇史先生(岐阜県養老郡 医療法人社団崇仁会 船戸クリニック 院長)

期せずして、すべての先生方が述べられたことは、人々が生をまっとうする際へのかかわりは、科学的技術的かつ医学的技術のみならず、その人が如何に生きてこられたか、ある人の人生を総括できる対応であり、故にそれを可能ならしめ、人を丸ごと包み込むケアができる医療者が必要なこと、そして地域医療の中心は在宅看護師だとのこと。深く心にしみわたるお話の数々、聴講者一同ともども、身が引き締まる思いでした。

走りながら考える、という言葉がありますが、社会の変化とそのニーズに応じるべく始めたこの事業は、走ってから考えたことも事実、その意味では、過去3年間の研修生1、2、3期生は事業の仲間であり、壮大なプロジェクトの同志でもあります。

Part 1で、にこやかに講演している裏には、涙の物語や失敗談もあったのでしょうが、それを乗り越え、社会を変えつつある新しい看護師の姿を、私は少しうっとりと、そして敬意を表しながら眺めました。

斯く斯様に申している間にも、世界の、そして日本の社会は激しい変化を求められています。伝統はまもりつつも、新たな挑戦が必要な時代です。ご関心の向きは、財団ホームページをお訪ね下さい。

>>日本財団在宅看護センター起業家育成事業のページ

>>2017年度 第4期生の募集要項のページ

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民主主義-Democracyデモクラシィ

アメリカ大統領が替わりました。民主的な制度で選ばれたはずなのに、世界中で反対デモが広がっています。が、それも民主的な行動です。

1月20日夕刻、港区赤坂の職場の前で、手に手にプラカードを掲げたデモ行進がありました。何の?と思いましたら、反トランプのそれ、やや外国人が多いようでした(「トランプ次期大統領に対し 東京で女性の権利訴えるデモ」)

高校時代、医学部に行くか歴史を勉強するか迷ったほど、歴史には関心がありましたが、世界史とは、さまざまな対立の記録のように思います。領地や資源をめぐる、今から申せば侵略戦争も沢山あり、武力武器行使によって生命が失われ続けてきました。宗教や思想、民族の違いがきっかけとなって始まった闘争も多数ありました。戦争の世紀とも云われる20世紀の二つの世界大戦は、それまでの戦争の規模を変えると同時に、戦争を憎む風潮も高めたと思います。昨年のオバマ前アメリカ大統領の広島訪問、そして先日の安倍首相のパール・ハーバー訪問は、憎しみから和解へが如実に示されたものと理解できます。

第二次世界大戦の終結は、いわゆる武器行使を伴う熱いhotな大規模戦争の終焉・・・と思われました。戦争を起こさないことを目的とする新たな国際連合も創設されましたが、間もなく、西側自由主義と東側社会主義の思想対立が45年間の冷戦cold war状態を作りました。

1980年代末、一方の雄ソビエト連邦が自壊し、その傘下にあった東ヨーロッパ諸国にも民主化が続きました。世界は、平和で自由主義市場経済が栄えるとの幻想が生まれました。が、間もなく、東西の大国に支配されていた多数の中小国の中で、民族や宗教などの違いがきっかけとなる権力闘争が始まりました。現在に続く地域武力紛争(国際分野では、CHE<complex humanitarian emergency複雑な人道的危機>)の幕開けでもありました。その過程で生まれたのがアル・カイーダであり、タリバンであり、ボコ・ハラムであり、そしてイスラム国でもあると申せます。

東西冷戦の最後の戦線だったアフガニスタンからの難民支援に従事したのは、もう30年近く前になりますが、武器を身近に、ある種権力闘争に明け暮れている人々(必ずしも男性だけではありませんでした)の意識は、とても20世紀のそれとは思えない、民族の独自制とは異なる独特の、あえて申せば勝手な独善性があったように思います。勿論、会ったことはありませんが、15世紀の織田信長もこんな考えではなかったのかナと思うようなゲリラのボスもおいででした。彼らは、近代科学の中から、都合の良い武器と自動車・・・ほとんどはトヨタでしたが・・・だけを取り入れ、考え方は伝統的なまま、と申すより、都合よくそれを利用しているように思えました。不都合は、伝統や民族性、時には神様の所為にして、武力を振りかざすして勢力を維持しようとしているように見えました。ですが、武力に頼るものは、武力で倒れることも事実です。

ご承知のように、民主主義democracyの語源は、古代ギリシャ語にルーツがあります。民衆を意味するdemosと支配権力を意味するkratos=cracyの合成語で、民衆による支配、人民が持つ権力を意味します。

この度の大統領選挙では、基本的には民主的ではありましたが、大国アメリカにしては見苦しいゴタゴタが多くあり、一方に、経済格差の拡大が争点であったことから、アメリカの民主主義と市場経済主義が失敗だったとの意見を持った国もありました。でも、世界の歴史をみても、真に国が安定するに、民主主義に替わる理念や思想あるいはそれに基づく制度以上のものは、まだ、生まれていない・・・とされていますし、事実もそうではないでしょうか。民主主義が機能しないとすれば、それは民である私たちの勉強不足、民力の行使が不足しているからだと、私は思っています。今、世界が変わろうとしている、いえ、世界は変わらなくては存続できない事態に差し掛かっているのかも知れません。民主主義をどう活用するべきでしょうか?

アメリカは、自由と民主主義を旗印に建国された国であり、世界の民主主義の旗頭でもあるべき国でしょう。「すべての人間は平等につくられ、創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている。」と独立宣言にはあります。そして「これらの権利を確保するために、人は政府という機関をつくり、その正当な権力は被支配者の同意に基づいていなければならない。もし、どんな形であれ政府がこれらの目的を破壊するものとなった時には、それを改め、または廃止し、新たな政府を設立し、人民にとってその安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思える方法で、新しい政府を設けることは人民の権利である。」ともあります。被支配者の同意は民主主義の基本ですが、その政府が持つべき権力は被支配者の同意に委ねられ、それがまっとうされなければ政府を改める・・・ともあります。

聴衆の数を気にされ、democracyでは重要な役割を持っているメディアとけんか腰に対決される大統領は庶民性があるのだと思いますが、英語にも“Agree, for the law is costly.(直訳は、「和解せよ。法を頼る=訴訟はお金がかかる」)とのことわざがあります、つまり金持ち喧嘩せず・・・民主的に話し合ってほしいものですが、もう相当にこじれています、ね。4年間、どうなるのでしょうか?


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