[会長ブログ ― ネコの目]
在宅医療と在宅看護師

「うかうか、のうのうと暮らしてきたのではないけど、気が付いたら後期高齢者って、あまり自慢にならないわね」と、中学時代の友だちが電話で申しました。彼女は、一人娘に孫二人ですが、独り身の私はその上に独居老人・・・と云う称号もあります。彼女は、更に申しました。「仕方ないけど、高齢社会だ、超高齢社会だと云われると、何だか身をちぢめて暮らさねばならないような気がする、ネ」と。
お互いに毎回、「元気ィ?」と電話をはじめますが、元気でいることが段々難しくなってくる年齢で、ちょっと溜め息も出ます。ま、二人合わせて1世紀半も生きたことになりますので、多々経験はあるのですが、話題は健康に偏りがち。

医師むけITに二つの記事がありました。ひとつは、

在宅医療、小学区単位で綿密に 静岡市、19年度までに全域拡大 2017.9.19静岡新聞

これによりますと、静岡市は在宅医療推進のために、小学校区単位で医療介護職や地域住民の連携を進めておられるそうです。今では、周知のこととも云えますが、住み慣れた地域で人生の終焉を迎えたいのが高齢者ならずともほとんどの人が希望するところです。

国、厚生労働省が進めている「地域包括ケアシステム」は、体調低下が当たり前もあって、医療保険も介護保険もやや濫用しがちな高齢者の健康関連経費を増やし過ぎず、今までの国民皆保険を継続することも目的のひとつです。が、住み慣れた地域で人生を終えるためには、地域の人々を中心にした生活支援体制が必須です。

私ども笹川記念保健協力財団は、その中心となりうる在宅ケア/看護をしっかり担い、地域の多様な保健専門家たちの協働を調整できる看護師集団を作る支援を、2014年から始めています。過去3年間に8ヵ月の過酷!!かつ興味深い研修を終えた35名中28名が、北海道から福岡で開業済です。まだ、たった28ですし、なかなか、理想通りには拡張発展はしていませんが、今までの医療制度の限界を超え、自立した新しいケアの専門家、地域を支える看護実践家たちです。

静岡市はその地域包括医療を市内全89小学校区で取り組まれるというのです。8月下旬には市内8小学校区で「認知症の人と家族を支えるまちづくり」第1回を開催されました。在宅療養とその支援は、ご家族、地域の人々のご理解ご協力が基本です。取り組みには、保健・医療・看護・介護の関係者以外に、自治会や民生委員など住民代表も参加されています。高齢者が、何ヵ所も病院や開業医さんをめぐり、飲めないほど薬を処方されることを省いたり、入院先から施設に直行し、地域では居場所不明となることを防いだり、地域内の連携連帯は個々人ではできません。人生の最期を何処でどのように過ごすかは重要な保健福祉策です。こんな中で、在宅の療養者をケアする看護師が、地域ぐるみの健康維持にも、その知識や技術を活用して欲しいと思います。
も一つは島根県松江市島根町で、住民有志が在宅医療ハンドブックを作成されたという山陰中央新報のニュースです。

 

島根町の住民有志 安心して在宅医療を ハンドブック作製

松江市島根町の住民有志が中心となって製作を進めていた、在宅医療の利用方法や終末期の過ごし方をまとめたハンドブックが完成した。町内に全戸配布し、関係者は「住み慣れた地域で安心して暮らすための手引にしてほしい」と活用に期待している。

ハンドブックはA4判、21ページ。町民から「いざという時に参考にできる冊子がほしい」などの声を受け、健康まつえ21島根地区推進隊と島根地区社協連合会が1,400部作った。
通院が難しい場合には、歯科医による訪問診療や薬剤師の訪問指導が受けられることを紹介したほか、さまざまな在宅サービスの利用法を記載。終末期の過ごし方を決める参考にと、終末期を自宅と病院で迎える利点も示した。
作製に関わった松江市島根支所の高野美智子保健師(45)は「日頃から手元に置いてもらい、救急時や地域での暮らし方の指針にしてほしい」と話した。
完成した島根町版のハンドブックを参考に、松江市は市全域版のハンドブックを作製している。年内には、市内29公民館や地域包括支援センターなど関係機関に3,000部を配布する。

2017.5.12山陰中央新報

 

町の有志の方々が在宅医療の利用法や終末期の過ごし方をまとめたハンドブックを完成されたという素晴らしいニュースです。

上述、私どもは、今後の地域の保健医療体制を支えられる起業家マインドをもった看護師グループを広げたいと願って研修を始めました。経験10年以上の看護実践者たちは、この研修が始まると、その間も開業予定地の状況を調べ、関係者と連携し、8ヵ月の研修の最後には、開業資金のあれこれから借金返済計画を含めた、立派な開業計画を発表します。それが無ければ、研修修了証書は出しません。が、いざ開業してみると、意外なほど、在宅看護の良さどころか、それが今後必須の地域保健医療サービスであろうことが知られていないというのです。顧客獲得の苦労が始まります。

松江市島根町では、このハンドブックを町内全戸に配布し、「住み慣れた地域で安心して暮らすための手引」にして頂く、そのためには在宅看護デスヨ!!と呼びかけて下さる・・・のです。

A4判、21ページだそうですが、町の人々から「いざという時に参考にできる冊子がほしい」との声を受けて、健康まつえ21島根地区推進隊と島根地区社協連合会が1,400部を作成されたとか、すごいです。

通院困難な場合、歯科医の訪問診療や薬剤師の訪問指導もあること、さまざまな在宅サービスの利用法も記載されており、終末期の過ごし方を決める参考にと・・・。

作製に関与された松江市島根支所の高野美智子保健師は「日頃から手元に置いてもらい、救急時や地域での暮らし方の指針にしてほしい」と話されています。なお、松江市は、この島根町版を参考に、市全域版ハンドブックも作製され、年内に、市内29公民館や地域包括支援センターで関係機関に3,000部配布されるそうです。意識高ぁ~ィですね。ご発展を祈ります。

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健康と命をまもる仕事

上空800Kmとはいえ、また、日本の上空をミサイルが飛びました。

原始的な武器が工夫発明されて、いくさの歴史は変わりました。どんどん、武力が過激に発展した結果、わが国だけが経験した原爆や水爆に行き着いたとも申せます。

世界各地では、今も大小さまざまな規模の紛争が続いています。このような地域では巨大な、もちろん、原子力を用いるレベルの闘争はありませんが、小型化された武器が出回る中に、何が混じるか、予測はつきません。そもそも、現在の紛争地、紛争国には、使われている武器すら産生する能力がないところが多いのに、武器が出回っている・・・おかしなことだと、紛争地勤務中も思っていました。誰が、どんな意図で武器を、武器を求める資金を提供しているのでしょうか?

何より、武力をもって武力を制することの愚かしさを、長い戦争の歴史から、まだ、人類は学んでいない・・・学問は何をしているのでしょうか?

先日、最近出版された『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』(青山透子著、宝島社)を読みました。1985年(昭和60年)8月12日の夕刻、日本航空123便が群馬県御巣鷹山尾根に墜落した事故は、実は事件ではなかったのか・・・という衝撃的なノンフィクションで、この著者の2冊目です。過去、同様のノンフィクションが数冊出版されていますが、私が、この「事故」に執着しているのは、当日の個人的な対話の記憶からです。

1985年、今から32年も前の対話を何故記憶しているのか、です。
人々の健康、命をまもる仕事と云えば、直ちに医師や看護師と云った保健関連の仕事がでてまいります。

その日、当時勤務していた奈良医大では、後に国立循環器病センターの総長になられた北村総一郎第三外科学教授による心臓手術が行われていました。人工心肺を用いた大掛かりな手術では、出血管理も重要で、中央検査室で血液を担当していた私と止血検査チームは、朝早い手術前から、患者の凝固(血が固まる能力)止血(固まった血液が溶解する能力)検査を担当し、出血や血液の固まり過ぎをコントロールする薬剤の使用量をアドバイスしていました。
夕方、手術室のラウンジのTVでは、既に日航ジャンボが行方不明になっていることを報じていました。手術を終えた後、緑色の手術着のまま、ラウンジに現れた北村教授との対話です。

しばらくTVをみてから、仰せになりました。
「なぁ、キタさん!!ワシらは、朝から、延べ何十人もかかって、たった一人の病人のいのちを救うのに苦闘しているンじゃけど、ジャンボが一機墜ちたら、500人も亡くなるんヤなぁ・・・」
「・・・まだ、墜ちたとは決まってないけど・・・」

人々のいのちをまもる・・・とはどういうことなのか?
後に、集団の健康をまもるPublic Health(公衆衛生)に従事することになりましたが、この日の、この対話は、その後、現在に至るまで、しばしば、頭の中でエコーしています。

飛行機、JRや私鉄、地下鉄の列車、バス、乗用車・・・毎日頂いている食べ物、飲料、住んでいる家、働いている建物、すべて安全が当たり前と思っていますが、それをまもるためには、医師でも看護師でもない、他のさまざまな方々が関与されていますね。改めて、そう思います。

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闘い

将棋の最多連勝記録を29まで伸ばした中学生棋士の藤井四段が、NHK杯トーナメント第2回戦で、大先輩にあたる森内九段に勝利しました。(将棋NHK杯 藤井四段が森内九段に勝利 2017.9.3NHKニュースウェブ)

私は、1クラス40名の少人数だった医学部学生時代、相手を探す仲間から誘われたことで、将棋も碁も麻雀も花札も少し嗜みましたので、駒の動かし方程度は知っています。あまりにも前評判が高い生放送対戦だったので、拝見しました。が、永世名人でもある森内九段が投了されるところは、当然、??でした。

大物藤井四段は、まだ、中学生、一見シャイにみえますが、百戦錬磨の名人たちを相手に戦い、勝利をおさめられるのは、ヤワなことではありますまい。が、闘い前後の挨拶では、私が拝見する限り、いつも相手より深く、一瞬長く頭を下げておられるように見えます。古い感覚かもしれませんが、先輩への敬意を示しておられる、尊敬すべき闘士とお見受けしています。

間もなく30年ですが、パキスタンとアフガニスタンの国境地帯での難民支援に従事したことがあります。シルクロードの旅籠<ハタゴ>街ペシャワールの人口は50万とも100万ともいわれていましたが、それにまさる隣国アフガニスタンからの難民が街の周辺に滞留していました。それぞれの難民キャンプは、もう10年来、地域に根差した村落状で、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が支援などを管理していましたものの、実情は、それぞれの集団を統括する武力権力者の意向で左右されることが普通にありました。

予防接種対策調査に訪れたある難民キャンプのことでした。事務所前で、聞き取りを始めようとしていたら、一台のピックアップトラックが帰ってきました。荷台には、カラシニコフ銃を手にした男たちが満載されていました。車が止まると、ひとりの少年がひらりと荷台から下りました。事務所前にいた、白い長い髭オヤジが、小走りに駆け寄り、その少年の銃を受け取りました。少年は、事務所横の縄を編んだ床几に腰かけ、も一人の白い髭のオヤジが、プラスティックのたらいを運んできました。僅かばかりの水が入っており、オヤジが少年の足を洗いました。

TVドラマ・・・若き日の信長が爺ヤに足を洗ってもらう・・・シーンでしょうか。

「あれは誰?」と私は、事務所の人に尋ねました。
「あれは・・・」「私たちのリーダーです。」

その少年は銃の扱いに長けていて、弾を無駄にすることはない・・・つまり、彼が撃てば、必ず、敵を殺<アヤ>めるというのです。言葉もありませんでした。どう見ても、わが国なら中学生・・・でした。

隣国ともいえる地域では、6回目の、今までにない規模の核実験が行われました。(緊迫 北朝鮮情勢 2017.9.4NHKニュースウェブ)
先日のJ-アラートに続き、この国からの脅威は、実態を伴って拡大しています。

が、武力闘争は、どちらの側にも勝利をもたらしません。

私が従事したアフガニスタン難民救援は、1970年代末の旧ソビエトの武力侵攻に続く国家崩壊の一端でした。それから30年、かの国は、まだ、安定には程遠い状態です。一部の権力者が意図する、国民を犠牲にしての武力闘争からは、何ももたらされるものはありません。

一対一のたった、縦36.4cm(一尺二寸)、横33.3cm(一尺一寸)の盤上の闘いの崇高さこそ、文化と呼ぶにふさわしいと思いました。世界の平和・・・などというと、何か色がついたり、また、少し、面はゆい思いも無きにしも非ずですが、武器に武器でない、対決の方法・・・ないものでしょうか?

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災害と対策

先週は放射線災害医療サマーセミナーでした。

この事業は、医学、看護学、薬学など保健系大学と原発が設置されている自治体および東京都の工学部の学生院生を対象に2014年から福島医大と長崎大学の協力で開催しています。3日間の福島医大での講義と放射能測定実習の後、原発事故で避難を余儀なくされた地域での現地研修と福島第二原発を見学します。重装備し、なおかつ二つの線量計を保持しての行程ですから、否応なく緊張しますが、原発の炉心の真下に達しますと、誰しも言葉を失います。私は、初年度に参りましたが、複雑に入り組んだ無数のパイプとところどころのバルブなど、何だか、人体の中のミクロの世界のような気も致しました。

今年までの4年間に総計78名が参加しています。毎年、運営をお願いしている福島医大の教職員と講義見学の指導をお願いしている両大学の先生方が色々工夫を加えて下さるのですが、4年目は、これまで訪問させて頂いていた川内村に加え、今年3月と4月に、やっと、帰還困難地区以外の避難指示が解除されたばかりの飯館村と富岡町での実習が加わり、3チームにわかれての地域見学となりました。もう一つ、4年目のトピックは、過去3回の研修を終えたOBOGたちが馳せ参じてくれたことです。たった1週間ですが、昨年一昨年に、ほぼ、同様の研修を受けた余裕でしょうか、ちょっとした先輩振りも、大層頼もしく見えました。

初日は初対面なので、皆、ややコチコチでしたが、福島医大の先生の鮮やかなアイスブレーキングミーティングで、あっという間に連帯感のある集団に替わりました。そして、最終日、それぞれのチームによる3自治体の状況や問題、研修を通じて考えた具体的な将来展望は、3人寄れば文殊の知恵の十倍くらいの知恵の塊からの、辛辣な現状評価や希望の持てる展望が発表されました。
いずれ、報告書が出ますので、乞うご期待です。

さて、昨日、1年半前の熊本地震の被災地である阿蘇近辺では、崩落した橋の開通が、にぎやかに行われたとの報道がありました。(南阿蘇の村道が開通 熊本地震で寸断、「復興へ弾み」と歓迎 2017.8.27日本経済新聞、熊本地震 復興に架ける橋 阿蘇長陽大橋が開通 2017.8.28毎日新聞)また、6年半になる大震災の地東北では、7年ぶりに、松島基地の航空祭が再開されたとの新聞報道(<松島基地>ブルーインパルス 天のキャンバスに舞う 2017.8.28河北新報オンラインニュース)や、TVでも鮮やかな演技?が放映(航空祭復活 7年ぶりブルーインパルス雄姿 2017.8.27NHKニュースウェブ)されていました。
復興のシンボルとしての開通式や催しは、大いに被災地の人々を元気づけるものでしょう。

災害・・・被災、避難、仮設住宅そしてボランティアや復興支援と云う単語は、毎日とは云わないまでも、毎週、目にするか耳にしています。

日本は災害大国ではありますが、また、とても防災意識の高い国でもあります。ちょっとした地震でも、数分後にテレビや携帯の画面に、正確な情報が現れます。長らく災害救援関連の仕事の端っこにいましたが、そんな国はほとんど経験していません。しかも、慣れっこにならないように、自治体や職場、学校で、毎年、繰り返しての訓練が行われていますし、また、建物などの耐震、免震技術もすばらしく進んでいます。しかし、どれほど準備しても、災害はそれを凌駕します。そして、それに立ち向かえるのは、科学的な知識、的確な情報を、適正に把握できる制度とそれを理解できる知識です。

9月1日の防災の日も近いのですが、災害時の自助、互助、共助、公助・・・そして今回も放射能災害を真剣に研修してくれた15名の次代を担う若き俊英とともに、こころして改めて、さまざまな災害とその対策を復習致します。

セミナーの様子

研修中の様子

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世界人道の日

8月19日は、世界人道の日でした。

この日が決まったのは、2003年8月19日に、当時の世界の最大の「人道の危機」だったイラクのバクダートに開設されていた国連事務所が爆破され、事務総長特別代表として陣頭指揮を執っていたセルジオ・ヴィエラ・デ・メロ氏を含む22名の国連職員が犠牲になったことによります。

ずいぶん昔のような気もしますが、ジュネーブの国連欧州本部パレ・デ・ナシオンのEビルディングの2階には、この事故ともうひとつ、アルジェリアでの国連の事故で亡くなったスタッフを悼むエンブレムがあります。爆破でちぎれた国連旗の断片と犠牲者のお名前があり、毎年のように、そこに参りますと、つい昨日のような気がします。親しくはありませんでしたが、何度か、デ・メロ氏にはお目にかかったことがあったからかもしれません。

90年代末、WHO本部に新設された人道援助部の現場支援担当部署に勤務した頃、デ・メロ氏は、アフリカの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)勤務を終え、90年代初頭、増え続ける紛争に対処する国連活動の統括のために設置された、通称OCHA(私はオチャ=お茶と呼んでいましたが、正式には国連人道問題調整事務所(UN Office for the Coordination of Humanitarian Affairs)のトップに着任されていました。私が所属したWHOの人道援助部(EHA: Department of Emergency and Humanitarian Assistance)のオール国連版の組織だったので、当時、混乱の極みにあったコソボや旧ユートスラビアなどのバルカン問題、1989年の旧ソビエト軍撤退後も混乱が収まらないアフガニスタン、そしてアフリカ中央部の大湖沼地帯(アフリカのど真ん中のいくつかの湖に面する紛争続きの国々)対策の会議などででした。ブラジルのお生まれですが、ソルボンヌ大学の法学博士とか、厳しくも明るく、スマートで、私にはとりわけハンサムに思えた・・・つまり、好みのジェントルマンでした。

以前、紛争地近傍勤務の際、ちょっとした物音を襲撃と勘違いして、会議を中断して、床に伏せたら、建物の玄関の鉄の扉を、門番のオヤジが直していたとか、素早く逃げるために、常に出口の位置に気を付けていたなど、エンブレムの前では、ある種トラウマが復帰するような気もします。私の世代は、第二次世界大戦時、防空頭巾を冠って逃げた記憶や不気味な空襲警報のサイレンや、ブゥーンンと鈍いB29爆撃機の音におびえたものですが、今も紛争が絶えない地の子どもたちは、いったいどんな想いだろうか、大人になった時にどんな思い出があるのだろうかと思います。

めぐりくる8月19日、8月は、ヒロシマ、ナガサキそして、15日の終戦の日、難しげな人道などと云わなくとも、紛争がなく、おなか一杯食べられること、世界の子どもたちにそれだけを願う次第です。

さて、人道の日が決まるきっかけとなったバクダートの国連事務所爆破から14年も経ちます。が、世界の不穏さは、少しも改善されていません。それどころか、第二次世界大戦後の70有余年、戦争による犠牲者をひとりも出していないわが国の周辺に、わが国のそれだけでなく、この地域の、そしてさらにグローバルな治安を脅かす引き金的リスクが大きくなっています。

紛争地では、生死が裏表に存在します。

事故は、たまたまかもしれません。が、事故で亡くなる国連職員も、紛争地での保健医療や食糧、水また住まいや農業そして環境整備に貢献している人道援助機関スタッフさらに紛争を報道するために現地に入るメディアの人々の犠牲も、年々増えています。そして、それらどちらかと云えば外部からの犠牲者以上に、紛争のある現地で生まれ育った人々、生まれたての赤ん坊からお年寄りまで、時には生まれる前のお母さんのおなかのなかで生を終え・・・終えさせられる子どももいます。

この世界人道の日を期して、国連事務総長がコメントを発表します。毎年、毎年。美辞麗句だけで実態がないなどとは申しませんが、事態はほとんど変わっていないという現実に加えて、最近広まっている先進国でのテロや先進国内でのヘイトスピーチの蔓延、そしてしばしば発生する人種的対立、人道的であるということは、途上国の紛争対策ではありません。人道の日って、何の役に立っているのか…と思いました。

2003年8月19日バクダッド国連事務所爆破の犠牲者を悼むエンブレム

2003年8月19日バクダッド国連事務所爆破の犠牲者を悼むエンブレム

2007年12月11日のアルジェリアの爆破事件でちぎれた国連旗

2007年12月11日のアルジェリアの爆破事件でちぎれた国連旗

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認知症の予防

認知症dementiaとは、認知障害の一種です・・・などという説明は要を得ていませんね。私が医学生だった半世紀も昔ですが、レントゲンによる影(像)と脳波による電気的活性しか脳の中を知る手段はありませんでした。もちろん、対話による理解度や自発的あるいは指示に従って行われる行動を観ることもありましたが、今風にいうエビデンス(科学的証拠)としては確立していなかったように思います。しかし、それ以来、脳神経系、精神科学分野の発展はめざましく、検査手段の発達とともに、実に色々なことが判るようになりました。そして同時に高齢社会、何かのめぐりあわせでしょうか?

その認知障害の一種である認知症は、後天的な(生まれた後で生じる)脳の器質的(体の器官組織に物理的に認められる異常が存する)障害で、いったん正常に発達した知能が、不可逆的に(どう治療しても元に戻らない)障害を受けた状態です。簡単に申しますと、正常だった認知力が、年齢に相応しくない程度に低下した状態と申せます。が、実のところ、低下するのは単に知能だけでなく、記憶、見当識(今が何年何月何日か、や、自分が今何処にいるかを把握していること)を含む学習力、記憶力、理解力そして問題解決力の障害であり、時には人格変化もある・・・ひとつの症候群(多様な症状からなる健康障害状態)でもあります。

正確には、認知能力(memory:記憶力、attention:注意力、judgement:判断力、language:言語力、problem solving:問題解決力)の各パートが年令相応以上に低下していると云えますが、年齢相応は、人によっても時代によっても多少異なるので、また、ややこしい。が、今の時代の人が見て、認知能力が低下しているということが重要でしょう。

英語の語源は、ラテン語で、やはり認知能力の衰えを云ったそうですので、古代からこの病気があったのでしょう。

先般、平成28年に認知症が原因とみられる行方不明者が1万5千人を超えた(届け出ベース、警察庁発表資料より)という報道をみました。この統計がとられ始めた平成24年以降、認知症行方不明者数は年々増加しており、行方不明者全体に占める割合は2割近くに上っているとか。

世界でも、認知症が問題なのは同様です。
認知症は、21世紀の保健社会福祉にとって世界最大の問題だ:現在、世界中で約5千万の人々が認知症を患っているが、その数は、2050年までに3倍になると予測される。Lancet誌の認知症委員会は、利用可能な最善のエビデンスを検証し、最良の管理、予防に関する提言をすることを願っている(Dementia is the greatest global challenge for health and social care in the 21st century: around 50 million people worldwide have dementia and this number is predicted to triple by 2050. The Lancet Commission on dementia aims to review the best available evidence and produce recommendations on how to best manage, or even prevent, the dementia epidemic.)との解説付きで、この度、世界5大医学誌のひとつとされる週刊医学雑誌Lancetが、この病気を取り上げました。

アルツハイマー病協会国際会議(AAIC 2017.7.16~20、英国ロンドン)で発表された24名の認知症国際研究グループによる分析が62ページにわたる論文になりました。チョット、読むのはシンドイですが、認知症の1/3は、予防可能だとしています。

これによりますと、① 教育レベルの低さ(15歳以降に教育を受けていない)、② 中年期(45~65歳)の聴力低下、③ 高血圧、④ 肥満、⑤ 65歳以上の高齢期の喫煙、⑥ 抑うつ、⑦ 運動不足、⑧ 社会的孤立、⑨ 糖尿病という9の要因についての対策を講じれば、35%の認知症が予防可能だとされました。

ちょっと、ビックリは、「低い教育レベル」と「中年期聴力低下」と「高齢期喫煙」が三大要因というのです。昔、多くの人々の教育レベルが低かった頃はどうだった、と思いますが、そんな昔の平均寿命は短かった・・・ですね。直ちに、現在と比較するのは意味がない、難しいですね。

ですから、すべての人々が15歳以降も教育を受け続けるようになれば、認知症の8%が予防できる、中年期に聴力低下をきたした人々を全て治療すれば9%が、そして高齢者のすべてが禁煙すれば、5%は予防できるなどなど、合計35%の認知症は予防可能、としています。反面、これまで、認知症のリスクとされてきたアポリポ蛋白E(ApoE)を牛耳るとされる遺伝子型(ε4 アレル)の対策は、予防効果は小さいとしています(10例中1例未満:7%)。

大事なことは、多くの認知症は、通常、年をとってから診断されるが危険要因は、若年時から一生を通じて存在する、つまり発症までの潜伏期が長い病気として対応すべきだと説明していることを肝に銘じて、出来るだけ長く学校に通い(留年ではなく、少なくとも高校まで卒業する、①対策)、子どもの間から、規則正しく、適正な食事運動を心がけ(③、④、⑤、⑦、⑨対策)、友達と仲良く、また、職場や地域など周囲の人々との良い関係を保ち(⑧対策)・・・中年期の聴力低下は、それが原因で周囲との疎通性が無くなる・・・かも。そして、抑うつ対策はどうすればよいやら・・・ちょっと考えます。
ご参考になりましょうか?

Executive Summary:Dementia prevention, intervention, and care(The Lancet)

[会長ブログ ― ネコの目]
住み慣れた住まい

私ども笹川記念保健協力財団は、2014年来、これからの地域での医療保健制度の一角を担うべく「日本財団在宅看護センター」起業家育成事業を進めております。これまでの3年間に35名が8カ月の研修を終え、28人が全国各地で開業しています。在宅医療/看護の大きな目標は、人々が住み慣れたわが家、地域で療養し健康を回復されること、あるいは尊厳をもって、親しい人々に見守られながら、尊厳をもって一生を全うされるお手伝いでもあります。

住み慣れた家や地域という言葉には、懐かしい故郷とともに親しい人々との親密な関係のある様子を呼び起こします。が、最近、それらを維持すること、あるいはそのような環境の中で病<ヤマイ>を癒す、健康を維持回復する、あるいは穏やかに生を終えることは、それほど簡単でなないと思うことが続きました。

まずは、小欄7月28日に記しました、平成29年7月九州北部豪雨です。(長靴をはいてベッドルームに入る!!)私がお借りしていた古いお宅は、大分県に近い福岡県東端の山間の県道52号線沿いに位置します。5,60年前には400名近い学童がいたとうかがった松末<マスエ>小学校の今年の学童数は20名余、周辺の10軒、あるいは20軒程度の集落の多くが被災しました。既に3,40年前から、過疎化が始まっており、高齢化がそれに追い打ちをかけていました。今回の水害は、住み慣れた家々を終の棲家と思っておられたであろう人々を否応なく、仮設住宅あるいは子どもや姻戚のおられる他の地域へ追い立てました。仮設住宅は、車で15分程度の地ですが、元の集落が昔通りに戻ることはないように思えます。私も、解体やむなしの古い民家から出ざるを得ません。家主様との涙の別れが待っています。

もう一つはウクライナからの便りです。
今年の3月頃、小欄にて取り上げましたが、財団は20数年前、当時のソヴィエトのウクライナ地方で発生した原発事故後の子どもの甲状腺がん対策のお手伝いを致しました。(朽ちてゆく村ウクライナ

今年春、30年を経たその地チェルノブイリを訪問した際、ほとんど無人化している原発に近い地域に、お一人でお住まいになっている女性がおいでだと聞いて、お訪ねしたのでした。いったんは強制的に避難させられたものの、間もなく、住み慣れた家で一生を送りたいと、自分の意志で戻ってこられたKovalenko Valentina Aleksandrovnaさん、しわの多いお年を召した老婦人でしたが、突然の闖入者に嫌な顔もせず、丁寧に、そして暖かく歓迎して下さいました。放射能の危険も知っているけど、私はここで住むの、との固いご意志、狭い、ひしゃげた梁のお宅でしたが、なるほど、ここで住み続けたいと仰せになるだけの、情緒ある温かな雰囲気でした。同じようなことを望まれる方は、あの福島でもおいでかもしれない・・・と、私は思いました。

美しいネコを飼われていたこともあって、帰国後、コバレンコさんとネコちゃんへのお礼をお送りしました。お世話になった通訳イリーナさんがお訪ね下さったところ、少し前に、誰の助けもなく、多分助けを呼べずに・・・亡くなっていた、脳卒中だったそうです。

住み慣れた心地よい家・・・ではあったでしょうが、極寒の時期には外部社会との疎通性は、ほとんど途切れることもあっただろうと思うと、胸が痛みます。

同行下さった福島医大広報コミュニケーション室長松井史郎特命教授と、「周りに住む人もずいぶん減ったけど、それは放射線で死んだわけではなく、高齢になったからよ」とお話しされたことを思い出します。そして「綺麗に撮ってくださいね。私も若い時は綺麗だったのよ」と仰せだったと、お悔やみと共に思い出がまいりました。

住み慣れた家で生をまっとうすること・・・をお手伝いしたい、と私どもの在宅看護センター研修は謳っています。が、難しいことだと、改めて思っています。

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第46回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式

昨日2017年8月2日、日本赤十字社主催の第46回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式に、6年ぶりに参列させて頂きました。

フローレンス・ナイチンゲール記章は第8回(1907)、第9回(1912)の赤十字国際会議の決議によって設立された「フローレンス・ナイチンゲール基金」によって創設されたもので、ナイチンゲール生誕100周年を記して1920年から、実際の授与が始まっています。当初は、女性の、確か看護師のみを対象としていたのですが、第34回(1993<平成5>年)以降は男性も対象とし、また、公衆衛生と看護教育分野も含まれるようになっています。

 

この授与式には、毎回、

日本赤十字社名誉総裁皇后陛下がご臨席になり、御自ら、受賞者の胸に記章をお着け下さいます。受賞者の感激が会場に広がる瞬間です。かつて日本赤十字九州国際看護大学学長を務めさせて頂いた間には、毎回、学生や東京で就職している卒業生とともに、参列し、緊張とわくわく感を抱いたことを思い出しました。

今回は、

名誉副総裁皇太子妃雅子殿下、秋篠宮妃紀子殿下、寛仁親王妃信子殿下もご列席になられました。ので、受賞者の伊藤明子氏の感激は、ひとしおだったと思います。

 

実は、私がこの式典に居合わせた理由は、受賞者伊藤明子氏が日本赤十字九州国際看護大学の大学院の第一号の院生だった…チョット偉そうに申しますと、私メが指導を仕ったご縁でご招待を受けたという次第です。伊藤氏は、アフガニスタン、その他の紛争地での救護活動のベテランですが、世界に冠たる国際赤十字医療チームの責任者になれる資格を持っている唯一の日本人でもありました。今回、その責務を5回も務められたことを知りました。色々な紛争地での経験もさることながら、まさにmission impossibleの場も経験されているのですが、今は、名古屋第二赤十字病院副院長兼看護部長で、日本の医療に貢献される立場です。

記章は銀メッキのアーモンド型のメダルで、表面には、おなじみのランプを手にしたナイチンゲール像と共に、1820-1910フローレンス・ナイチンゲール女史記念の文字が刻まれ、裏面には、受章者のお名前と、ラテン語の「博愛の功徳を顕揚し、これを永遠に世界に伝える」があります。近日中に、祝賀会が開かれますので、ミーハーして、実物を触ってきます。

会場の様子

授与式後の受賞者伊藤明子氏記念講演会の様子

[会長ブログ ― ネコの目]
日野原重明名誉会長とのお別れ

日野原先生

一昨日葬送・告別式が執り行われた日野原重明先生は、私ども笹川記念保健協力財団の名誉会長でもありました。

 

本財団は、今から44年前、世界からハンセン病を根絶しようとの壮大な目標のもと、日本財団創設者笹川良一翁(1899-1995)と日本におけるハンセン病化学療法開発の父石館守三博士(1901-1996)により設立されました。

一方、日野原重明先生は、1985年来、笹川医学医療研究財団理事長として、高齢者ケア対策活動を展開しておられました。2010年、両財団が合併し、世界のハンセン病対策、ホスピス・緩和ケア関連事業そして世界の公衆衛生活動支援を柱とする新たな財団に生まれ変わりました。先生は、会長そして後には名誉会長として、やさしくしかし凛として、私どもを導いて下さっておりました。

2013年4月、本財団に席を頂いて以来、私は、毎月の執行理事会その他の会議や、先生のお誕生日を兼ねた忘年会で、文字通り、親しく、日野原先生のお傍に侍らせて頂く機会をもってまいりました。

ここ数カ月はご不快のため、先生ご不在の会議もありました、言いようのない空虚感がございました。そして、それはとうとう永遠のものとなりました。

報道されたように数千の人々がご参列になられた先生の葬送・告別式では、先生の教え子でもある紀伊國献三本財団最高顧問が切々としたお別れの言葉を述べました。

嗚呼!!日野原重明先生

安らかにお休みください。残された私どもは、文字通り、生涯現役を貫かれた先生のお教えを日々反復し、いっそうの研鑽を致します。

どうか、いつまでも私どもをみまもって下さい。

[会長ブログ ― ネコの目]
長靴をはいてベッドルームに入る!!

何のこと?と思われるかもしれないことを、10日前と昨日に行いました。写真をご覧下さい。

IMG_1274ベッドルームの私、長靴の足元は固まった泥

7月5日の豪雨は、穏やかな里山に想像を絶する災禍をもたらしました。7月19日、気象庁が平成29年7月九州北部豪雨と命名した福岡県と大分県での雨災害で、時折、ご紹介する私のお気に入りの朝倉市杷木の寓居が被災しました。

当日、私はインドから帰国してしばらく事務所で仕事をした後、帰宅した直後の知人からの電話であわててTVを見た次第です。2012年にも近くで、小さな川の氾濫があったことで、近隣の人々は、雨には割合敏感に対応なさる感じのある地区でもありました。

が、降り始めの数時間で300ミリメートルの降雨量、野も山も田も畑も、家の屋根にも川にも一様に、30センチメートルの水が灌ぐ降り方、近くには筑紫次郎と別称される大河筑後川もあります。ハラハラしました。13時14分大雨洪水警報、14時10分に土砂災害警戒情報、5分後に避難準備情報、10分後には市内全域に避難勧告、約一時間後15時30分に5地区に避難指示・・・3時間で、災害が確立したのです。

東京から電話した現地の知人は、車で2,30分のところに出かけたが、道が冠水して帰れないと。他の方は、向こうが見えない降り方、厚い水の壁が家の周りにできている…、電話の間に雷鳴がとどろいていました。

結果として、いくつかの地域が壊滅的な破壊を受け、30数名の死者行方不明者をきたし、広大な野菜畑や水田、また、名産のぶどうや柿の果樹園そして森林を破壊しました。

拙宅は、朝倉市杷木の松末<マスエとよみます>小学校の傍の20軒ほどの集落にあります。大分自動車道杷木インターを出て、拙宅までは国道52号線で4キロメートルですが、その道路が寸断されました。かつて・・・といっても5,60年前には、400名に近い児童が学んだ鉄筋3階建の松末小学校に避難した人々は、校庭を埋め尽くし、さらに一階に侵入した想像を絶する量の土砂流のため、3階に避難し、一夜を明かした後、ヘリコプターなどでの脱出を余儀なくされました。

災害から10日目の7月15日、主に自衛隊の車両が並ぶ補修された道路を歩いて、松末に参りました。どこもかしこも泥と流木の山、報道に現れる破壊された道や、家々はなじみあるところばかりでした。胸が痛い…そして、かつての小川ともいえないほどの小さな川は広大な幅となり、その中を、自衛隊、消防、警察の方々が、手に棒をもって、行方不明者を探しておられました。

最低50センチメートル程度の土砂で道路はすべての家より高くなっています。拙宅は、古い民家ですが、土間は50センチ程度、家の真ん中の廊下は10センチの泥、台所や浴室、トイレそして寝室も一様に泥水…いわゆる床上浸水でした。

それから10日目の26日、地域に重機が入れるようになったからと、災害直後から現地で活動されていた日本財団救援チームのお声がけで、日本財団から6名と私の所属する笹川記念保健協力財団から3名が東京から現地入りし、拙宅付近の復旧を行ってくださいました。
重機の力は偉大です。人力なら数時間を要する土砂を数分で排除して下さいます。そして、その後を人力で片付けて頂き、わが家の輪郭は現れました。が、濁流の向きに、はがれた壁、流失したお風呂用ボイラーの石油タンクやプロパンボンベ・・・

畳の下は泥の海のまま・・・
かつて何度も救援チームを企画派遣し、後方支援もしましたが、今回は現地で被災者の挫折と救援者への感謝を実感しました。これから復旧、引越しですが、皆さま、ありがとうございました。

20170727_3日本財団の重機チームの雄姿!

20170727_2今回のお助けチームさま


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