[会長ブログ ― ネコの目]
長靴をはいてベッドルームに入る!!

何のこと?と思われるかもしれないことを、10日前と昨日に行いました。写真をご覧下さい。

IMG_1274ベッドルームの私、長靴の足元は固まった泥

7月5日の豪雨は、穏やかな里山に想像を絶する災禍をもたらしました。7月19日、気象庁が平成29年7月九州北部豪雨と命名した福岡県と大分県での雨災害で、時折、ご紹介する私のお気に入りの朝倉市杷木の寓居が被災しました。

当日、私はインドから帰国してしばらく事務所で仕事をした後、帰宅した直後の知人からの電話であわててTVを見た次第です。2012年にも近くで、小さな川の氾濫があったことで、近隣の人々は、雨には割合敏感に対応なさる感じのある地区でもありました。

が、降り始めの数時間で300ミリメートルの降雨量、野も山も田も畑も、家の屋根にも川にも一様に、30センチメートルの水が灌ぐ降り方、近くには筑紫次郎と別称される大河筑後川もあります。ハラハラしました。13時14分大雨洪水警報、14時10分に土砂災害警戒情報、5分後に避難準備情報、10分後には市内全域に避難勧告、約一時間後15時30分に5地区に避難指示・・・3時間で、災害が確立したのです。

東京から電話した現地の知人は、車で2,30分のところに出かけたが、道が冠水して帰れないと。他の方は、向こうが見えない降り方、厚い水の壁が家の周りにできている…、電話の間に雷鳴がとどろいていました。

結果として、いくつかの地域が壊滅的な破壊を受け、30数名の死者行方不明者をきたし、広大な野菜畑や水田、また、名産のぶどうや柿の果樹園そして森林を破壊しました。

拙宅は、朝倉市杷木の松末<マスエとよみます>小学校の傍の20軒ほどの集落にあります。大分自動車道杷木インターを出て、拙宅までは国道52号線で4キロメートルですが、その道路が寸断されました。かつて・・・といっても5,60年前には、400名に近い児童が学んだ鉄筋3階建の松末小学校に避難した人々は、校庭を埋め尽くし、さらに一階に侵入した想像を絶する量の土砂流のため、3階に避難し、一夜を明かした後、ヘリコプターなどでの脱出を余儀なくされました。

災害から10日目の7月15日、主に自衛隊の車両が並ぶ補修された道路を歩いて、松末に参りました。どこもかしこも泥と流木の山、報道に現れる破壊された道や、家々はなじみあるところばかりでした。胸が痛い…そして、かつての小川ともいえないほどの小さな川は広大な幅となり、その中を、自衛隊、消防、警察の方々が、手に棒をもって、行方不明者を探しておられました。

最低50センチメートル程度の土砂で道路はすべての家より高くなっています。拙宅は、古い民家ですが、土間は50センチ程度、家の真ん中の廊下は10センチの泥、台所や浴室、トイレそして寝室も一様に泥水…いわゆる床上浸水でした。

それから10日目の26日、地域に重機が入れるようになったからと、災害直後から現地で活動されていた日本財団救援チームのお声がけで、日本財団から6名と私の所属する笹川記念保健協力財団から3名が東京から現地入りし、拙宅付近の復旧を行ってくださいました。
重機の力は偉大です。人力なら数時間を要する土砂を数分で排除して下さいます。そして、その後を人力で片付けて頂き、わが家の輪郭は現れました。が、濁流の向きに、はがれた壁、流失したお風呂用ボイラーの石油タンクやプロパンボンベ・・・

畳の下は泥の海のまま・・・
かつて何度も救援チームを企画派遣し、後方支援もしましたが、今回は現地で被災者の挫折と救援者への感謝を実感しました。これから復旧、引越しですが、皆さま、ありがとうございました。

20170727_3日本財団の重機チームの雄姿!

20170727_2今回のお助けチームさま

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懐かしい、そして大事なスローガン ~Health for all(すべての人に健康を)~

着任日7月1日が週末だったため、10年ぶりに代わったWHO事務局長の最初の施政方針発表が先週月曜日にありました。

“Together for a healthier world(より健康な世界を一緒に作ろう)

と題されたそれは、簡潔ながら、世界の保健を預かる専門機関WHOだけでなく保健医療に携わる私どもが忘れてはならない、しかしWHOや世界中が努力してきたにもかかわらず、なお達成できていない長年の目標が述べられています。

「誰であれ、何処に住んでいようとも、すべての人が健康で生産的な生活を送れる世界を、私は夢見る。(I envision a world in which everyone can live healthy, productive lives, regardless of who they are or where they live.)」と、初めてアフリカ大陸のエチオピア連邦民主共和国(以下エチオピア)から選出されたテドロス・アダノム・ゲブレイェスス(52歳)WHO新事務局長は述べています。

新事務局長の出身国エチオピアは、アフリカ東北部に位置する内陸国、現在は海に面していません。が、テドロス氏のお生まれは、かつてエチオピアの一部だった現エリトリア国のアスマラです。つまりエチオピアは、1991年、その一部がエリトリアとして独立宣言し、1993年に時のエチオピア政府がそれを承認するまでは、アラビア半島との間に位置する紅海に面していました。

海に囲まれたわが国では、第二次世界大戦後の、連合国軍駐留や沖縄返還、また現在も決着がついていない北方四島問題はありますが、主な国土についての国境が変わるとか、国土の一部が分離独立するという事態は経験していません。

第二次世界大戦後から1960年代にかけて、多数の植民地がかつての宗主国支配から独立したアフリカや中東、東南アジアでは、その後、長い紛争状態が続きがちです。それは、明らかに区別できる河川や山脈と云った地勢の境界があればまだしも、多くの新興国の国境は、かつての宗主国の思惑で決められたものが多く、実際に住んでいる人々にとっては血縁も地縁も民族性も無視されたものもありました。さらに、その後、それらの地で自然資源が見つかると、それをめぐる対立とも相まって、ぶすぶすと紛争状態が続き、国境を越えた難民や、国内にはいるものの生まれ故郷を追われた避難民をつくることにつながってきました。

例えば、エチオピアとエリトリア間も、かつて私がWHO本部緊急人道援助部に勤務した1997年頃、E-E(Ethiopia-Erethrea)紛争と通称する対立状況が続き、絶えず、数万以上の人々が流浪の民となって近隣国に流出していました。いわく言い難い、これら複雑な紛争は、つかの間の和平があっても、直ぐにぶり返し、地域社会の連携や文化を崩壊させて行きます。

誰であれ、何処に住んでいても、健康な生活ができる世界、と新事務局長が述べられた言葉は、先進国の理念的なものとは異なる重みがあると思いました。

さらに新事務局長は、5つの優先項目を上げています。その第一は「Health for all(HFA すべての人に健康を)」です。これは新事務局長が、まだ、12,3歳の少年だった頃、1977年にWHOの総会で満場一致で決まった世界初のグローバルスローガンです。そして、その実践の為の戦略プライマリーヘルスケア(PHC Primary Health Care)は、翌78年、かつてのソビエト連邦カザフスタン地方アルマ・アタで156ヵ国組織の合意で決まりました。爾来、40年、PHCはHFAと対になって世界の保健分野の実践の背景であり、また、人口に膾炙してきた理念と申せましょう。

二つ目は「健康の危機(Health emergencies)」への対応、三つ目は「女性、子ども、思春期(Women, children, adolescents)」、四つ目は「気候と環境変化による健康への影響(The health impact of climate and environmental change)」対策。最後は、上記4項目を達成するための「WHO改革(A transformed WHO)」です。簡単に書かれた当たり前すぎること、でも、本当に為すべき事々です。

新事務局長は、また、保健/健康を世界の重要問題のド真ん中に置き、そして人々を第一に考えるともおっしゃっています。目新しい、奇抜なテーマはありません。が、誰もがやってきたことだ、誰でもが考えていることばかりだと冷やかにみたり、切って捨てたりするのではなく、希望の大陸アフリカの、発展目覚ましい新興国出身の、そしてまだ若く新鮮で有能なリーダーの指導力を、私ども笹川記念保健協力財団はどう支えられるのか、どのように協力できるのか考えています。

WHO

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最期の日々を看取る人々 緩和医療学会に参加して

先週末、パシフィコ横浜で、第22回日本緩和医療学会学術大会が開催されました。

緩和医療/ケア=看取りでは、決してありません。WHOの定義(*)でも、それを終末期ケアとは見なしていません。むしろ、がんなど、厳しい治療を要する際、積極的にそれに立ち向かうための支援の一つの柱とも云えましょう。

今学会の参加者は、何と8,500名以上​。過疎地、限界集落などと呼ばれる地方の小さな村落の人口を上回る数の緩和ケア関係者が参集したことになります。

私ども笹川記念保健協力財団は、約20年前、つまりこの学会が生まれた22年前に遅れることわずかの時期から、当該分野の人材育成支援を行っておりますので、​本学会の盛会は、ある意味ご同慶の至りであります。が、これが本当に、医療施設や自宅を問わず、療養する人々に必要な緩和ケアが実践される証であることを示しているか、そして緩和ケアそのものが、これほど​に関心事となっている事態への制度、体制が確立しているのだろうか、と老婆心もチラと​動きました。

何はともあれ、22回目にして女性医師として初めて年次大会長を​大々成功裏に務めあげられた帝京大学医学部教授有賀悦子先生には、新たな試みなども含め、その成功を心からお祝いするとともに、お疲れ様でしたと申し上げます。

学会のさなかに、3年弱の闘病の間、ほんわかしたブログを記されていた市川海老蔵夫人小林麻央さんが身罷られました。たった34歳、幼子おふたりを残しての旅立ち、ご本人とご夫君である海老蔵氏、そしてご家族には、どう考えても早すぎる、理不尽な・・・との想いでしょう。自分の多すぎる年齢を思い、身内でなくとも代わってあげたいなどと、余計なことを思っている善意のお年寄りもおいでではないかと思います。

一番苦しいのはご本人であるのに、多くの人々に癒しを与え、闘病の苦しみを超越した何か神がかり的な優しさと勇気のあり方を伝達され、その昔と変わらぬ素敵な笑顔を残して去って行かれました。イギリスBBCは、昨年11月23日、2016年の世界に感動を与えた100人の女性(100 Women 2016: Kokoro – the cancer blog gripping Japan)に取り上げ​、また、訃報では、Mao Kobayashi: Japanese cancer blogger dies at 34として、決して海老蔵氏夫人ではなく、小林麻央個人の死を取り上げてい​ます。

新聞一面、NHKニュースのトップに扱うのは如何かとか、一般メディアや医師や保健関係者ブログ、ITジャーナルにも盛んに取り上げられています。が、個々の人間が、その最期の日々をどのように過ごすかは、人の数だけ異なる過ごし方がある、あって良いのではないかと、私は思っています。​再度申しますが、緩和医療、緩和ケアは、必ずしも、死の直近の日々のためのものではありません。が、それでも、それぞれの人々の最期を支える役割を担うことが​医療の一分野、そしてその専門家がこの分野を為していると申せましょう。

高齢者の最期の日々における過剰ともいえる医療の是非や超高価薬の使用にもご意見がありますが、自費なら良いとか保険ならダメとも、一律何歳以上はダメなども云い難い、いえ、誰が​それを決められるのでしょうか。

人の誕生と死は、本来神さまの領域なのに、医者が入り込み過ぎたからややこしくなっているのだ、との意見もあるとか。独り身で後期高齢年齢まで生き​てきたので申すのではないのですが、医療資源​は無限ではありません。本当に必要な時に、​きちんと​活用するためには、濫用しない、無駄に使い過ぎないこと​が必要だと思います。​念のための検査のすべてが無用、年寄りは病院に行くな、と申しているのではありません。あまりに安易に、ついでに・・・と云う発想を少し見直しても良いのではないでしょうか?​

昨今は医療保険と​呼ばれることも多い​わが国の健康保険​は、1961年以来、徹底し​て等しく国民を守ってきました。この​わが国が誇るべき医療​制度ほど、恙なく実践されてきた保険制度はありません。が、急激な超高齢化社会の到来​と本当はそれこそが問題である少子化によって、支払う世代(就労層)が細り、保険を使用する世代(高齢者)が巨大化しつつあることから、今まで通りのまま​では継続が覚束なくなったのです。それ故に、介護保険が生まれましたが、この制度も濫用すれば維持できなくなりましょう。既に、アクティブに収入のある高齢者は3割負担などが議論されていますが、わが国人口の30%に迫っている高齢者の大勢が、払うのは少し、使うのは目いっぱいでは、それも​間もなく・・・予測より早く費えてしまうでしょう。​高齢者の一員として思うのは、上手にこれらの制度を維持するには、どのように効果的に、少し長い目でみて、活用するか・・・をよく考えることでしょう。​

学会では、大勢の多種多様な保健専門家の発表を聴かせて頂きました。嬉しいことに、今年1月に、「日本財団在宅看護センター」起業家育成事業の3期生を終え、青森県十和田市で開業したばかりの太田緑氏(一般社団法人緑の杜 日本財団在宅看護センター みどりの風訪問看護ステーション 代表理事)がシンポジウムで、地元の緩和医療における看護師のかかわりを発表してくれました。

​そしてインターナショナルジョイントシンポジウムの「Integration(統合)」​では、内外の緩和ケアの第一線研究実践家が、内容の濃い発表、熱い議論を交わされました。どの国の緩和ケアにも、未だ問題はあるようですが、日本の​医療、緩和ケアは十分質が高く、そして患者中心であることを、テキサス大学付属の有名ながんセンターUT MD Anderson Cancer Centerの​Eduardo Bruera​博士が評価されました。多忙な医師や医療関係者が、えてするとブラック産業のようにも云われる今日この頃ですが、病める人​、苦難を持つ人々を助ける仕事は、中々に​勤務時間で割り切れない仕事であります。​かつて、国民の1/4とも1/3とも云われる人々が保険を持っていなかったアメリカでは、前大統領が苦心された改革医療制度(オバマケア)を、現大統領が廃棄改変しようとされています。​個人主義が確立しているため、国家が個人の自由を束縛すべきでないと、国民皆保険よりは、民間企業の保険が主流なのです。Bruera博士は、アメリカの医療は、​遺憾ながら、患者中心​というよりは、商業主義が優位になることもあるが、日本の医療​制度と医療は​勝れている、自信を持って、と鼓舞されました。

2日間、早朝8時過ぎから、ちょっと頑張って勉強させて頂きました。その成果は、共に学会に参加した現在進行中の「日本財団在宅看護センター」起業家育成事業4期生の研修中に、存分に活用させて頂きます。

(*) WHOによる緩和ケア定義:緩和ケアとは「生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対し、疾患早期より痛み、身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題に関し、きちんと評価し、それが障害とならないように予防したり対処したりすることであり、クオリティ・オブ・ライフを改善するためのアプローチ」である。

Palliative care is an approach that improves the quality of life of patients and their families facing the problem associated with life-threatening illness, through the prevention and relief of suffering by means of early identification and impeccable assessment and treatment of pain and other problems, physical, psychosocial, and spiritual.

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在宅看護師になる5つの理由。Johnson & Johnsonから

どなたも一度や二度、バンドエイドのお世話になったことがおありかと思います。

今とは少し異なる形ですが、傷に消毒済みガーゼ付絆創膏をあてる発想は1920年にジョンソン・エンド・ジョンソンのスタッフが、少々そそっかしく、お料理をする度にけがをする奥様のためにと考えたものが商品化されたそうです。私は、新生児を扱っていた頃からその対極に近い後期高齢者の現在まで、ジョンソン・エンド・ジョンソンのベビーパウダーの愛用者です。

今では、病院・診療所ならずとも、手術や傷の手当に消毒した材料を用いることは常識以前の当たり前ですが、ロバート・ウッド・ジョンソン氏が、使いやすい消毒済材料を商品化された19世紀末には、そのような考えはとても斬新であった反面、受け入れられるまでに相当時間がかかったとか。たった130年前ですが、感染と云う考えは一般的でなかったのです。

もっとも1860年代、イギリスではジョセフ・リスターが術後の死亡の多くは感染によるのだと、手術野や手術に使う道具資材をフェノールで消毒することを提唱してはいましたが、その感染症の原因としての細菌が見つけられた最初は、私どもが長年取り組んでいるハンセン病の原因であるらい菌が最初、1873年(ノルウェーのアルマウェル・ハンセンによる)でした。そして、近代細菌学の父という栄誉は、ドクターハンセンではなく、ドイツのコッホやフランスのパストゥールに与えられています。確かにコッホは、炭疽菌(1876)、結核菌(1882)、コレラ菌(1883)を見つけましたし、パストゥールは、その名前由来の操作でもあるパスチャライゼーション(低温殺菌法)を確立した方ですが、いずれにせよ、北里柴三郎とベーリングによるジフテリア菌(1883)、破傷風菌(1889)、同じく北里柴三郎によるペスト菌(1894)、志賀潔による赤痢菌(1897)と、近代細菌学は19世紀の最後の十数年に急速に発展しました。

閑話休題。

創設者および後継者の名前を持つロバート・ウッド・ジョンソン財団(Robert Wood Johnson Foundation, RWJF)は、1968年、ロバート・ウッド・ジョンソンJr.が亡くなった後、遺産の大部分が寄贈され、アメリカ第二の大きな財団となったそうです。

ジョンソン・エンド・ジョンソンに関する以上の話は、すべて会社のHPの引用ですが、そのRWJFからは、Nursing NotesというITジャーナルが発行されています。今回の2017年6月号の特集が、「在宅看護師を目指す5つの理由(Five Reasons to Consider a Career as a Home Health Nurse)」です。本文はHPにありますが、仲間に訳してもらったものを添付します。

「在宅看護師を目指す5つの理由」

看護師として働き続けたいけれど、病院では働きたくない・・・。今、そんな看護師たちを惹きつけているのが在宅看護師という職業です。これは、自宅にいる患者を訪問し、そこで看護にあたるのが仕事です。

アメリカ合衆国労働統計局によると、同国では、今や在宅看護師は最も需要が高い職業の一つで、年間およそ760,400もの新たな雇用を生み出していると云われています。多くの看護師たちを惹きつける在宅看護師という仕事。その魅力とやりがいはどこにあるのでしょうか?

1.働き方を自分で決める

過酷なシフト勤務が課せられる病院看護師とは異なり、一日中車で走りまわって患者さん宅を訪問し、患者さんを看て介護士にケアのやり方を指導したり、相談に乗ったりします。が、スケジュールはすべて自分で決めて管理できます。

2.自分で考え、自分で動く

チームで動き、医者の指示を仰ぐ病院勤務とは異なり、在宅看護師は、自分自身で状況判断し、さまざまな家庭環境下に暮らす患者さんのニーズに素早く対応しなければならないため、より高い適応力、決断力、柔軟性、創造性、迅速な問題解決能力etcが求められます。

3.幅広い患者層に接する

診療科ごとに特定の患者層を担当する病院看護師とは異なり、在宅看護では赤ちゃんからお年寄りまで、さまざまな年齢や生い立ちの患者さんを看なければなりません。出産直後の母児、慢性病、糖尿病などの患者さんだけでなく、けがの処置や薬の処方、さらには患者の家族への予防指導もあり、豊かな人間性と高いコミュニケーション力が求められます。

4.患者さんと深く関わる

病院内で患者さんを看るのとは異なり、在宅看護師は、患者さんの自宅を訪れることで患者さんの普段の生活習慣や環境をより詳しく知り、健康に影響を与えうる要因をいち早く発見することができます。患者さんの生活環境に受け入れられ、患者さんと家族にきちんと寄り添い、その思いや気持ちをしっかり共有できれば、深く温い看護を実践することができます。

5.患者さんの人生を看る

在宅看護師は、患者さんとその家族の生活や人生に大きな影響を与えます。ふだん病院で看護師が行うけがの処置や診察だけではなく、人としての患者さんを丸ごと受け止めるような看護を行うため、責任は重いのですが、自身も人間として大きく成長できるのです。

如何でしょうか?

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4年目の在宅看護人材育成事業

毎年6月上旬、笹川記念保健協力財団は少しザワザワします。今年も、ザワザワざわざわしています。

理由は、2014年から始めた「日本財団在宅看護センター」起業家育成事業がはじまるからです。この8カ月にわたる研修は、HP【会長との対談】にありますように、日本財団笹川陽平会長の強いバックアップで、2014年度に開始しました。(急激に高齢化しつつあるわが国では、地域包括医療制度の確実な実践が必至となった)社会のニーズに合致していること、そしてなお女性が大多数をしめる保健専門職の自立を促せることから、思い切って8カ月間の長きにわたる集中研修に踏み切りました。
走りながら考えるという言葉がありますが、実際、初年度は、走ってから考えた・・・しかも企画する側とともに色々考えて下さったのは、研修を受けるために集まった17名の1期生たちでした。そして、まだ、完成とは申せませんが、少しずつ形が整いつつあるのは、その後も、2、3期生が、絶えずインプットして下さっていること、多忙な中、毎年のご講義を快く引き受けて下さるだけでなく、現場経験者である研修生とのやり取りを楽しんで下さっている講師の先生方のお蔭ですが、今では、財団事業の重要な柱の一つになりつつあると実感できるようになりました。すなわち、3年間に35名が研修を終え、3期生は来年4月までに開業するという猶予がありますが、早3人が看板を上げ、2017年6月1日現在26カ所が実働しています。地図をご覧ください。

日本財団在宅看護センター開業状況(含む予定・2017年4月現在)

20170612_センター開業状況さて、前口上はさておいて、今年4期生は、平均年齢47歳(31~58)、1都1府13県からの中堅以上の、そして比較的在宅看護経験のある15名の猛者(と私には見える)の素敵な女性たちです。1、3期生には男性がおられたのですが、2、4期生は女性のみ・・・

そして6月5日の開講式を終えて、1週間が経ちました。

毎年、それまで忙しく身体を動かしてこられた実践派ナースたちですから、一日中、座って講義を聴く(と云っても、毎年、相当沢山の質問が出ますので、決して静かではないのですが)ことに馴染むには、ちょっと時間がかかります。

先週末、笹川記念保健協力財団で支援させて頂いている各種助成金(研究費、大学院研修奨学金、海外学会発表支援、ホスピス・緩和ケアおよび在宅看護の地域広報活動支援)を受けられた方の発表会のお手伝いをお願いしました。その時の雄姿をご覧下さい。

20170612_4期生助成者報告会_1

 

[会長ブログ ― ネコの目]
WHOとICN その2

先々週の旅・・・と云っては不謹慎ですが、出張の後半は、初めてのイベリア半島、スペインでした。こちらの用務も二つ。

まずは、2017年5月27日~6月1日、かつて第25回夏季オリンピックと、第9回夏季パラリンピックが開催されたバルセロナでのICN大会です。看護関係者にはご承知のことですが、ICNは、International Council of Nursesの頭文字で、国際看護師協会の大会は4年毎に開催されます。

この度、5月27日の開会式で、日本財団笹川陽平会長が、ICNの「Health and Human Rights(健康と人権)賞」を受けられるため、WHO総会のジュネーヴからバルセロナにひとッ飛びとなった次第です。この賞は、ICNが、その綱領に基づき、健康と人権にかかわる分野に大きな貢献と顕著な成果をなした方を顕彰するため、2000年の理事会で設置を決めたものですが、ICNが看護師以外の人に出す唯一の賞であります。これまでに授与された人はたった3人、2001年の緒方貞子先生、申すまでもなく元国連難民高等弁務官、2005年のStephen Lewis (アフリカのHIV/AIDS対策に貢献したカナダの元国連大使)、2013年のMary Robinson(初代国連人権高等弁務官で、紛争まみれのアフリカ大湖沼地帯関連国連特別使節)でした(ICN Health and Human Rights Award)。会長のご貢献は、今さら申すまでもないのですが、関連の国際健康と人権連盟(The International Federation of Health and Human Rights Organisations)には、会長が、2001年来、WHOハンセン病制圧大使として、また、2007年からは、日本政府のハンセン病人権啓発大使として、この疾患のelimination(制圧)対策だけでなく、この疾患にかかわる差別と闘ってこられていること、そして2010年の国連総会本会議における「ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別撤廃決議案」の加盟国の全会一致での採択に貢献されたこと、さらにその人道活動として、障がい者の生活(lives・・・一生)を向上させ、災害救援や復興への支援、さらにミャンマーの少数民族支援なども記載されています。
会長は、ハンセン病に関して、ブラジルとインドネシアで遭遇した看護師の貢献を引用して、看護の力を称える、素晴らしい受賞スピーチをなさいました。近いうちに、笹川陽平ブログに現れることを期待しましょう。

さて、ICN大会は、数千名は最低、万の桁の参加とうかがっていましたが、心配無用、開会式会場はかつてのオリンピック会場の一角、壮大なアリーナなのでしょうかPalau Sant Jordiと呼ばれる建物でした。主催者によれば、メンバー国/地域134から8,000人以上が登録しているとのことでしたが、その数をはるかに超えた参加者だと思いました。翌日の話では、12,000名以上だったとか、夕方からの式典でもありましたが、彼方の人々は、米粒とは申しませんが、大きめのお豆位の大きさでした。

メインゲストは、ヨルダンの現国王のご母堂であられるMuna al-Hussein妃でした。
笹川会長とにこやかに歓談された後、私にもご挨拶の機会が回りました。90年代半ば、ヨルダンでのJICAの地域保健/ジェンダープロジェクトにかかわった際、妃の義妹に当たられる前国王Hussein I世のお妹様Bassuma妃に拝謁の機会がありました。生まれて初めて、そして最後?の機会でしょうが、冷や汗をかきながら、“Your Royal Highness,・・・”と話しかけたことを思い出しました。

開会式は、オリンピックのように国名を書いたプラカードの後を、民族衣装のメンバーが続きました。日本は、もちろん坂本すが会長らの和服でした。ちょっとした観察ですが、南米系は、皆、フレアの入った華やかな民族衣装で、男女比1:3の感じに対して、アフリカ代表団は男性優位、そしていわゆる先進国は女性優位・・・の気がしました。

2015年、日本で初めて開催された(ハンセン病への偏見を解消するための)グローバル・アピールのカウンターパートとなって下さったICN Judith Shamian会長以下、副会長や、現地スペインの看護師協会長、保健大臣そして主賓のMuna al-Hussein妃らに交じって、懐かしいお顔を見つけました。アジア初のICN会長に選ばれた韓国のMo Im Kim博士です。今回、新たに、その名を冠した賞が創設され、台湾の看護研究者/教育者が受賞されました。Kim博士は、ジョンズ・ホプキンス公衆衛生大学院卒で、国会議員、保健大臣を経て、大韓赤十字看護大学(現中央大学看護学部)の学長として、前職日本赤十字九州国際看護大学初の姉妹提携先になって下さったのです。図らずも同じホテルだったので、翌朝、Shamian会長、次期会長のAnnett Kennedy氏、Kim先生らと朝食の場を共にできたこともありがたいことでした。

もう一つの用務は、ハンセン病関連、バルセロナから列車で3時間、バレンシアの郊外にある、この国の二つのハンセン病療養所の内のひとつFontillesを訪問しました。これはまた、追って。

受賞スピーチ

受賞スピーチ中の笹川会長、真ん中辺りから、壇上は、はるかかなた!!

檀上

壇上お三方

左端 Mo-Im Kim博士 右端 ヨルダンMuna al-Hussein妃 妃の左側 笹川会長

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WHOとICN その1

今週は、二つの大きな会議に行ってまいりました。

まず、ジュネーヴでの世界保健会議、通称WHOの総会と呼ばれている、世界の保健分野の最高意思決定会議です。WHOに加盟しているすべての国の保健分野の責任者、日本では厚生労働大臣ですが、そのような方々が参加されての一大集会です。現在のWHO加盟国は193ヵ国ですから、他の国連関係の会議を含め、参加国数最大と申して良いと思います。

例年、WHOの総会に参加させて頂くのは二つの役目からです。ひとつは、私ども笹川記念保健協力財団が1984年に創設した「WHO笹川健康賞」の授与式です。この賞は、往時そして今も世界の保健分野の崇高かつ永遠の理念であるPrimary Health Careを実践し、成果を上げた人々と団体を顕彰するため、現日本財団創設者にして笹川記念保健協力財団の生みの親でもあられる笹川良一翁によって、多分、当時でWHO唯一の賞として設置されました。今年は、モンゴルのリンチン博士が受賞されました。

ご承知かもしれませんが、モンゴルを含む東南アジアは肝炎の蔓延地域でしたが、モンゴルでは、リンチン博士の長年の貢献で、比較的早くに、肝炎予防接種が行き渡っていました。さらに、受賞者を称えるスピーチで日本財団笹川陽平会長が触れられたように、かの国で広がっていた肝炎に対する偏見解消にも大いに努力されたことも、常々、ハンセン病に対する偏見解消に取り組んでいる私どもとしては大いに勇気づけられることでした。

もうひとつは、そのハンセン病関連の面談です。日本財団の笹川陽平会長は、長らくハンセン病対策のためのWHOハンセン病制圧大使を務めておられます。年間1/3程度は、この病気と、この病気に対する差別偏見が強く残っている国々を訪問し、今も治療を要する人々、偏見差別の中で暮らしている人々を親しく・・・本当に、文字通り、手とり足とり、生々しい傷口を素手で洗われ、抱きしめ、勇気づけられます。そして、その一方、保健大臣は申すまでもなく、大統領や首相や国会議長や、色々な分野の権威者有力者に、ハンセン病をめぐる対策を、口を酸っぱくして説いておられます。曰く「ハンセン病は、(とても弱いらい菌の感染症で)3種の薬をきちんと飲めば必ず治ること、薬は世界中、どこでも無料で配布されている(この考えは1995年、日本財団が始め、現在はノバルティス財団が引き継いでいます)こと、そして(単なる感染症であるこの病気への)偏見差別は絶対に止めること」です。数年前から、笹川会長は、各国の保健大臣が集まるWHO総会を利用して、まだ、この病気が残っている国々の保健責任者と面談されます。去年も今年も、事前の予定が詰まっていたため、飛行場から面談場所である国連欧州本部に直行されています。

おまけと申しては申し訳ないのですが、今年は、2期10年のWHO事務局長を終えられるマーガレット・チャン博士の最後の総会であり、また、その後継者が選出される特別な年でした。

既にメディアで報じられているように、次期事務局長は、アフリカ大陸から初めての選出でしたが、エチオピアの元外務大臣、保健大臣テドロス・アダノム・ゲブレイェスス博士です。二人の新旧事務局長は、恐らく、分刻みの予定の中、会長主催の上記笹川賞受賞者のための祝賀ランチにお出で下さいました。もちろん、WHOハンセン病制圧大使としての笹川会長のご貢献があるからでありますが、私どもササカワ財団が、日本財団とともにやってきたことが、きちんと認識されていると、勝手に自負して、とても嬉しく思った次第。

さわやかな気候、緑にかこまれたジュネーヴ、はるかに望めるモンブラン・・・それらを楽しむ時間はなく、生憎!!! 2泊後、次の訪問地バルセロナに向かいました。以下次号。

ランチにいらしたスペシャルゲスト

20170531WHOICN①

現WHO事務局長マーガレット・チャン博士へのお別れのキャンドル贈呈
20170531WHOICN②次期事務局長テドロス博士と堅い握手

[会長ブログ ― ネコの目]
わが国に知の世界を広げた「生田長江」

先般、鳥取県×日本財団共同プロジェクト「みんなでつくる“暮らし日本一”の鳥取県」を頼りに、私どもが行っている「日本財団在宅看護センター起業家育成事業」への研修生リクルートに鳥取に向かったことをブログ「地域社会 コミュニティを維持すること」に書かせて頂きました。

県関係者との面談まで少し時間があったので、県庁一階の県民室に参りました。鳥取県の歴史、名所旧跡、名産品、色々な催しの広報や社会活動の情報が展示掲示されている一角に、郷土出身文学者シリーズという冊子が並んでいました。その⑥が『生田長江』、その名前に、心がザワッとしました。どんな文学者だったのかという疑問ではなく、忘れている何か別のものがあったような・・・

手に取ってパラパラと見て、直ぐに思い出しました。ニーチェを日本に持ち込んだ方、平塚らいてう<ライチョウと読みますね>らの、今から見ても斬新さにかげりの無い、新しき女性運動、雑誌『青鞜』が生まれた背景に存在された巨大な翻訳家にして評論家、小説家、劇作家とされています。が、気持ちがザワついたのは、そんなことではない、何だったのか・・・気ぜわしくページを繰りました。何だったか、忘れていたことは、生田長江という巨大な文学者は、ハンセン病を背負いながら、日本の近代化に絶大な足跡を残された方でしたが、私(たち)が高校生だった頃、昭和30年代にそのことをキチンと受け止めていなかった・・・何か口にしただろうけど、決してポジティブなことではなかっただろうという、その想い、卑屈な記憶があったのでしょう。ぼんやりしていますが、何か口走った卑怯な云い方が、どこかに残っているとげのように思い出されました。

高校生の頃、文学少女とよぶに相応しい、活字中毒、いえ、書籍からはなれられない友人たちがいました。私たちは、サルトル、ボーヴォワールにかぶれ、三太郎の日記を良く理解しているかのように話しました。ニーチェにかぶれていたのもいました。今も覚えているのは、「みだりに人とつきあったらあかん。ニーチェが云うてはる(云っていらっしゃる  の大阪弁)のは、ひととつきあったら、色々言い訳したり、格好つけたりするから、柄が悪くなる、特に品性の悪い人とつきあったら絶対あかん!」と解説(*)してくれていました。

生田長江 本名弘治は、1882(明15)年4月21日生まれ、私の祖父母世代です。そして1936(昭11)年1月11日、第二次世界大戦の前に亡くなっています。54才という年齢は、この頃には短すぎたとは申せません。が、もし、この方が、この病気を持っていなかったら・・・と、思わずにはおれませんでした。

その小冊子から、2013年に、荒波力著『知の巨人:評伝生田長江』が出版されていることを知り、行きつ戻りつ、1週間をかけてしっかり読みました。

​ 生田長江 本名弘治は、今の鳥取県の日野町生まれ、若くして兄のいる大阪に出、英語を学び、キリスト教に触れ、さらに東京に出て、第一高等学校から東大哲学科に学んでいます。若い時から、文筆に優れておられたのですが、日本の近代文学に出てくる高名な方々のすべての人々と関係があるといっても間違いではないほど、活躍されたのに、何故か、あまり名前が出なくなった…その理由がハンセン病だったとしたら、日本の知的レベルもこぞって、この病気を差別していたと云えるのではないかと思います。​

たった一人、この方の活動は、20世紀初頭からの日本の文学史のように思えました。

上田敏、馬場弧蝶、森田草平は同志的、与謝野鉄幹・晶子夫妻は隣人的関係、佐藤春夫、生田春月らは弟子的関係、大杉栄らとも交友関係があり、そして女性のために開催された講習会『閨秀文学会』の中に、平塚らいてう、大貫かの子、青山菊栄がいたのです。

そしてニーチェ(『ツァラトゥストラ』他、全集)だけでなく、ダンテ(『神曲』)、ゲエテ(『ファウスト』他)、トルストイ(『アンナ・カレニナ』)、ドストエフスキー(『罪と罰』)、ルッソオ(『懺悔録』)、ツルゲネフ(『猟人日記』)、オスカー・ワイルド(『サロオメ』)、フローベル(『サランボオ』)、ダヌンツィオ(『死の勝利』)、そして一部分だけですが、マルクス『資本論』他、おそらくどなたもがどれかは手に取ったことがあろう、膨大な翻訳のほか、沢山の評論、啓発書、英語の勉強法などなど・・・

キリスト教に親しまれたのは早かったのですが、後年、総括的に取り組まれた『釈尊傳』の途中で54才の生涯を終えられました。その頃には、失明され、容貌が崩れるまでに進んでいたそうです。『知の巨人』の中に、後に作家として活躍された同郷の大江賢次氏が、郷土の先輩を尋ねられた時の記録があります(346頁~)。

初めてこの偉人の姿を視た瞬間、思わず息を呑んだ。その姿は「くずれたガンジーの様だった」・・・持ち上げた長江の右手を見ると、ショウガのような手に画家のデッサン用の鉛筆がくくりつけられている・・・・

ただ、膨大な業績のすべては、割合、若いころに発病したハンセン病を抱えながらのものであり、この方が社会的活動を減じられていったのは、決して病気の所為ではなく、卑怯にも、この病気をあえて暴露した同業者がいたことであったのです。が、生田長江という人の知的活動は毫も揺らいでいないことに圧倒されます。長江の一生の業績は、古い時代のワカモノがかぶれた西欧の智をわが国に導入したこと、そしてそれから日本人一般の中の近代が始まったことのように思いました。このハンセン病対策を活動の一つにしている笹川記念保健協力財団に来なかったら、この病気に、斯くも深くかかわることもなく、生田長江にめぐりあうこともなかった…と思うと、数十年タイムスリップして、もう一度、高校時代をなぞりたいと思いました。

20170519生田長江② 20170519生田長江

(*)正確には、生田長江訳 ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」 隣人愛の節にある一節、「ただにその知識に反して談<カタ>る者のみ詐<イツワ>るにあらず、その無識に反して談る者は更に甚だしく詐る。しかしてかく汝等はその交際に於て汝等自らを談り、汝等自らを以て隣人を欺く。かく愚なるものは言う。「人と交われば品性を害<ソコナ>う。何らの品性を備えざる場合に於て特に然り」と。

[会長ブログ ― ネコの目]
5月は看護の月

連休-観光案内やご無沙汰の郷里訪問で美しい自然に癒された方々も多いかと思います。

壮大な山野にはじまり、露地の片隅、小さな生垣、拙宅では100円ショップで求めた小さな植木?に到るまで、色合いは異なりますが緑、ミドリに自然の息吹を感じます。が、新緑・・・と申しますが、山々では、淡い黄色っぽい新芽を壮大に吹いている感ありのクスの大木もあれば、街々の生垣には名前通りに赤いベニカナメモチ(英名も赤が入ってレッドロビン)の燃えるような朱色もきれいです。

子どもの頃の郷里宝塚や大阪郊外の農村では、田植の準備が始まったものです。

そう云えば、5月の別名皐月<サツキ>は、田植すなわち早苗月<サナエツキ>に始まるそうです。また、五月雨<サミダレ>は、本当は梅雨<ツユ>のシトシト雨ですから、五月晴れはその合間の晴れ間でした。この言葉が生まれた旧暦5月、今の6、7月にぴったりだったのでしょう。ま、かつて住んだ九州や沖縄では、5月に梅雨が始まることもありますので、文字通りの五月雨、五月晴れもありました。

さて、連休も終わりました。どちらさまも、新年度事業が忙しくなってきた時期でしょう。

さてさて、その5月は世界的に看護の月です。ご承知のように、近代看護の祖であるフローレンス・ナイチンゲールの誕生日5月12日が看護の日ですが、この日を挟む週は看護の週、そして5月が看護の月です。

その国際ナースデー(International Nurses Day)は、1974(昭和49)年に国際看護師連盟(International Council of Nurses, ICN)が制定しました。日本では、1990(平成2)年に当時の厚生省により、記念日、週が制定され、翌年から各種催しが行われるようになりました。なお、ICNは、この日を記して、毎年、記念のコメントやキットを発表しています。今年は、「看護師:(社会を)導く声-持続可能な開発目標を目指して(2017 – Nurses: A voice to lead – Achieving the Sustainable Development Goals)」です。手前味噌ですが、間もなく4期生の研修が始まる私どもの「日本財団在宅看護センター起業家育成事業」のスローガンは、「看護師が社会を変える!!」なので、ちょっと近い感じ・・・と悦に入っています。自己満足ですが。

さて、ウィキペディアの5月の季語を見ますと、125もありました。ある季節を連想させるに斯くも豊富な語彙を持っている(国の)言葉ってあるのでしょうか?自然が豊かであったわが国には、豊かな文化が育ち根付いてきました。それを途切れることなく次世代に伝えることも大事なこころのケアの一環かと思いますが、皆さま、以下、全部読めますか?

立夏、初夏、卯月、卯浪、牡丹、更衣<コロモガエ>、袷<アワセ>、鴨川踊、余花、葉桜、菖蒲葺く、端午、菖蒲<ショウブ>、草合、武者人形、幟<ノボリ>、吹流し、鯉幟<コイノボリ>、矢車、粽<チマキ>、柏餅、菖蒲湯、薬の日、薬玉、新茶、古茶、風呂、上族<マユづくり時期の蚕>、繭<マユ>、糸取、蚕蛾、袋角<フクロヅノ:鹿の若いツノ>、松蝉、夏めく、薄暑、セル(毛織物の一種)、母の日、夏場所、夏炉、芭蕉巻葉、苗売、苗物、苗植う、茄子<ナス>植う、根切虫、練供養、葵祭、祭、筑摩祭、茄子、夏花、夏書き、西祭、若楓、新樹、新緑、若葉、柿若葉、椎若葉、樟若葉、常磐木落葉、松落葉、杉落葉、夏蕨<ワラビ>、筍、篠の子、筍飯、蕗<フキ>、藜<アカザ、雑草の1種>、蚕豆<ソラマメ>、豌豆<エンドウ>、豆飯、浜豌豆、芍薬、都草、踊子草、駒繋、かくれ蓑、文字摺草、羊蹄<ギシギシ>の花、擬宝珠<ギボウシ>、ゲンノショウコ、車前草<オオバコ>の花、罌粟<ケシ>の花、雛罌粟、罌粟坊主、罌粟掻、鉄線花、忍冬<スイカツズラ>の花、韮<ヒル>の花、野蒜の花、棕櫚の花、桐の花、朴<ホオ>の花、泰山木の花、大山蓮華、手毬花、アカシアの花、金雀枝<エニシダ>、薔薇、茨の花、卯の花、卯の花腐し、袋掛、海酸漿<ウミホオズキ>、蝦蛄<シャコ>、穴子、鱚<キス>、鯖、飛魚、烏賊<イカ>、山女<ヤマメ>、菜種刈、麦、黒穂、麦笛、麦の秋、麦刈、麦扱、麦打、麦藁、麦藁籠、麦飯、穀象<コクゾウムシ>

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地域社会 コミュニティを維持すること

先般、岡山県瀬戸内市で、財団主催の国際会議を開催させて頂きました。いずれホームページでご報告させて頂きます。私は、その間に鳥取県に参りました。こちらでは、私どもの親財団である日本財団が、地元と連携した壮大な鳥取県X日本財団プロジェクトを展開されています。今回は、私どもが行っている在宅看護センター起業家育成事業へのご参加をお願いするための訪問でしたが、それについては、また、別にして、道中で気が付いたことです。

岡山駅から因美線経由鳥取までは、特急で2時間弱ですが、それぞれの駅付近の、敢えて申しますと小ぶりの街を除けば、道中、まことに麗しい日本の原風景が続きます。時期的に新緑の候、レンゲがひろがる田畑、散在する民家、少しずつ異なる緑、翠、碧、ミドリ系に装った木々が群れる山々、時折現れる川と渓流・・・読もうと手にした本を置いて、移り行く景色を堪能しました。JRの線路に沿って整備された道路、時折、それにつながる道筋、いくばくかの信号は点滅しており、それ程、車の往来が多くないように見えました。まして、人の歩く姿はほとんどなく、ごくごく稀に畦道を行く人影がありました。また、遠景に高速道路でしょうか、集落の向こうあるいは集落をまたぐ橋梁も見えました。列車は2輌、1/3位の乗車、二組4人の外国人の姿もありました。

限界集落という単語が人口に膾炙されて久しく、さらに消滅集落という言葉も馴染みになりかけています。集落を横文字にするとcommunityコミュニティでしょうか。

1991年、もう50代でしたが、紛争地勤務の後、思い立ってジョンズ・ホプキンス大学大学院での研修の機会を頂きました。昨年開学100周年を迎えた世界初の公衆衛生大学院ですが、地域社会つまり集団の健康をどう護るかを学びました。ホプキンスのあるボルチモア市はアメリカでは最も古い街のひとつ、ペンシルバニアの石炭による工業化で栄えた他、良港に恵まれ、クラブ(カニ)サンドイッチが有名です。かつて栄えた街の中心部の住宅地はアフリカ系の人々ばかりになり、いわゆる白人は郊外の住宅地にと、やや二分化していました。私は、ちょうどその移行地帯にあるタウンハウスに下宿しました。家主は、アメリカ赤十字社のHIV/エイズプロジェクトの責任者という女性でした。

家主との契約は、食糧費、日常消耗品費は折半すること、可能な限り、週末には車で30分ほどのショッピングセンターに買い出しに同行すること、地域活動のお手伝いをすることでした。地域活動とは、ボランティア的な街の清掃や高齢者訪問ほか近郊の農村の人々が開く朝市の当番でした。夜明け5時頃からの市では、Farmers’ Market(農民市)と染められたお揃いのポロシャツを着て、色々な農産物を売りました。家主は、パイ作りが趣味で、毎日、アップルパイを食べさせられたこともありますが、何処ででも手に入るトイレットペーパー、洗剤、日常用のナプキン、サランラップや日常的なプラスチック製品は、わざわざ徒歩7, 8分のスーパーに廻って求めました。わざわざ回り道するのです。ある日、私は、「同じ値段なのに、どうして、郊外のショッピングセンターで買わないの?」のと尋ねました。

家主曰く。「年を取って、遠くに行けなくなった時、また、高級ショッピングセンターに行く余裕がなくなった時、ともかく、一応のものが手に入るスーパーが近くにないと困るでしょう。だから、この店が継続していて欲しいから、幾らかはここで買わなくっちゃ、ね」

地域社会communityが成り立つためには、私たち住民の自主協力が必要です。すべて国が、地方の行政つまりお上がやってくれるのではなく、自分の住む街をどう維持するか、ひとりひとりが、少しは長期的展望を持つことも必要なのだと教わりました。便利さだけ、しゃれたもの、欲しいものをどこかで自由に入手することだけでは地域社会は成り立たないのです。

時折、JRの廃線が話題になり、最後の列車に沢山のカメラマンが押し寄せます。でも、その地に暮らし続ける人々にとっては、それからの生活はどうなるのでしょうか・・・

災害の多いわが国では、ある地域に達する何本もの複数道路の整備は必要です。が、今後の高齢社会、何時までも誰でもが車を運転できる時代でも地域ばかりでもありません。

出来れば、たった2輌の列車でも、1輌でも、毎日、決まった時間に列車が走り続けてくれれば、地域の生活は安心ではないでしょうか。

車がなければ、毎日が成り立たない地域も増えました。が、地方のJRには、なるべく乗って、廃線予防に貢献することも、必要ではないか・・・と、流れゆく地域、地域の村落を眺めながら思いました。

鳥取


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