[会長ブログ ― ネコの目]
3.11

3月11日の午後2時46分、あれから丸3年の時間が過ぎました。
改めて、犠牲となられた方々を悼み、ご家族そして今も仮設住宅や故郷を離れての避難生活を余儀なくされている多数の皆様にお見舞い申し上げます。
先週末は、日本財団主催の「忘れないで!3.11」街頭募金に参加させていただき、本日は、Facebookの呼びかけですが、「3.11絆を深める黙祷のよびかけ」に参加します。こんなことしか出来ないのですが・・・
地震が発生した時、私は羽田空港、異様なきしみ方をしながら、それでも止まらなかったエスカレーターの上でした。瞬時に地震と理解し、当時勤務していた福岡県宗像市にある日本赤十字九州国際看護大学の電話番号を押しましたが、既に不通。メイルに切り替え、「緊急事態!全員、携帯電話常備・・」とだけ送りました。当然、応答はありませんでしたが、一瞬、南海トラフ!とも思いました。駆け上りラウンジに入り、TVの位置を訊ねました。激しく揺れる床、驚愕の表情の若い女性スタッフのいる受付デスクの引き出しは、出たり引っ込んだりし、中では鉛筆やボールペンが小刻みに踊り、ラウンジの一角では食器用台車がゆらりゆらりと定まりなく動いていました。しゃがみこんだ数名の女性、移動も簡単ではないほどの大きな揺れ。たどり着いたTVは画面が消えたまま、やおら放映されたのは、整備された畑を超え、温室に押し寄せる津波の先端でした。目を向けた羽田の海は茫洋として、大きな貨物船らしい影が、窓枠の中央に黒く見えました。
予約便はキャンセル、今夜は帰れないだろうと予測し、飲み物といささかの食料を購入しましたが、遅れに遅れた臨時便で、福岡の自宅に帰り着いたのは夜の11時過ぎ。その後に続々と知ることになる現実は、まだ、判らないまま、海外からの問い合わせや見舞に混じって、3日前に卒業した看護師の卵たちのボランティア希望、そして教員からの対応を問うメイル。思わず、胸が詰まりました。歴史を変えた3.11の日付が変わる頃、災害紛争関連で仕事をしてきた身にも、例のない巨大災害発生の現実を思い知らされていました。
数回の街頭義捐金募金活動、仙台空港稼働をまっての4月の現地入り、そして8月には80名の学生ボランティア、子どもたちへの図書の寄贈、数回のいくつかの被災地訪問。出来たことは微々たるものですが、何かをせずにはおれません。
雪の日、新緑の頃、真夏の、そして冬枯れの、突如として生活が断絶した被災地、津波に変色した雑木林、、それぞれ別の顔を示しています。短時間の、2,3の地域に過ぎませんが、いずこも訪問する度に、時間経過では解決することのない重い事実と生々しい傷に気づかされます。何が出来るのか、何をすればよいのか、さほどのこともできませんが、繰り返しお訪ねすること、忘れないこと・・・その気持ちは持ち続けたいと思います。
被災地の本当の春が待たれます。