[会長ブログ ― ネコの目]
クリオン島の神様

クリオン島をご存じの方は多くはないでしょう。私も、昨年4月、笹川記念保健協力財団に転じて初めて、その歴史と存在意義を学びました。そして、その島に参りました。かつて
「Isle Of Desperate絶望の島」とよばれた島の歴史を壮絶とか悲惨とのありきたりの言葉では語れないと思います。けど、お目にかかった方々が皆、明るく闊達で、ホッさせられ、いささか気負っていると拍子抜けでした。
1898年、フィリッピンは、スペインの植民地からアメリカ支配の軍事政権となりました。当時、人口約700万の中3,500~4,000人はハンセン病とあります。多分にアメリカの指示でしょうが、政府は公衆衛生問題として、最初、マニラのSan Lazaro Hospitalで対応を、次いでハワイのモロカイ療養地を参考にハンセン病療養地を考え、クリオン島を選びました。3年越しの工事後、1906年5月27日、最初の患者たちが島に到着しました。フィリッピンは敬虔なクリスチャンが多いのですが、ここでもSt Paul of Chartresのシスターたちが看護と社会サービス・・今の福祉・・・を始めたとあります。当初は男女別、結婚は許されず、働ける人は一定就労を求めました。教育は初めから重んじられ、開設年に男児64名女児27名の学校が始まっています。結婚は1933年に認められ、その年にInternational Journal of Leprosyがここで発刊されるなど、ハンセン病研究の中心でした。1952年、隔離が解除され、家庭治療も始まりました。と、島の100年を斯くも簡単に書くことは大いに気がひけますが、ご関心の向きは、同島の案内などをご覧いただき、今回の訪問の理由です。
この地方パラワン諸島北部も、昨年11月の巨大台風ヨランダで大被害をうけました。弊財団が支援している同療養所や回復者用住居、学校、ハンセン病博物館、街のあちこち、ありとあらゆるところに台風の痕が残っています。それまで大きな台風はなかったこともあり、防災感覚がない上、時期外れの超大型台風でした。いささか警報はあったものの、激しく風向きを変える台風に翻弄されたというのが実情、幸い人命は失われなかったのですが、それがまた救援の遅れにつながって・・
財団は、被災直後に療養所院長の一報で、直ちに緊急支援資金を送り、現在も中長期的復興案にも取り組んでおり、実情を見ることと今後を相談することが訪問の理由です。
昔、感染した女児たちの宿舎であったというHotel Mayaの質素な食堂に「最後の晩餐」のレリーフがかかっています。私は、クリスチャンではありませんが、どの宗教であれ、宗教性を感じさせるものの前では、少し敬虔な気持ちになります。たった二日ですが、このレリーフの前で夕食、朝食を頂きながら、ほんのチョット考え、日本風に「イタダキまぁーす」と小さくつぶやいて、食べ始めます。
この島のユニークさは、かつての病者の二、三世が沢山おられること、医療者の中にも患者のご子孫が活躍されていることでしょうか。島は、ハンセン病と何らかの関係を持った方々の集団とも申せますので、あちこちで、かつて療養された方、多少、手足の変形した方もおいでです。しかし、皆さま、本当に上手にと申しては失礼かもしれませんが、その状況をおおらかに受容され、一見不自由そうに見える手で、器用に多様なことを為されています。細かいレース編み、刺繍、漁業のナイロン網などを編んでおられます。まことに不謹慎ですが、10本の指がそろっている私は、何もつくれないと、ちょっと、気恥ずかしい想いがするのです。最後の晩餐の前で、「いただきまぁす」の時、それを思い出します。そして「ちゃんと指を使って働きます」と、神様に約束致した次第です。
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