[会長ブログ ― ネコの目]
インド大陸列車の旅

インドのウエストベンガル州といってもピンとこない方も多いでしょうか。ベンガル湾に面した古い都市コルカタ(かつてのカルカッタ)が州都です。ここから、列車でプルリアまで約6時間の旅を致しました。目的地は、さらに、そこから車で一時間約50Kmのマニプールでしたが、行は鉄道、帰りは車8時間でした。
インドの列車に乗るのは、2回目、最初は5,6年も前ですが、前職看護大学の国際看護フィールドスタディでインドを訪問した際、同じくコルカタからバラナシまでの夜行列車を使いました。バナラシは、よく知られたヒンズーの聖都、夜明けのガンジス河(現地ではガンガスとおっしゃいます)で沐浴する人々や、河岸の荼毘に付される遺体、その遺灰(正確には焼け残った遺体の一部)を聖なる河に流す光景を見ました。あまりきれいではない河・・ですが、信じることは何物をも凌駕することは実感できました。
さて、今回は、弊財団が所在する日本財団ビルなどを管理する株式会社東京BMCさまのご寄付を活用した、ハンセン病患者や回復者の子どもたちのためのホステル-訓練所を兼ねた寄宿舎の竣工式に参加するための事務局長との二人旅です。
コルカタの壮大な鉄道の駅はガンジスに面しています。たくさんのバスやタクシー、そして人々が群れる駅前から構内に入りますと、以前と同じように、天井に巣くっている鳥の鳴き声が騒がしく耳を圧します。区画された待合ベンチでは、これも以前同様、ちょっと気だるげな乗客が並んでいました。夕方4時45分発の列車ですが、3時半過ぎには人々が乗り込みます。長い列車の一両だけのエアコン車両は現地でないと手配できないとか、地元のハンセン関係のNGOの方にお願いしました。発車時には、一車両80席は満席、携帯の話声、ミネラルウォーター、チャイ(甘いミルク紅茶)、よく判らない駄菓子、オモチャ売りがひっきりなしに声を張り上げて通路を行き交うほか、難病の子ども支援の寄付を募る女性もいました。
携帯、アイパッド、イアホーンで何かを聴く人、サリー姿の女性、宗教的な、行者のような姿の男性、額にビンディのある女性、ジーパン、スーツ、いやはや、きょろきょろするに事欠かない光景の中、定刻、音もなく列車は動きました。が、かなり左右に揺れます。1時間くらいは、窓の外の明かりは途切れませんでしたが、やがてほとんど真っ暗、時折、鈍い灯りがひとつ、二つ、また、稀には街灯らしきものが続いているところもありますが、大体は暗黒の中を列車が驀進している…という風でした。
所々の駅に停まりますが、放送があるわけではなく、注意していないと乗り越しそうですが、周囲の乗客は悠然とされています。たまたま、座席が駅舎側ではなかったのですが、19時10分頃に停まったところにはMidonapoleとありました。人気のないプラットフォーム、線路を大きくまたぐ架橋、まるで日本の田舎の駅のようでした。
時折、小さな紙カップにティーバッグでつくるチャイ、よく判らないポップコーン様のお菓子を売りに参ります。ちなみにチャイは、2ルピー約4円、それにしては美味しく頂けました。また、時折、突然の携帯、怒鳴るような話し声が響きます。
さて、インドの鉄道は大英帝国によって、1853年、現在のムンバイ(当時のボンベイ)とその郊外のタネー間に敷かれたそうです。日本は嘉永6年、ペリー来航の年です。日本の汽笛一声新橋を列車が動き出したのは1872年ですから20年先輩です。現在、62,000Kmの長さを誇る世界第五位の大鉄道網です。当初は、大英帝国が、植民地化したインド内で安く手に入れた綿花や石炭そして紅茶などを集積するためでした。大英帝国だけではありませんが、かつて世界を睥睨したヨーロッパ諸国は、その植民地を経営するに、株式会社形式をとっています。曰く、オランダ東インド会社、イギリス東インド会社・・・制度としては効率的であったのでしょうが、その組織の下で暮らし続けて行かねばならなかった現地の人々はどんな思いだったのか…ゴトゴト揺れる列車の中で、そんなことを思いました。
東北インドでは、紅茶の名産地ダージリンやアッサム行の、世界遺産に登録されているダージリン・ヒマラヤ鉄道(1999登録)があり、特殊な登山列車風だとか、一度乗ってみたいとも思いました。

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コルカタ駅
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車内の様子