[会長ブログ ― ネコの目]
初夢

明けましておめでとうございます。各地の大雪、出鼻をくじかれた感ありでしたが、よい新年をお迎えになられたことと拝察します。
古来、新年2日の明け方に見るのが初夢、縁起の良いのは一富士、ニ鷹、三茄子と申します。世界遺産の霊峰、Mt.FijiのNo1は異論ないところですが、出所は江戸時代、駒込にあった富士山信仰の講が由来とか。ついでにくっ付いたのが、付近の鷹匠住宅つまり将軍ご趣味の鷹狩専門家の存在と名物地産なす。でも、やはり何故、鷹とナスですね。そして地域で違うそうですが、四扇五煙草六座頭と云うらしい、です。
私の初夢です。単純ながら、畏れ多くも天皇陛下の年頭のお言葉に触発されています。戦後70年の節目に当たる今年、陛下は、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なこと」と仰せでした。
満州事変とは、1931年、日本軍の一部隊関東軍(当時の中華民国からの租借地関東州の管理者)が、現在の瀋陽(当時の奉天)郊外の柳条湖という地の鉄道線路を爆破(柳条湖事件)し、以後、勢いをエスカレートさせて、現在の中国東北部全部を占領した武力介入、そして、いわばこの一部隊の暴走が、その後、わが国が世界と戦う第二次世界大戦の下地をなしていました。陛下が、そこから考えよと仰せの訳を真剣に考えねばなりません。
さて、物心がつき始めた頃、一年程住んだ「満州」に少し敏感なところがあると自覚していますが、私の初夢は33年前に身罷った父が出てまいりました。
日本の軍国時代、父は松花江沿いの林口駐留日本軍の通信部隊教官でした。生家は田舎故、家系断絶ならじと姉は祖父母の許に残り、私は父母と一緒にその地に渡りました。大戦末期、私どもが無事帰国できたのは、いずれも病気が理由。母と私は、子宮がんを患っていた祖母の容体悪化で1944(昭19)年春に、父は翌年春、虫垂炎術後芳しくなく内地強制送還でした。当時、彼の地の生活はゆったりでしたが、帰国前に送った私物は一切着かず、朝鮮半島南端の釜山からの航行は、何時、魚雷に遭遇するか判らないと救命胴衣着用が厳命されたと後に母から聞きました。また、30代後半で壮健だった父の術創悪化は、既に、現地の医療衛生状態の芳しからざることもあったかと、今は思います。
戦後の父は、自分の命は拾ったものと申していましたが、しばらく、引き揚げても郷里に戻れなかったかつての「部下」、今ならスタッフを何人も自宅に泊め、仕事を見つけたり、お嫁さんを探したりしていました。思い出しますが、少年兵とでも呼べた年頃と思われたこの方々は、私が高校生になる頃までの戦後十数年間、父に向って「部隊長ドノ!」と呼びかけていました。
夢の中の父は、掘り炬燵なのに浴衣姿で、癖の貧乏ゆすりをしながら、ニコニコしていました。私の短気は父譲りだと思っていますが、若い時の父は、特に悪戯の過ぎた私には怖い存在で、しばしば子どもの力では開けられない蔵や母屋二階の暗い物入れに閉じ込められたり、母の詫びでは許されずに、時には父が一目置いていたご近所のご高齢のご夫婦が私を引き取って謝って下さいました。そんな日、私はベソをかきながら、そのご夫婦の家で夕食を頂いたものでしたが、かつての部下ドノたちによれば、ただの一回も部下に手を上げなかった唯一の部隊長だったそうです。
父は、夢の中で、ただ、ニコニコと、私の周りの沢山の人々を眺めていました。その数え切れない人々とは、直近の在宅看護センター研修のお仲間、今は亡くなった小学校の同級生、中学時代に通学定期の使い回しで補導された時の仲間(悪さの思い出、冷汗!!)、アフガンで出会った少女はまだしも、見たこともないお顔もありました。炬燵の向こうの父に触れようとしたのですが、何故か手が届かず、手を伸ばそうとしても手が伸びないまま、何故?何故?と思っている内に目覚めました。
さて、満州から父と連想ゲームのような初夢は、果たして何を示唆しているのでしょうか?
今年も、皆様と丁々発止の質の高い対話を続けさせて頂きたいと思います。