[会長ブログ ― ネコの目]
アフガンを癒す医者 ペシャワール会 中村哲先生と山田堰

アフガニスタン(以下アフガン)と云えばペシャワール会、ペシャワール会と云えば中村哲先生との想いを持つのは私だけではないと思います。アフガン関与が30年を超えたペシャワール会の第124号会報(ペシャワール会会報)が送られて参りました。いつものように表紙は甲斐大策画伯の絵。そして、写真と工事の経過をしめす図を含む15頁余の2014年現地事業の経過は、直々に、中村先生がご報告です。

2000年から、中村先生が取り組んでこられたアフガン東部ナングラハル州ガンベリ砂漠のクナール川流域灌漑計画という壮大な開発は、いささかでも現地を知るものからすると、夢のような展開、年々、広大な土漠、岩山、白っぽい茶色一色だった大地が緑に変わっています。私自身は、アフガンに住んだことはないのですが、隣国パキスタンの国境の街ペシャワールでは、日本の四季折々とは異なりますが、アフガンからの果物、野菜は格別でしたから、この国が古来農業によることは実感していました。それが1970年代の国政の混乱から10年にわたる旧ソ連軍全土侵攻を招き、故に米ソ東西対立の極地となり、世界最大難民集団とムジャヒディーン(イスラムの聖戦士)グループを生み、やがてタリバン(本来は宗教学生)の異形化と外来武闘派を跋扈させ、テロの温床、テロとの戦いの場とされ、国土荒廃してきました。

パキスタンのハンセン病対策をきっかけに、アフガンの人々にも目を向けられた中村先生は、やがて個々の人々の健康だけではなく、地域社会を癒すために井戸を掘り、水路をなおし、そして現在に続く国土を癒す壮大な開発に没頭されるようになりました。現地の人々にとっては、緑の大地は、単に食糧自給以上に、生きるべき道を拓くことでありましょう。報告には、何度も豪雨、洪水が崩す護岸の写真もあります。彼の地の厳しい自然は簡単に人の叡智を受け入れないのでしょうか。でも、人々の中に築かれている自立と復興への希望はますます強まっていると思います。

上記ペシャワール会報を拝読したのは、久しぶりに福岡県朝倉市に借りている茅屋に参る道中でした。中村先生がクナール川との闘いのヒントとされた筑後川の山田堰から車で15分です。

梅雨の大雨の後、上流ダムの放流もあって、筑後川はいつになく濁っていました。阿蘇の外輪山に源を発し、大分、福岡、佐賀県を潤して有明海に注ぐ筑後川は、延140Kmで九州最大河川です。と申しても、世界最長ナイル川(6,650Km)にに比するべくもないのですが、筑紫次郎とよばれるように、関東の坂東太郎(利根川)、四国の四国三郎(吉野川)とともにわが国の三大暴れ川、古来、流域の人々は治水に苦労してきました。

山田堰は、17世紀、付近の大旱魃対策に始まったとされます。江戸時代、大河の傍にありがら、農耕用水不足に苦しむ人々とその改革に立ち上がる庄屋たちを描いた箒木蓬生氏の「水神」は、この川の物語です。現在、筑紫平野が九州最大の農作物産地になるまで、つまり筑紫次郎を制御するまでには数百年の歴史があります。山田堰は、まず、1663年、この川から水を引く用水が作られたのですが、暴れ川故、度々の洪水もあって、取水口に土砂が堆積しました。それに対して、中村先生が参考にされた石を詰めた籠を沈めて、川を斜め堰止める方法が生まれました。写真1の手前の静かな淀みは取水口への流れ、向こう側の激しい流れとは別の趣き、ここから地下用水が始まります。

近辺には、いくつもの用水そして低いところから高みへ水を送る三連二連の水車写真2、3もありますが、先人の知恵がこの特徴ある美しい日本を護ってきたのです。

なお、ペシャワール会報第123号には、2014年のナンガラハル州ダルエヌール診療所の1年の外来患者46,122名中、ハンセン病は24名とあります。治安が改善したら、是非、再訪しなくてはと思っています。

写真1 山田堰 手前と奥で流れが違う

写真 2

写真 1写真2,3 三連・二連の水車