[会長ブログ ― ネコの目]
ベルゲンからカービルへ その2

ベルゲンは、国王ハーラル5世をいただくノルウェー王国第二の都市ですと記すと、どんな大都会かと思われますが、世界遺産をもつ北欧有数の観光地のひとつながら、人口はわずか20万人です。わが国では、高齢化と人口減少が問題化していますが、ノルウェーの人口はたった510万人強(2014 同国政府、福岡県に近い)、日本と同程度の国土ですから、人口密度はなんと17人/Km2と日本(377/Km2)の1/22です。辺境地を訪問したことはありませんが、多分、人影はないでしょう。

世界地図のヨーロッパの上、スカンディナビア半島の西側を占めるこの国は、北太平洋を還流する暖流のお陰で、緯度57度のベルゲン港も不凍港です。世界の4大文明発祥地のエジプトと同じく考古学が発達しているのは、紀元前からゲルマン系民族が居住していたからでしょう。日本の平安時代にあたる9世紀末には北欧初の王国が生まれ、11世紀にかけてのヴァイキング(武装船団つまり海賊?)時代には、よく云えば海上交易、正確には略奪行為も活発だったようで、引き続き、ハンザ同盟(北ドイツ中心に北海、バルト海沿岸の貿易を独占した都市経済活動の連携)を通じ発展し、13世紀頃にはアイスランド、グリーンランド、スコットランドを支配したそうです。そして、この国は、古来の固有信仰が根強く、キリスト教はかなり遅れて到達したものの、後には宗教がらみの権力争いに加え、ペストで王家が滅び、デンマーク支配下になったり、19世紀には、ナポレオン戦争に巻き込まれ、スウェーデンに併合されたりしています。で、ノルウェーが真に独立したのは1905年、やっと110年前に過ぎません。その後、第一次世界大戦では中立を護りましたが、第二次世界大戦では、ナチスドイツの侵略を受けています。調べてみて、ちょっと驚きは、この国が終戦直前の1945年7月の対日宣戦布告をしたこと、実際に戦ってはいませんが。

現在のノルウェーは、華々しくはありませんが、世界トップランクの国です。国の富を示すGDPは世界第29位(日本は3位)ながら、一人当たりDGPはルクセンブルグ、スイスに続く3位(74,597USドル、日本は32,478ドルで26位、IMF)であるだけでなく、良い暮らし指数は世界2位(日本は20位、OECD)です。近年、色々な国際紛争における仲介を行ったり、かつてのスウェーデン併合時代の名残でもありますが、ノーベル平和賞選考を担うなど、独特の外交で存在感を示しています。そう云えば、第2次世界大戦後に生まれた国際連合の原加盟国51ヵ国の一つであり、初代国連事務総長もノルウェー人でした。国内的には、海底油田、造船、製鉄、漁業を基盤に、北欧モデルと云われる高負担高福祉でも有名です。

なぜ、この北欧の地で、ハンセン医師が世界で初めて病原体を見つけたのでしょうか?また、そもそも、なぜ、この地にハンセン病が蔓延したのでしょうか?

蔓延というと、街中に病人だらけの感ありですが、今回訪問したベルゲンの聖ヨルゲンス病院(St. Georgen’s Hospital)や国や町の古文書館で伺った情報では、最大時のノルウェー全土の患者数は3,000名、保養所が800カ所、ベルゲンだけで3病院あったそうです。コレラやペスト大流行とは異なりますが、1769年のノルウェーの人口は728,000人、最大都市ベルゲンが14,000人、19世紀代初頭の全国が883,000人との記録からは、人口1,2万の街に数百人の患者は蔓延といってよいでしょう。

別の1800年代のノルウェーの生活記録からは、狭い農耕地でかろうじて生計を立てていた家族の姿がしのばれます。19世紀は、世界中が貧しかった時代です。山が迫るフィヨルドの狭い港街ベルゲンで、多数が農業に従事することは不可能、恐らく田舎で生計を立てられない人々が、当時の大都市ベルゲンに仕事を求めて流れ着いたのでしょう。また、この頃、ノルウェーから新世界アメリカへの移民が多かったことや中世来の海上交流もあって、人々の往来は盛んであり、その中で病気が持ち込まれていた可能性があったでしょう。加えて19世紀初頭、ナポレオンがヨーロッパを蹂躙した頃、南からの避難民が流れ着き、生活環境は劣化していた・・・そんな中でハンセン病者が蓄積したと想定したいところです。

続けて、なぜ、Dr.ハンセンが世界で初めて病原体、ここではらい菌の発見者になれたのでしょうか?勝手な想像を膨らませたいところですが、これには科学的証拠がありました。

天災という言葉があります。18世紀のイギリスで産業革命が始まり、19世紀のさまざまな科学的な発見までの人類の歴史は、自然現象に基づく台風、地震、洪水、干ばつなど自然災害、また、飢きんと感染症との闘いでした。集団が生まれ、民族が顕になり、領主や王や皇帝が権力を持つ。領地、領民を護る代わりに使役し、都市国家が生まれ、徐々に戦争という人為災害が増えたものの比較的近代までの人類の生存は病気を含む自然現象に委ねられていました。

古来、人類を悩ましてきた病気の原因―らい菌を見つけたDr.ゲルハルト・ヘンリック・アルマウェル・ハンセンは1841年7月29日、指物師一家の8番目の子どもとして生まれました。ハンセン家は15人兄弟姉妹であり、後に破産したこともあって、学生時代から自活したそうです。クリスチャニア国立病院、次いで北部漁師街で勤務した後、1868年、郷里ベルゲンのハンセン病研究所に勤めました。日本の明治維新の年、ベルゲンにはハンセン病のための病院/研究所が3カ所ありました。

間もなく、「ハンセン病について」との書籍を1847年に出版していた高名なハンセン病研究者ダニエル・コルネリウス・ダニエルセン博士の下で研究に従事します。当時は、まだ、感染や病原体の概念はなく、病気は遺伝あるいはミアズマ(瘴気 注)によって起こると信じられていました。しかし、ダニエルセンとハンセンは、見捨てられていた患者たち訪ね歩くことで、現在でいう疫学の考えもあったのでしょう。つまり、この特異な病気には何か特異な原因がまき散らしているのだと。

後にその娘と結婚しましたので、ダニエルセンはDr.ハンセンの義父になります。最初は、娘婿ドノには反対したダニエルセンですが、やがて、どの患者のリンパ節からも同じく「感染物質」と命名されたもの‐らい菌があることを認知します。Dr.ハンセンは32歳の時に、その所見を論文にしました。世界で初めて病原体が発見されたのです。19世紀の大都会ロンドンでのコレラ大流行から50年後、コッホがコレラ菌を同定したのは1883年でしたから、それに先んじるらい菌発見が如何に画期的であったか! しかし、ベルゲンでの研究には限度があったのでしょう。当時の先進国ドイツやフランスで近代細菌学を確立したコッホやパスツールがノーベル賞を受賞したのに対し、Dr.ハンセンはその栄誉を受けていません。

Dr.ハンセンの研究は、しかしそれに先んじる体制がありました。先に(10月12日ブログ)記しましたが、当時のベルゲンには全ハンセン病患者の登録制度が確立していました。期せずして、公衆衛生の制度と高名な指導者との疫学的調査、そしてDr.ハンセン自身の熱心な研究…それらが揃って初めて、病原体による感染が病気を作るという新しい考えが確立されました。

10月上旬、私が訪れたベルゲンの街は観光客で賑わっていました。

今を去る140年前、ひたすら一つの病気に熱中した医師が存在した。

しかし、そのこととこの国からハンセン病が一掃されるのは、また、別の問題でした。この地の最後の患者は1950年代ですが、大半は化学療法が生まれる前に解消しています。WHOがハンセン病対策を立てるはるか以前でした。栄養、環境を含む生活水準、社会の仕組み・・・まだ、未解決の問題は偏見や差別です。

真っ青の空、私が今見ている山と海、140年前にもあったのです。Dr.ハンセンも見ていただろう光景ですが、深い感慨を覚えざるを得ませんでした。

注: ミアズマ(miasma、瘴気<ショウキ>、ギリシャ語の汚染、不純物の意)とは、古代ギリシャの医聖ヒポクラテスも唱えた考えで、現在、感染と考えられる病気の原因をいう。ミアズマ=悪い空気、不純な物質が人体に入って病気をつくると考えた。代表はマラリア(mal<悪い>ari<(空気>ハイタリア語)。17世紀のイギリスのヒポクラテスともよばれたトマス・シデナムは、さらに天然痘、赤痢、ペストなどもミアズマによるとしている。