[会長ブログ ― ネコの目]
ベルゲンからカービルへ その3

10月来、海外を含め転々が続き、ブログ停滞です。ご容赦を。

さてハンセンをめぐる旅のその3。カービル(Carville)という地名をご存じならば、何かハンセン病に関心をお持ちのことでしょう。私自身、当財団に関与するようになるまで「カービルの奇跡」という言葉は聞いた記憶があるのですが、何処の何か、きちんと認識できていませんでした。

2016年11月、アメリカ南部ルイジアナ州のカービルを訪ねたのは、何世紀にもわたって不治の刻印を押し付けられていたハンセン病の化学療法が始まった経緯を知りたいと思ったからです。 

ルイジアナ州はミシシッピー河口に位置し、ジャズ発祥の地ニューオルリンズが思い浮びます。ルイジアナは1812年までフランス領、そしてフランス語のヌ-ベル(新しい)オルレアンズ(15世紀、ジャンヌ・ダルクが戦った地)は1849年まで州都でした。今でもフレンチクォーターなどの観光街が有名ですし、最近では、迷惑でしたが、2005年8月末、一週間近くも居座った巨大ハリケーンカトリーナの被災が知られています。

カービルは、そのルイジアナ州の現州都バトンルージュからミシシッピー河沿いに25kmほど南に下った地点です。この地の有力な民主党系政治コンサルタントの、これまた名士であった祖父の名に由来するそうです。アメリカ各地には、例えばワシントンなど国の成り立ちに関わった人々や開拓者の名前、また、一方、命名に苦労されたのでしょうが、も少し知恵がないのかしらと思うほどそっけない、例えばdeep river(深い河)とかnarrow river(狭い川)などという川名があったりして、利根川、筑後川、吉野川とかの本名だけでなく、それらを坂東太郎、筑紫次郎、四国三郎と擬人化するような情緒はない・・・文化の違いですね。

アメリカのハンセン病対策は、連邦政府保健福祉省の下部組織である公衆衛生局(US Public Health Service, PHS)の一機能ですが、公衆衛生体制は長官をSurgeon General(直訳すると外科将軍、陸海空軍にも同じ名称があります)と呼び、以下、captain大尉やmajor少佐など軍隊式の名称の保健専門家が多数おられます。

カービル国立ハンセン病博物館(National Hansen’s Disease Museum, NHDM)は、ルイジアナ州陸軍州兵(退役軍人を含み、海外平和活動や国内緊急事態に対応する米陸軍予備役)の広大な基地の一角にありますが、上記のような事情もあり違和感はないようです。同じ基地内の徒歩5分に、1894年開設のハンセン病療養所、全米の患者のためだったハンセン病病院が残っています。これらをあわせて通称カービル博物館と呼んでいますが、正しくは、ハンセン病対策に貢献した政治家名をつけたGills W. Long Hansen’s Disease Center(ジル・W・ロングハンセン病センター)です。今回は、現在、博物館や基地を訪問する人の宿泊施設となっている、その病院に一泊40ドルで泊まりました。

ホームページにもありますが、療養所は、元々、放置されていたサトウキビ畑に開設された後、公衆衛生局に移管され、海兵隊病院や短期間の刑務所にもなり、6回も名称を変え、最終的には1999年に閉鎖されました。が、現在も少数の回復者が基地内に在住ですが、今や誰も気にもしていないようでした。1996年に改修開設された博物館を一人で切り盛りされているエリザベスさんのご厚意で、きちんと保存されている色々な資料をじっくりと見せて頂き、制服の軍人さんたちにまじって、基地カンティン(食堂)でランチを共にし、広大な州兵基地に散らばっているかつてのハンセン病関連施設、ここにもあったという療養者用刑務所跡や、頭文字だけのお墓などをゴルフカートで案内して頂きました。

良く知られている「カービルの奇跡(Miracle of Carville)」という言葉は、紀元前以来の長い年月、大げさに云えば、身体が著しく変形してゆくのに、病者も治療者も手をこまねいているしかなかったが故に、不治という刻印を押されていたハンセン病を、他の疾患同様、治るのだと実証したカービルでの化学療法の始まりを云います。今から考えれば、結核菌に似たらい菌の感染症であるハンセン病に結核用治療薬を試すことは理にかなっています。が、コロンブスの卵のようにそれを発想した人は、何故、そう思ったのか、どんな状況や対話があったのか、幾ばくかの書籍や科学的実録はありますが、医療者とそれを受けた人々の間の交流を知りたいと思いました。

さして効果的でなかった治療を受けていた患者の中から20名が、初めてスルフォンアミド治療を受けてもよいと思ったのは、当時の療養所所長Faget博士の科学者としての言動がきちんと伝わっていた以上に、病者との交流が密だったように思いました。

1941年2月27日付けで掲示されたFagetのお知らせがあります。そこには、スルフォンアミド、ヒルジン(ヒルの唾液腺の分泌物から抽出した血液凝固阻止剤。日本では使われない)、ジフテリアトキソイドなどを試みているが、有望なものはPROMIN(プロミン)と大文字で書かれています。さらに、スルフォンアミド群の中で副作用が少なく、高名なMayo Clinic(メイヨークリニック。クリニック=診療所と名乗っているが、1846年、ミネソタ州ロチェスターに開設されたアメリカ有数の病院)では結核の有望薬とされており、同病院Crowdy博士から、ネズミのハンセン病でよい結果が出たと知らせてきたとし、ついては、この薬を購入し試用してはどうだろうかと呼びかけていますい。そして関心ある人と話したいが、他の薬剤を使用していない患者10人が必要だと書いています。

1941年2月…75年前です。

日本の真珠湾攻撃は同年12月8日未明(現地は7日)ですが、アメリカは既にヨーロッパ戦線に参入していた折、アメリカ南部では、静かにハンセン病治療の幕が開きつつあったのです。不備もあるかもしれませんが、こんな昔にも、治療を受ける側へinformed consentを求めていると思えるこのお知らせ、彼我の違い・・・を感じずにはおれませんでした。

結論的に申しますと、1940年の着任後間もない時期から、積極的に治療に取り組んだGuy Henry Faget(ガイ ヘンリー ファジェット<ファジェとも>)は、1947年に心臓発作で亡くなるまで、カービル療養所の責任者として、患者に科学的に病気と外科治療を解説し続けています。今でいうEvidence-based Medicine/科学的思考による論調ですが、その熱意は、不治と思っている病に侵された人々への感情、今風にいう寄り添い振りを感じました。Fagetは、療養所の「患者」によって発刊された有名なStar紙の1942年8月から43年5月までに、実に10回にわたって、ハンセン病の解説をしています。科学的医学的ですが、読みやすく判りやすい・・・

Fagetは、政府公衆衛生局勤務歴25年の保健行政官でしたが、抗生物質が生まれる前の最も効果的な合成抗菌剤スルフォンアミド系、総称してサルファ剤とよばれるこれらの薬剤のハンセン病治療への導入に踏み切ったのです。

同じく「患者」だった女性の手による“Miracle at Carville”によりますと、肺炎に罹ったハンセン病者へのサルファ剤投与が出てきますので、このような、当時の新薬へのなじみはあったのでしょう。しかし、Fagetの丁寧な解説によって、最初のボランティアグループも安心して治療を受ける気になった…であろうと、博物館の中で、思いました。

最初の治験の結果は追って・・・・

カービル博物館

カービル博物館