[会長ブログ ― ネコの目]
暑さに耐えて・・・

TVや携帯ニュースでは、「熱中症に注意」とか「熱中症に厳重注意」の文字が現れます。
ここしばらくの日本では、35度以上が普通になっているように思えます。CNNやBBCの気象情報でも、世界中が似たり寄ったりの異常気温のようで、各地で山火事が頻発していますが、「熱中症に気をつけましょう・・・」には気が付きません。

かつて勤務したパキスタンのペシャワールで、二夏<フタナツ>、53℃を経験しました。
持参の気温計の最高温度が53℃まででしたが、新聞報道も53℃、そのような日には、二桁の人々が亡くなる報道が常でした。が、一緒に勤務していた現地の人々は、本当の気温はもっと高く、亡くなる人はもっと多いが、皆がショックを受るから、この程度の報道だとか、真偽は判りません。

彼の地、4月末から11月頃まで、日中は40℃を超えることが多く、6~10月は最低でも35℃、最高が50℃以上で、しかも湿度も高い、一日中、お風呂場にいるような日もありました。さらに、4月や11月の夜明けは10度以下という日内差も厳しいものでした。

まず、どれくらい暑い・・・熱いかの私の限られた経験です。実際に、自動車のボンネットで目玉焼きが作れました(そんな愚かなことをする人はいません、もちろん。使用人に呆れられながら、試しました)。ここ数日は、東京でもそうですが、水道からは熱湯に近いお湯が出ました。コンクリートに水を打っても、瞬時に乾き、裸足で水撒きをすると足の裏を火傷<ヤケド>する・・・植木に水を撒くと、水滴が煮えて、葉に水滴状の火傷後が残る。30年も前のことですが、ほとんど毎日数時間以上の停電。

途上国での予防接種事業に従事した経験から、今でも冷蔵庫は素早く開け閉めする習慣が身についています。熱帯での予防接種では、それぞれ保存温度が決まっているワクチンを、如何に現場まで、高温にさらさずに運ぶかが一大事です。1980年代、WHOやUNICEFが協力してCold Chain(コールド・チェーン。ワクチンを、先進国の製造工場から、途上国の田舎の予防接種現場まで一定温度で運べるシステム)を作りました。それでも、本当の末端まで一定低温を維持するのは至難でした。日本で、クロネコヤマトさんのクール宅急便が始まったのは1988年、私はロバの背中に、アイスボックスを括り付けて、道なき道を歩いていました。

さて、停電が長いと、冷蔵庫を開け閉めする度に熱気が入り、保存している筈のものが腐ります。ですから、どの位置に、何が入っているかを覚えて置き、間髪を入れず、必要なものを取り出す。また、無駄に冷蔵庫を開け閉めしないことは鉄則でした。

昨今の日本のように、とても暑い休日のこと。ペシャワールは、家具の名産地で、どのお宅にもチーク材などの立派なテーブルが置かれており、拙宅にも大きな食卓がありました。朝昼兼用の食事後、テーブルの上にマヨネーズのチューブを置いたまま、ほんの少し、別室に参りました。戻ってみたら、マヨネーズのチューブの中でブツブツと泡!! 煮だっているとは申せませんが・・・テーブルは、確かに、暖かよりは少し熱いと感じるほどにヒートアップしてはいましたが、ホント、ビックリしました。

ただ、郷に入っては郷に従え。彼の地の人々は、夜明け前から3,4時間働き、日中は、厚い土の壁の家の中で、静かに休んでいる、そして夕方、また2,3時間働く・・・のが普通のようでした。拙宅は煉瓦造りでしたが、それはモダンだが一番「熱い」建物で、日干し煉瓦造りや厚く土を塗り固め、小さな窓と入口には厚い毛布の熱気除けを吊るした現地風の家は、意外に涼しく、居心地は悪くありません。また、土甕の水もひんやりしていました。衛生上の問題を解決すれば、古来の暮らし方は妥当なのだと思ったものです。

人が住んでいるところで一番暑かった記録は、非公式にはイラクのバスラの58.8℃(1921)、公式にはカリフォルニアのDeath Valley(死の谷)の56.7℃(1913)が知られていますが、その他リビアのアジジヤの58℃(1922)、いずれも100年ほど前ですね。

現在の熱波が、大宇宙の自然のサイクルの一環なのか、地球にはびこった人類という生物の営みのなせるわざか・・・いずれにせよ、プラスチックだけでなくいろいろなものを消耗し過ぎないことを、皆が再認識し、少しでも良い環境、麗しい自然を次世代に保障できるよう、生活を慎みたいものです。