[会長ブログ ― ネコの目]
ハーシーのチョコレート

第二次世界大戦以降の世界に、良きにつけ悪しきにつけ、大きな影響を及ぼしてきたアメリカですが、昨今、とても混乱しているように見えます。異質な大統領が現れたことが大きなきっかけかもしれませんが、話題性には事欠かかないものの、多くの人々が溜め息をつかざるを得ないような事態が続いています。でも、民主主義で選ばれたこと、国としての経済状況が良いこともあって、丸2年が終わりました。

そのアメリカの親しいご知人ファイン夫妻からの贈り物の中に、HERSHEY’S/ハーシーのチョコレートがありました。ご夫妻は、新婚時代を日本で過ごし、二人の子どもは、ともに日本生まれです。Mr.ファインは、日本文化に造詣が深い医師で、公衆衛生専門家としてボルティモア郡の保健局の要職をつとめました。教育学修士のMrs.ファインは、長年、ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生大学院同窓会事務局長として、私を含め、沢山の日本人留学生がお世話になっています。

さて、70代の最後に引っかかっている私の世代にとってのアメリカは、幼児期の空襲警報と不気味なB29爆撃機の飛来音、見えないもののアメリカというモノは恐怖に始まりました。それがどんなものかも知らないまま、悪戯をすると「B29が来るよ!!」と脅されたものでした。現実に見えたアメリカは、1945年8月15日の終戦後の駐留軍兵士です。ジープに乗ったカーキ色の制服、長い脚、大きな靴、格好良く見えました。さまざまな髪の色や水色に見える瞳もモノ珍しく、ガムやキャンディ、時にはチョコレートをくれることもあって、敗戦国の空腹にさいなまれていた子ともたちは、愛想のよい、かつての「敵国」の若者に群がりました。ただ、時折、ケバケバしい化粧と衣装をまとった同胞日本人のお姐さんたちを引き連れての傍若無人ぶりには、子ども心にも、ある種、やりきれない想いがしたものです。後に、高級将校でしょうか、ご家族連れの方々を見た時には、その後、親しんだアメリカ英語のような感じもしました。

当時、ほとんどの日本の子どもたちのお腹には回虫がいましたし、シラミやノミも、どこにでもいる状態でしたが、小学校の校庭に並んだ私たちの頭に、白い粉を散布されたこともありました。DDTです。後に、途上国の保健関連事業に従事した際、いつも思い出すのは、駐留軍保健士官の指示は。敗戦国の子どもの健康をまもる国際保健だっただろうが、DDTまみれになった私にとっては、国内保健!!であったとの想いです。

数年後、私は大阪学芸大学(現大阪教育大学)附属中学校に進学しました。恐らく、試験的な英語教育だったのでしょうが、私のクラスに、アメリカ人が英語を教えに来られることになりました。子どもがもつ印象って変ですが、先生は、とても立派な体格で、GIカットで、明るく、何もかもが豪快でしたが、私が思い出すのは、その当時、身の回りではみたことがなかったきれいな明るい茶色の、ピカピカの特大の靴です。多分、30センチはあろうかという巨大な靴とともに、私が、その後、曲りなりにも英語に親しめたのは、このペーダー先生のチョコレートのおかげだということを、私は、ファイン夫妻に話したことがあります。

中身は良く覚えていないのですが、先生は、英語の詩や文章を暗唱させられました。そして、上手に暗唱できたら、つまり発音が良かったら、板チョコを下さいました。それがハーシーの板チョコとのめぐりあい、私の第二のアメリカの思い出です。

ハーシーズは、アメリカ最大のチョコレート製造会社ですが、元はキャラメルを作った会社から独立し、1894(明治27)年に独立したそうです。本部があるペンシルバニア州ハーシーの街にはココアの香りがあふれているそうです。スイスやベルギーのチョコレートの有名な街でもそうですが、おいしそうな香りの街で、24時間365日暮らすのは良いのか悪いのか…

ともあれ、今日は、皆と一緒にハーシーを頂きます。

巨大なサイズのハーシーのチョコレート

巨大なサイズのハーシーのチョコレート