[会長ブログ ― ネコの目]
修二会〈シュニエ〉

「毎年続けて・・」などと申しますと、何年位?と思いますが、3月1日から2週間にわたって奈良東大寺二月堂で行われる修二会、「お水取り」として知られる行事は、西暦752年、天平勝宝<テンピョウ ショウホウ>4年から続いていますので、今年は1268年目です。何事も三日坊主で終わることが多い俗人には、気が遠くなる年月です。

東大のHPより

東大寺のHPより

天平勝宝4(752)年は、あの東大寺の大仏さまの開眼供養<カイゲン クヨウ>の年です。

では、東大寺はいつ創建されたのでしょうか? 天平文化ともよばれる奈良時代の文化は、大陸から華やかな文物、習慣、諸々が伝来しました。東大寺(の前身)、唐招提寺、薬師寺、正倉院などなど、奈良おなじみの建造物は、皆、この時代です。

が、この時代は政治体制が脆弱であっただけでなく、大地震、干ばつ、凶作に食糧不足(飢きん)、さらに天然痘の大流行など悲惨な出来事が続いています。その中で24歳の聖武天皇が即位(724年)されました。

やっと誕生した皇太子(727年)は一歳前に亡くなり、災害が続きます。天皇は、夭折したわが子を追修するために金鍾山寺を建立<コンリュウ>し、今では東大寺初代別当とされる高僧良弁<ロウベン>ほか、智行僧9人を任命されました。続いて、国分寺(金光明寺)、国分尼寺(法華寺)の建立に際し、金鐘山寺を大和金光明寺と改名されました。これが東大寺の前身とされます。

その昔、奈良医大に在職した頃、海外からの血液学者をご案内する機会が多く、そのために存じ上げた東大寺の第218世別当・華厳宗管長でもあった森本公誠師のご著書『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』(講談社、2010年)と、同じく『東大寺のなりたち』(岩波新書、2018年)を読むと、とても信仰心は篤いが、優しく、お気のやや弱い聖武天皇のお悩みが仏教と結びついたようにも思います。皇后光明子については、葉室麟の『緋の天空』(集英社、2014年)も興味深く読めました。

聖武天皇

東大寺のなりたち

緋の天空

お水取り 修二会は、752年に東大寺開山良弁僧正のお弟子さまであった実忠和尚<ジッチュウ オショウ>が始められた・・・そして1268回目、すごいですね。

ついでですが、お水取りとか修二会は通称で、「十一面悔過<ジュウイチメン ケカ>」が正式名です。何となく雰囲気はわかる字ですが、お水取り行事の場である二月堂のご本尊は十一面観世音菩薩です。悔を過すとは、私どもが日常犯しているはずのさまざまな過ちをこの期間、バッサリと、二月堂のご本尊十一面観世音菩薩さまに懺悔<サンゲ>することであります。

天皇や国の高僧方は、国家と国民のために、天変地異、災害や厄病、紛争や反乱がおこらないことを祈り、五穀豊穣と人々の幸福を願われてきたのでしょう。

「お水取り」という言葉は、若狭の国(現在の福井県小浜あたり)の遠敷明神<オニュウミョウジン>が、二月堂の傍に清水を涌き出ださせ、観音さまに奉ったということによります。二月堂の下には、閼伽井屋<アカイヤ>とよばれる建物、通称若狭井があります。その井戸には、修二会の時だけ水が湧く・・・とうかがっています。とにかく、3月12日の夜中に、その井戸からの厳かなお水の汲み取りが行われます。私も、ちょっと欲しい!!と、容器を持参しても無理ですよ。それは、それは荘厳な儀式の中で、観音様にささげるお水だけを汲むのですから。修二会では、3月1日から2週間、毎夕、大きな松明が二月堂の回廊を走ります。

壮大な儀式ですが、本当の中心行事であるお水取りは前述のように、12日から13日にかけての真夜中です。では、水はどこから?ですが、奈良の行事に並行して、3月2日に若狭地方つまり福井県小浜市で、奈良東大寺の若狭井にお香水<コウズイ>を送る伝統行事「お水送り」の行事があります。3月2日、福井県小浜市神宮寺境内では大護摩がたかれ、その火からのたいまつを持った僧侶たちが遠敷<オニュウ>川沿いに上流に行列します。2Kmほどの「鵜の瀬」という地点で、住職が竹の筒から「お香水」を川に注ぎます。それが、12日の深夜、奈良でくみ上げられる・・・なんかロマンがありますね。

大昔、私が参列した夜は闇夜でした。

寒さと松明だけのぼんやりした灯りの中、温度ではなく、身震いを感じさせられる雰囲気を、毎年、思い出します。

東大寺のホームページをご参照の上、是非、一度、1269回目などを実感されては如何かと思います。