[財団ブログ ― ハンセン病]
カンボジア レンさんのライフストーリー(前半)

こんにちは。職員のMです。初投稿です。
3月に出張してきたカンボジアで若きNGOワーカーに出会いました。
彼自身、ハンセン病を経験していますが、その経験をほかの人のために役立てながら患者・回復者の方たちのために日々がんばっています。元僧侶というとてもユニークな経歴を持つ彼。ライフストーリーを語ってもらいましたので、2回に分けてご紹介します。
(掲載に関し、ご本人の許可を得ています)
ライフストーリー 
カンボジア レン・ソフィアさん(NGOワーカー)28歳
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ソフィア.JPG

レン・ソフィアといいます。レンというのが名字で、ソフィアが名前です。女性みたいな名前ですか?カンボジアでは男性によくある名前なんですよ。
今はプノンペンで妻と暮らしています。5歳と1歳の男の子と女の子がいるのですが、普段は田舎の両親に預けています。僕も妻も、仕事がとても忙しくて子どもたちの面倒を見てあげられないので…。少しさみしいですが、子どもたちの将来のためと思えば仕事の疲れも気になりません。
しかも、今の仕事をとても気に入っているんですよ。キン・クレーンというハンセン病リハビリセンターで仕事をして5年ほどになります。
もともとは僕もここで治療やリハビリを受けていたんです。ここはカンボジア唯一のハンセン病専門病院兼リハビリセンターで、全国から患者さんがやってきます。僕自身もここで治療を受けたのですが、初めてここに来た時驚いたことがありました。それは、入院していた患者さんのほとんどが、読み書きに不自由していたということでした。
勉強が好きだった僕は、入院中の暇な時間を使って、周りの友人たちに読み書きを教えるようになりました。みんなとても喜んでくれたので、僕も嬉しかったです。病気が治ってからもしばらくボランティアとして働いていました。お金がたくさんもらえることよりも、みんなに喜んでもらえることが嬉しくて続けていたんです。
そのうち、リハビリセンターの方から働いてみないか、とのお誘いを頂いたので今こうして仕事をさせていただいています。今はリハビリセンターの中だけでなく、海外からの支援で実施しているさまざまなプロジェクトのアシスタント・オフィサーとして、月に2~3回は地方へ出張に出ています。自分の経験を活かしながら、ここへ来る患者さんの気持ちに寄り添いながら働けるので、とても充実した毎日を送っています。

ソフィア②
(会議で発言する回復者の後ろに立ち、サポートするソフィアさん)

前置きが長くなってしまいましたが、僕の生い立ちについて話しましょう。こうして改めて話すことなどあまりないので、ちょっと不思議な気持ちがしますね。でも嬉しいです。
僕は1984年、プノンペン近郊のカンダール州で漁師をやっていた両親のもと、5人きょうだいの3番目として生まれました。暮らしは貧しく、度重なる洪水のために家を流されたため、僕が物心ついた頃には一家でボートの上で生活していました。ボートでどうやって生活するんだ、とお思いですか?衣食住、全てボートの上で行うのです。もちろん、火を使った料理だってできますよ。しかしやはり定住せずに5人のこどもを育てるのは大変だったらしく、僕が7歳になった頃、両親はやっと定住先を見つけました。
とても貧しい生活だったのですが、両親は僕ら子どもたちにできる限り勉強させようと考えていました。当時、家から学校まで往復4時間かかったのですが、それでも学校にいかせてくれました。
僕も学校が大好きでした。3年生まではクラスのリーダー的存在だったんですよ。特にクメール文学が好きな子どもでした。
3年生も半ばを過ぎた頃、父が体調を崩して漁へ出られなくなりました。一番上の兄は出稼ぎに行き、二男である僕は父の代わりに漁をやるようになりました。もちろん最初は見よう見まねで始めましたが、家族が食べていくために必死だったので学校もやめ、毎日漁へ出て魚をとりました。でも心の中ではずっと、学校へ行きたい、勉強を続けたいという気持ちがあったんです。貧しい状況はよくわかっていましたから、両親にはなかなか言い出せませんでしたけど。
そうして3年ほど経ったころ、どうしても学校へ戻りたいという気持ちを捨てきれなかったので、思い切って両親に話してみました。僕の気持ちを理解してくれた両親は、僕が叔母の家から学校へ通えるように親戚に頼みこんでくれました。
そうして何とか叔母の家から学校へ通うことが許されたのですが、そこでの暮らしは楽なものではありませんでいした。学校から帰ると、すぐに田んぼでの作業や家事など、夜遅くまで大人達の手伝いをさせられ、宿題をする時間など全くありませんでした。成長してくると、もっとたくさんの仕事を任せられるようになり、そのうち学校へ行くことすらままならなくなってきてしまいました。
親戚から「食べさせてやっているんだから働いて当然」といわれたことも一度や二度ではなく、そうなると立場の弱い僕は何も言えなくなってしまいます。かといって、十分なご飯をもらっていたわけでもなく、いつもお腹をすかせていました。その頃僕は13歳か14歳だったと思うのですが、お腹一杯ご飯を食べて、思う存分勉強したい!と強く願っていました。そしてそのためには、僧侶になればよいのだと考えるようになりました。
今思えばずいぶん子どもっぽい考えだったな、と思うのですが、確かに、お寺で暮らす僧侶は食べ物には困りません。また、学校にも無料で行かせてもらえるのです。当時の僕は、だんだん僧侶になることで頭がいっぱいになり、他に道はないと考えるようになりました。そんな僕の話に、最初両親は反対しました。「まだ若すぎる」と。しかし最後には僕の熱心さに根負けして、パゴダ(寺)へ入ることを許してくれました。

パゴダ.JPG
(プノンペン市内のパゴダ)

寺に入った初日のことは、今でもよく覚えています。真夜中、しぃんと静まり返った寺の中で一人目を覚ました時、家族が恋しくて仕方なくなり涙がとめどなくあふれてきました。でもその時思ったのです。しっかり勉強して、人生を良くしたい。そのためには一人で強く生きていかなければいけないのだと。
1999年、15歳でパゴダに入った僕は、そこで1年間勉強し、翌年晴れて僧侶となることができました。皆さんもうお気づきのように、僕の僧侶になりたい、と思った一番最初の動機はとても子供じみたもので、ご飯をお腹いっぱい食べたい、学校へ行きたい、というものでした。でも勉強を始めてみて、仏教の深さに魅了されていったのです。僧侶となった後も、僕は勉強を続けました。
2002年、僧侶となって初めて両親の家へ帰りました。袈裟をまとった姿を見た両親は、嬉しさのあまり涙を流していました。その頃には給与をもらうようになっていましたので、それを両親へ渡し、弟と妹の学資にしてもらいました。兄も姉もプノンペンで働き、実家に仕送りしていましたので、この頃から実家の生活も少しずつ良くなってきていました。自分の好きな勉強を続けながらも両親やきょうだいを助けることができ、とても充実した生活だと満足していました。でも、それも長くは続きませんでした。
(続く)