[財団ブログ ― ハンセン病]
カンボジア レンさんのライフストーリー(後半)

カンボジア レン・ソフィアさんのライフストーリー後半です。
2002年になったころから、体の異変を感じるようになりました。腕や足に赤い斑紋が出て、体が熱っぽくほてるのです。医師には何度もかかっていたのですが、いずれも原因がよくわからないということで、処方された薬を飲んでも症状は改善しませんでした。ある時、僕の症状を見た一人の医師が、プノンペンのハンセン病・結核病院へ行くよう勧めました。
長い間症状が改善せず、むしろ悪化の傾向を見せることにいら立っていた僕は、深く考えることなくその病院を訪れました。友人も気軽についてきてくれました。その病院で僕を診療した医師は僕を見るなり「どうしてここまで放っておいたんだ!」と大声で言いました。そして一言、「ハンセン病です」と告げました。「ハンセン病」というのが何なのかわからなかった僕は、おもわずそのまま「ハンセン病?」と聞き返しました。すると医師は低い声で「それはクルン(Klung)のことです。」とクメール語で言い直しました。
クルン、という言葉を聞いた途端、僕の頭の中が真っ白になりました。そして我に返った時、涙が頬を伝って足元へ落ちているのに気付きました。「差別」「偏見」という言葉が頭の中をぐるぐると回りました。絶対に差別され、ぼろきれのように扱われれるのだ、と絶望的な気持ちになりました。僕はそれまで、ハンセン病だという人に合ったことがなかったのですが、彼らがいかにひどい扱いをうけているかについては人づてに知っていました。一緒に病院までついてきてくれた友人は、クルン、という診断名を聞いた途端に顔がこわばり、そそくさと僕を置いて病院を去りました。
医師は僕が少し落ち着くのを待って、ハンセン病が今ではMDTという薬を飲めば完全に治るのだ、ということを優しく教えてくれました。しかしその時の僕は、その言葉を素直に受け入れることすらできず、ひたすら絶望した気持ちを抱えたまま、ひとりパゴダへ戻りました。
月がとてもきれいな夜のことでした。

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(MDT治療を呼びかけるポスター)

パゴダに戻ってからは、誰にも会いたくありませんでした。自分の部屋に鍵をかけ、周りの人には病気だとだけ知らせてひたすら閉じこもり続けました。月に1度、MDTを取りに病院に行く以外には、ほとんど外へ出ませんでした。そんな生活をほぼ1年間続けました。
どうしてそんな態度をとったのでしょうね。今から思えば、友人たちから差別されるのがとても怖かったのだと思います。あの日、一緒に病院へついてきた友人は、僕がハンセン病だという噂をすぐに広めました。これまで親しかった友人の態度が変わることは明らかでした。それを知りながら、外に出かけていくことなんてできなかったのです。
1年間のMDT治療の末、少しずつ体調は良くなってきました。
体じゅうに広がっていた斑紋もずいぶん消えました。一部、手足と顔に少し障がいが残ってしまいましたが、少しずつ外出する勇気も出てきて、体調と気分が良いときにパゴダの中で子どもたちにクメール文学を教えたりしていました。
そんな時、友人の一人からプノンペンで英語を勉強しないかと誘われたのです。彼は僕がハンセン病だったとは知らなかったようです。突然の誘いだったのでかなり迷ったのですが、パゴダに閉じこもってばかりの生活を続けるわけにはいかないと思っていましたし、これからは英語が重要になるだろうと考えたので、一緒にプノンペンへ行くことにしました。
ところが、新天地での新しい生活に気持ちを新たにしていた矢先、らい反応に見舞われてしまいました。体の腫れ、関節の激しい痛みに苦しんでいた時、人づてにキン・クレーンリハビリセンターの存在を知ったのです。
キン・クレーンでは本当に様々な人と出会いました。プノンペンからずいぶん遠いところから治療に来ている人もたくさんいましたし、厳しい差別にあって笑顔を見せなくなってしまった幼い少女もいました。そこで同じ経験をした者同士、一緒に励ましながら治療やリハビリを受け、絆を深めていきました。
体が回復してきて気持ちに余裕が出てきた時、ここで出会った友人たちのためになにかしたいと思うようになったのも自然な流れだったんです。それで冒頭の話に繋がるわけです。

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(普段はお茶目なソフィアさん)

そうそう、その頃僕はまだ僧侶のままでした。でも、キン・クレーンでの仕事のお話を頂いて、熟考した結果、僧侶を辞めることを決意しました。なかなか想像しにくいかもしれませんが、この国で、僧侶というのはとても尊敬される存在なのです。一般の人々と同じ立場で仕事をすることができません。僕は、自分と同じように辛い経験をしたハンセン病患者・回復者のみなさんによりそって、同じ目線で仕事をしたいと思ったので、僧侶を辞める決断をしました。決断するには勇気がいりましたよ。でも田舎の両親もは後押ししてくれました。自分の経験を他の人のために役立てなさいと。
先ほども言いましたけど、今はとても充実しています。家族がいて、人に喜んでもらえる仕事があって。最近は、夜間の大学にも通い始めたんです。講義は全部英語なんですよ。大変ですけど、勉強するのは本当に楽しい。たまには辛いこともありますよ。ハンセン病の回復者だ、って未だに差別されることだってあります。でも、ここは力を込めて言いたいんですけれど、僕はもう、誰が何を言おうと気にしない。支えてくれる家族もいます。友人もいます。外国人の友だちだっている。自分に自信を持てるようになりましたから。
(プノンペン、2012年3月)
(M)