[財団ブログ ― ハンセン病]
フィリピンの第2世代はいま

かつて世界最大のハンセン病隔離施設であったフィリピンのクリオン島。
1987年にはクリオンにMDTが導入され、患者数は激減しました。
1992年にはクリオン島を一般の地方自治体として認定する法令が採択され、1995年の初の市長選挙が行われ、療養所としてのクリオンの役割は終結しました。
笹川記念保健協力財団は、一地方自治体としての一歩を踏み出したクリオンに、2003年度より教育支援、環境改善、歴史保存などさまざまな支援をしてきました。
2012年度にはこれまでの支援に加え、新しい支援を行いました。
「過去を取り戻す。アイデンティティの再構築ーウェルフェアビルの子どもたちー」と名付けられたプロジェクト報告の一部を紹介します。
「世界最大のハンセン病コロニー(療養所周辺に患者とその家族が集まって暮らす地域)として知られたクリオンは、患者の隔離によるハンセン病制圧のモデルとして、世界の国々に名を知られるようになった。1907年から1930年の間にクリオン島で生まれた子供の数は1,320人。そのうち497人は死亡し、688人は家族や孤児院に送られ、70人がハンセン病を発症した。
ハンセン病の発症を防ぐために母親から乳児期に引き離すことによって、幼児死亡率は急激に上昇した。多くは胃腸関連の疾病によるものだった。1930年代までには、子ども1,000人当たりの死亡率は348.48にまで上がっていた。
乳児に関しての政策は、結婚や男女分離と同様に、時代によって変化した。
1925年までは、クリオンの6カ月までの乳児は両親のもとから、コロニーの外で暮らしている親戚に預けられた。6カ月以上の乳幼児は5才になるまでコロニーの外にある保育所に預けられた。5才になるまでにハンセン病を発症しなかった子どもは、養子に出された。公式的にはそうであったが、保育所は一時期に40人の子どもしか預かることができなかったため、多くの子どもたちは両親のもとで暮らしていた。
1925年、1926年には、2才以上でハンセン病を発症していない子どもたちは親戚のもとに預けられるか、マニラにある公共福祉委員事務所に預けられることとなった。
1927年には10カ月になった乳児は両親から引き離されることに、1928年には規則として6カ月になった乳児は両親から引き離されることが決まった。
ハンセン病を発症しなかった子どもたちは、マニラのウェルフェアビル孤児院に送られた。クリオンの保育所に入った子ども、ウェルフェアビル孤児院に送られた子どもは、それぞれ1カ月に1回の検査を受け、その結果は、ハンセン病の感染経路や疫学的な研究に大きく貢献したという。
これらの記録は、笹川記念保健協力財団のこれまでの歴史保存支援の一環として、デジタル化されている。
現在、自分のルーツを探したいと願うクリオン島で生まれた人たちが増えている。
クリオンで生まれ、フィリピンやその他の国で暮らす、両親や祖父母がハンセン病のためにクリオンに送られた人々。彼らもまた、ハンセン病という病気によって翻弄された人たちだった。
早ければ生まれて数カ月で親元から引き離され、保育所、孤児院で育てられ、親の顔も分からないまま国内外に養子に出された人々。
彼らが求めているのは、自分の人生そしてルーツの中の失われたピースだ。
自分の親は誰か。
いま生きているのか。
もしも時遅く、すでに亡くなっているのであれば、どのように生きて死んでいったのか。
自分たちのルーツを探し、その過程で、なぜ自分の親や祖父母が隔離されなくてはならなかったのか、なぜ隔離された親のもとに生まれた自分たち自身が、さらに親元から隔離されなくてはならなかったのか、クリオンから来たということで、ハンセン病を患った親がいたことで受けてきた数々の侮辱、屈辱はなんなのかについて悩み、そして自分たちなりのアイデンティティを再構築するのだ。
ウェルフェアビルに送られた第2世代による集会が2013年3月に行われた。
過去の話をするのはあまりに辛い。
でも同じような体験をしてきた人たちが、何人も集まり、
これまでひた隠しに隠してきた自分の過去を共有することにより
過去と共に隠してきた感情も共有され、生まれてきた意味を、喜びを感じるようになった。
ようやく隔離された親からさらに隔離された第2世代のアイデンティティが確立され、
尊厳を取り戻すことができたのだ」
感動の第2世代集会の様子は、また改めてご紹介いたします。
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(星野)