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『シエラレオネの真実』   遠い国の話のようですが・・・

長らくUNICEF東京事務所広報官として活躍され、また、私の国際保健稼業時代のブレイン兼ご意見番的知人の澤良世氏が、『シエラレオネの真実 父の物語、私の物語』を亜紀書房から出版されました。

シエラレオネ、国際分野の人間なら、最悪の保健状態と最短平均寿命の国、紛争関連に関わったものなら、長い内戦と子どもたちの四肢切断という醜悪な報復で、または数年前のエボラウイルス病が猖獗を極めた西アフリカ3か国のひとつとして、あるいはレオナルド・デカプリオ主演映画「ブラッドダイアモンド」の国としてご存知の方がおいでかもしれません。

15世紀半ば、この地に寄港したポルトガル人に、ライオンが吠えているような声?音?が聞こえたため、ポルトガル語で「ライオンの山」と呼んだのが国名の由来です。その後、奴隷制廃止を進めたイギリスが、元奴隷の居住地とし、1808年にイギリスの植民地となりました。以来、イギリスとの縁は深く、著者の父、後に財務大臣になるモハメド・フォルナが留学するのも英国スコットランドのアバディーン大学、そこで著者の母親と結婚します。

第二次世界大戦後の混乱が一段落した1960年代、アフリカは希望の大陸ともよばれ、多数の国が独立しました。シエラレオネは1961年です。しかし、現地人の養成に意を用いなかった宗主国が去った後、西欧型の社会制度は機能せず、国を担うべき人材は育っておらず、しばしば「同じ肌の色の・・」と形容される現地の新興為政者が権力をふるいます。豊富な自然資源が見つかった国々では、外部資本に取り込まれ、不正取引が当たり前、そして汚職、資源からの利益は権力維持と武器輸入に回り、武力行使・・・内戦時代が始まりました。

私は、本の後半を主に「父の物語」と読みましたが、改革派の父が権力者に抹殺される経過を追跡している中、付和雷同する知人や大衆の弱さ、無責任さが際立ちます。一方、「私の物語」的に読めた前半には、留学先の白人女性との結婚、3人の子ども、希望に満ちた帰国、開業、途上国エリートの華々しい成功譚の中で育った混血の少女の話でもあります。その間をつなぐのは、アフリカの黒人の父と、先進国白人の母のDNAを受けた著者でありますが、その芯の通った生き方は父が再婚したアフリカ女性に共通すると思いました。一面、特異な環境下の家族の物語でもありますが、ある国の内部崩壊に巻き込まれた家族がそのエビデンスを明らかにしてゆくドキュメンタリーでもあります。

1964年生れの著者アミナッタ・フォルナは、現在、英国拠点の作家、ジャーナリストですが、やはりシエラレオネのエリート家族の一員、そして今は生母の国イギリス国籍ではないかと思います。

残念なことですが、今でも、途上国には、形は西欧式だが、中身はこてこての現地の伝統が生きています。後半の父の裁判に絡んだ人々の追跡は、国家反逆罪として絞首刑にするための証言をした人々へのインタビューでもありますが、ハンナ・アーレントが『イスラエルのアイヒマン』で述べている「陳腐な悪」でもあります。つまり、どこにでもいる朴訥なシエラレオネの人々が、流れを作ったように、このような事態は、いつでも、どこでも起こりうる、誰でもやりかねないことを示しています。

「父の物語、私の物語」と副題がついているこの約450頁、厚さ約3㎝の大冊は、大いに興味深い一方、なじみない地名、人名、政治グループ名などなど、読み切るのは相当シンドイでした。が、それを超えて読める面白さを私は感じ、週末1日半をかけて、一気読みました。ここしばらく読んできたイギリスの歴史と明治維新との対比もしながら・・・イギリスと日本は、シエラレオネと本質的に何が違うのでしょうか。どの国も国造りの歴史には、武力あるいは権力にしがみついて横暴を極める為政者や権威と戦う改革者が生まれます。そして、いったん権力掌握すると・・・・歴史は、また、繰り返される。

さて、私たちは、幸か不幸か、国造りに関与する機会はほぼありませんが、新しい組織を作ることは日常茶飯事ではないでしょうか。西欧のまねをした形だけのシエラレオネの裁判が機能しなかったように、新たに導入する仕組みをきちんと稼働させるには、制度、用語、言葉の意味を、全員がとは申しませんが、多数者が理解できていない、理解しようともしないでは、うまくは行きません。

自分の国、いえ組織は皆で作り、皆でまもるもの。

その他大勢の無責任モブ(大衆)になって、誰か良いことをしてくれるのを待っていても、あるいは露骨に勝ち組に乗って甘い汁を吸うだけ…では、何も変わらない、とそんな卑近な感想も抱きました。

澤さんと懇意な黒柳徹子氏の推薦の言葉、最後に、しっかり読みました。

シェラレオネの真実 アミナッタ・フォルナ/澤 良世=訳

シェラレオネの真実
アミナッタ・フォルナ/澤 良世=訳

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高齢者の健康と孤独・孤立

「この世で一番強いのは孤独な人間だ」とは、確か、劇作家イプセンの言葉です。威勢の良い言葉です・・・でした。

診療と同時に、まがりなりにも研究に時間を割いていた日々をはなれて、もう30年は経ってしまったこともありますが、近頃は、インターネットで要約が読めることもあって、きちんと論文を読まなくなっています。でも、いじましく、読んでみたいとネットを渉猟しています。そんな中で、ここしばらくloneliness(孤独)という文字が目につきます。そのような論文が急増しているのではなく、独居高齢者特有の気分によるのかもしれませんが、ちょっとあさってみました。

最初に、目についたのは、行動医学紀要(Annals of Behavioral Medicine)という雑誌の論文要約でした。

社会的に孤立して孤独でいることは、特に年寄りの健康と幸福(well-being)にとって危険との認識は世界的に広がっていると、この論文は指摘しています。ただし、自ら独居を望み自立を楽しむ人もいるので、「孤独」と「独居」は、必ずしもイコールではないとしています。なるほど!!独り者の勝手気ままな生活もあり、ですね。が、逆に、感情的に孤独!!と感じるのは、(たとえば、家族の中にいても)「さみしい、一人ぼっち・・」と思う個人の精神的状態によるのだと指摘しています。確かに、いっぱい、人がいることと、誰かが誰かに気を付ける(英語ではconcernという言葉が該当する)は、大いに違います。

この論文の著者らは、50才以上のイギリス人3,000人に行った調査について述べています。結果は、当然のような気もしますが、孤立しておらず孤独でない人は、メタボ傾向がなく、喫煙せず、より健康的な行動をしている・・・そうです。

孤立している、あるいは孤独だと感じている年寄りは、家族や友人のことを思って、健康であろうとする意欲がない、あるいは健康でいようと努力することを助ける人がいない・・・のかもしれないとも指摘しています。(たくさん時間があってやろうと思えばできるのに)独居者が健康的な行動を行わないのは、実際に、社会とつながっていることこそが健康的な行動を続ける理由なのだろうとも推測しています。

さらに、今後、高齢者の健康にとって、どのような社会とのつながり方が必要か、たとえば、家族や知人との顔を見て話す、あるいは電話でもよいのか、などなど考えるべきと述べています。そして、現在は、ソシアルメディア蔓延だが、高齢者の健康に対するオンラインの影響は、まだ、判っていないとしています。なるほど!!私に関しては、携帯は、色々な方とのつながりの最大のツールです。国籍、性別、肌の色、社会的立場、職業を問わず、8才から92才までのメル友がいます。

その他、以下の論文を斜め読みしながら、思うことあります。

現在45カ所になった「日本財団在宅看護センターネットワーク」の仲間たちが、各地で始めている「XXXカフェ」や「YYYサロン」の効果です。それらは、その地の人々の健康や社会とのつながりにどうかかわっているのか。各地の高齢者のお顔はいかならん?イザ!!見学にまいるべし。

20181012-2

20181012-1

目についた論文

社会との関係と健康 Social relationships and health Science241: 540-45,1988

ヒトも動物も、群れ/社会と連携していないと健康の質や量(寿命)が悪く、死亡率が高いそうで、そのメカニズムは不明と述べている。古い論文。

・なぜ孤独はあなたの健康に悪いのか?Why Loneliness Is Hazardous to Your Health. Science 331:138-140, 2011 http://science.sciencemag.org/content/sci/331/6014/138.full.pdf

大学入学、就職など人が孤独を感じることは沢山あるが、長期間の孤独は、心血管、免疫、神経系に悪影響を及ぼし、独居者が短命であるかについての研究を解説。

・ 高齢者の孤独 Loneliness in Older Persons Arch Intern Med. 172:1078-1083. 2012 doi:10.1001/archinternmed.2012.1993

60才以上のアメリカ人1,604名について調べた結果、孤独はADL(日常生活動作)の低下を来たし死亡の危険性を高めていることを報告。

・死亡リスク要因としての孤独と社会関係 Loneliness and social isolation as risk factors for mortality. a meta-analytic review.  Perspect Psycho Sci 10:227-37, 2015

1980~2014年の孤独、社会的孤立、独居生活の影響と死亡に関する論文のメタ解析。初期健康状態の影響はあるが、性別、追跡期間、世界の地域によらず、社会的孤立は他の確立死亡リスク同様に危険。特に65才未満ではより危険。

・孤立と孤独者における過剰死亡リスクの影響。英国バイオバンクのコホート研究によるデータの分析 Contribution of risk factors to excess mortality in isolated and lonely individuals: an analysis of data from the UK Biobank cohort study. Lancet Public Health 2: 260-266, 2017 https://www.thelancet.com/journals/lanpub/article/PIIS2468-2667(17)30075-0/fulltext

孤立、孤独による死亡率上昇は既知だが、何が真のリスクか、約47万人を6年半追跡して分析。

社会的孤立、孤独と死亡の関連性の解明Unravelling the associations between social isolation, loneliness, and mortality Lancet Pub. Health e249-250, 2017

孤立、独居が死亡リスクとされるが、健康状態の劣化が孤立や独居をもたらすのではないか、また、喫煙や社会的不平等も影響するのでは・・

増えている孤独問題 The growing problem of loneliness. Lancet 391,426, 2018 https://www.thelancet.com/action/showPdf?pii=S0140-6736%2818%2930142-9

イライラや死亡率増加が孤独と関係する。

高齢者における社会的孤立、孤独と健康行動Social isolation, loneliness, and health behaviors at older ages: Longitudinal cohog study. Ann Behave.Med. 52:582-592, 2018  doi:10.1903/abm/kax033

52歳以上のイギリス人3,392人についての10年間の経過観察。孤立は健康行動と関係するが、禁煙とも関係している。

・1/3が孤独なアメリカ人、どうすれは良い?One in three older Americans is lonely. Here’s what can help. TIME Sept. 24, 2018 http://time.com/5404616/older-adults-loneliness/

アメリカでは18~22才と高齢者が最孤独。45歳以上の1/3は孤独と申告。物理的孤立や社会活動がないのが最悪。信仰グループに属するか、結婚しているか、定期的性活動があればそうでない。

・睡眠不足が社会からの逸脱と孤独を作るSleep loss causes social withdrawal and loneliness. Nature Communication.(2018) 9:3146 https://www.nature.com/articles/s41467-018-05377-0.pdf

孤独は睡眠障害を起こすが、逆に、不眠や睡眠の質が悪いと社会性を損ない孤独、孤立をきたす。

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ブログ番外編 ご機嫌おうかがい、台風お見舞い、そして「在宅の仲間たち」再開のお知らせ

皆さま

台風一過とは申せ、また、猛暑が戻るとの予想、いかがお過ごしでしょうか?

災害続きですが、つつがない日々であることを祈念しております。

さて、東京では、今朝ほど通りかかった赤坂離宮/迎賓館横に、倒れた大木が道をふさぎ、すべての車は回り道を余儀なくされていました。人命にかかわる被災の少なからんことを、切に祈ります。

近頃は、すべての災害が、それまでに比べ、規模を強めていますが、今回も、「非常に」と形容詞がついた強い台風24号でした。当初北西に進路を取っていたのに日本列島に近づくと東北に向きを変えました2018年9月30日午後8時頃頃、和歌山県田辺市付近に上陸し、近畿圏から東海、北陸を暴風圏に巻き込み、日本列島を縦断する最悪のルートをとって、東北に抜けつつあります。当然、広範囲が暴風雨圏となり、空や海の便は申すに及ばず、新幹線や各地の鉄道、海の便で運休や欠航が続きました。でも、今年は災害続きだったせいか、各地の避難も、いち早く行われたように思いました。

とは申せ、台風は、まだ、東北から北海道に向けて進んでいます。各地の被災の小さからんことを!!

高齢者の多い地域…と申しても、日本全体がそうですが、取り分け、自宅療養者がおいでのご家庭では、気がもめることも多いと思います。私どもの仲間の在宅/訪問看護センターでは、災害に際して、いち早く、利用者やそのご家族、スタッフの安全確認をする体制が取れていますが、ご近隣に孤立されているお宅がないか、目配り気配りをお願いします。

さて、7月に予定していた大阪の仲間からの投稿が、6月18日の大阪北部地震で中断し、そのまま夏休み?になってしまっていました。

10月1日、気持ちも新たに、再開致します。引き続きのご愛読をお願い致します。

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私たちはアジア人!!  財団開祖の「人類は、皆、(兄弟)姉妹」を思い出した第5回日中韓看護学会

3連休に、第5回日中韓看護学会が、国連大学で開催されました。

三つの国の看護協会会長のご講演も基調講演も、参加できた特別セッションも、皆、興味深いものでしたが、まず、私の受けた、的外れな印象です。

かつて国際保健業に携わっていた頃、砂漠近くの、日干し煉瓦造りの要塞のようなお住まいで、ターバン風のかぶりもの、黒々と伸びた髭の、いかめしい顔つきのアフガニスタンの部族長老が、「ワシらアジア人は(We Asian are・・・)・・・」と仰せになった際、ちょっとギョッとしました。当時の仕事柄、“We”と仲間に入れて頂くのは、ありがたいことでしたが、精悍だっただろうその長老とその遺伝子を継がれたであろう鷲のような容貌の一族たち(女性は姿を見せない)と、軟弱で平坦な顔つきの私のどこに、あるいは何が「アジア人」としてくくれるのか、と思いました。

第5回日中韓看護学会で、参集された約300名の看護専門家を拝見していて、久しぶりに、「私らアジア人!!」と思いました。黙っておれば、どなたがどの国からか、まったく判らないほど、雰囲気は類似していました。国籍や年齢を超え、ユニバーサルに共通する看護という責務が、そのような感じを与えるのか、あるいは、この三カ国には、国籍、人種、専門性をも超えた共通の趣があるのか、定かではありませんが、一見では、「コンニチハ!」、「你好(ニィハオ)!」、「안녕하세요(アンニョンハセオ)!」のどれを使うか、ほんとに戸惑いました。おしゃれや、私のような白髪隠しの毛染めもありましょうが、皆、髪の毛はマッ黒。アフガンのような厳しい容貌ではなく、ややフラットな鼻梁、穏やかなお顔つき、まさに“We Asian nurses!”でした。そして皆、キラキラ輝いて見えました。

笹川記念保健協力財団の開祖笹川良一翁の「世界は一家、人類は皆兄弟姉妹!」を実感した一日でした。

講演会場でも、ちらほら、旗袍(チイパオ)をお見かけしましたが、懇親会での中国組は、概ね民族衣装、残念ながら、韓国のチマチョゴリや日本の和服は皆無でしたが。

これもその昔、部族が多い国では、それぞれの言語の統一ではなく、植民地化された場合、英語やフランス語といった外来語が「共通言語」つまり「公用語」になりました。中韓の専門家では、日本語の堪能な方もおいででしたが、対話は英語・・・もし、3カ国が一つにまとまったら、公用語は英語…しっくりこないですが。

さて、笹川記念保健協力財団では、日本看護協会の要請にこたえて、「日本財団在宅看護センター起業家育成事業」一期生で、岡山市で「訪問看護ステーション 晴」を経営している赤瀬佳代氏が、特別セッション「高齢者ケア」で、発表しました。典型的でもあり、また、多様な問題を抱えた在宅療養者の経過を述べつつ、今後、ますます必要度が高まる地域包括医療サービス制度における看護の役割、あり方を述べました。

予想通りとも申せますが、高齢者ケア、就中、在宅に関して、世界の先頭を走っているわが国の第一線在宅/訪問看護師の、vividな(実際に目で見るような)発表に、中韓両国から、実際の看護、家族への対応、経費、保健制度、人材育成のあり方等々、多数の質問がでました。そして、すでに在宅看護事業所を経営している韓国の看護師とShin看護協会長から、是非、視察に!!とのお言葉も。「日本財団在宅看護センター起業家育成事業」は、開始当時から、国際展開を想定してはいますが、実際に訪問したり、受け入れたりすることが予測よりも早く動くかもしれないと、ちょっと焦り、ちょっと興奮しました。いずれにせよ、中国の65歳以上人口は既に2億4千万と日本と韓国の総人口よりも多く、何よりも世界最大の人口を抱え、最速高齢化過程に入った、日・中・韓3カ国です。

「われわれアジア人」として、世界の高齢者ケア、在宅ケアの適正なモデルを構築したい、しなければならないと痛感しました。赤瀬さん、ご苦労様でした。

中国、韓国の発表者と質疑に応答する赤瀬氏

中国、韓国の発表者と質疑に応答する赤瀬氏

われらアジア人の日中韓の看護師諸氏 記念撮影

われらアジア人の日中韓の看護師諸氏 記念撮影

 

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十日の菊 重陽の節句は昨日でした。

中国ではゲン(験=縁起)の良い最大の陽の数「9」が重なる9月9日を重陽(チョウヨウ)の節句として愛でてきました。菊の節句でもあります。その日に間に合わずに、10日に咲いた菊や、10日に届ける菊は、時宜を外した、役立たずの例えに使われます。

節句と云えば、1月7日人日(ジンジツ 七草かゆを頂く)、3月3日上巳(ジョウシまたはジョウミ 桃の節句、女の子のためのお雛祭ですが、これはわが国では平安時代頃にもあった習慣から)、5月5日端午(タンゴ 昔は男の子のためでしたが、現在は子どもの日)、7月7日七夕(タナバタ)とあわせて、それぞれ季節的な催しをする目途(メド)でもありました。

十日の菊と同じように、端午の節句は、菖蒲(アヤメ)なので、六日のあやめという云い方はありますが、3月3日の桃・・四日の桃とか、7月8日七夕に用いる笹をもじって、八日の笹とかはありません。今日は、9月10日ですから、本日のチョウヨウの節句と題するブログも十日の菊的であります。

陰陽思想(オンヨウシソウ)では、奇数が陽の数で、その陽数最大が9、その9が重なるから「重陽」なのです。では、なぜ、奇数が重なった時に節句なのでかです。奇数が重なると陽の「気」が大きくなりすぎて不吉になるから、それを打ち消すための行事が節句という考えだったそうです。が、またまた、陽の「気」が大きくなると、なぜ、不吉なのか・・・
中国の奥深い習慣です。
陰と陽の数といえば、 その昔、北京で働いたとき、京劇によく参りました。劇場では、右半分は偶数席が2、4、6、8・・・と並び、左半分は、1、3、5、7、9でした。最初、知らずに25,26などと買うと、友人は彼方という次第でした。並んだ席を買うには、連続数ではなく、飛び飛びの座席番号を求めねばなりませんでした。

まぁ、それはおいて、中国の重陽の節句ですが、南の方では、長寿祈願や健康を願い、菊を飾ったり、お酒に菊の花びらを浮かべたりする習慣がありました。日本では、確かに、9月頃から菊のシーズンです。その昔、各地の遊園地などで、菊人形が展示されていました。私も、若い頃は、毎年、祖父を車に乗せて、ひらかたパーク(関西では、ユニバーサルスタジオ以前、最大の遊園地だった。)の菊人形見物に参ったものでした。テーマは、しばしば、NHKの大河ドラマからとられており、さしずめ、今年なら、菊まみれの「西郷(せご)ドン」でしょうか。

久しぶりに枚方パークのホームページを拝見しましたが、高齢者向きイベントではないものがならんでおりました。時間と多少の小金を持った高齢者、ふらりと行ける遊園地もあってもよいかと思いますが・・・フラワーの欄はバラと桜・・・菊は若向きではないのですね。

12年間お世話になった宗像市では、昨年世界遺産となった沖ノ島につながる宗像大社 で、毎年11月に西日本菊花展が開催されます。これは菊人形ではなく、各種各様に工夫された菊そのものの展示ですが、なかなかに見応えがありました。毎年、11月初めの展示開始時と中頃に見て回りました。沢山の屋台も出て、学生諸氏と廻ると、色々な食べ物を一口ずつ堪能できる余得もありました。もちろん、もっぱら、会計係を期待されていた気も致しましたが。

日本の国花をご存知でしょうか?

実は、公的な国花というものはないのだそうですが、桜も菊も日本を象徴する国の花であることは否定できません。桜前線とか開花日が報じられますが、秋の菊は、その点、ちょっと地味。しかし、皆様のパスポートの表紙、皇室のシンボルが十六葉八重表菊であることも、国をあらわす花としての菊の価値を示していると思います。春の桜とともに本来のシーズンが秋の菊も大いに愛でたいものですね。

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橋を架ける

「橋をかける」 突然、皇后陛下のお著書・・・ご講演を本にされた際の題名・・・が思い浮かびました。

二つのハンセン病療養所があるが故に、長らく「離島」状態だった岡山県瀬戸内市の長島と本州を結ぶ橋が架けられたのは1988(昭63)でした。「人間回復の橋」とも呼ばれる邑久<オク>長島大橋の開通30周年を迎え、かつて、島に強制的に隔離された人びとからお話をうかがい、隔離政策とは何だったのかを考え、架橋によって象徴される解放への思いを共有するために、2018年9月1日、瀬戸内市保健福祉センター ゆめトピア長船で開催されたシンポジウムに参加しました。

シンポジウムは、野の花診療所院長 徳永進先生の基調講演と、邑久光明園 青木美憲園長司会のリレートークからなりました。どちらも興味深く、胸にズシンと響くものでした。ここでは、なぜ、皇后陛下のご著書を思い出したかを記します。

リレートークは、司会者の淡々とした歴史事実の説明後、登壇者が、それぞれ発言を繰り返すやり方でした。島側の長島愛生園から石田雅男氏、邑久光明園からは山本英郎氏が、おそらく、何十度も何百度も繰り返されたであろう当時の状況や困難、そして想いを語られました。

実際の橋の長さは185m、島と本土の間の海峡はたった30m、ひと泳ぎ・・・もないほどなのですが、越えねばならない空間は何と長く広かったのかとの思いが、両サイドのお話で痛感されました。

本土側からは、瀬戸内市裳掛地区コミュニティ協議会の服部靖会長と、NPO法人むすびの家 柳川義雄副理事長がコメントされました。そして、その後、当日の司会進行も担当された岡山県立邑久高等学校の佐藤朱里さんが、前の世代の想いを、どう受け止めるかを、若々しいハリのあるお声で話されました。それをうかがっている時、突然、私は皇后陛下の「橋をかける」を思い浮かべたのです。

「橋をかける」は、1998(平成10)年、第26回IBBYニューデリー大会(The 26th Congress of The International Board on Books for Young People New Delhi, 1998)においての皇后陛下の基調講演の書籍化の際のお題です。この「子供の本を通しての平和--子供時代の読書の思い出(Peace Through Children’s books ― Reminiscences of Childhood Readings―Keynote Speech by Her Majesty Empress Michiko of Japan)」基調講演の全文は、宮内庁のホームページに、日本語英語があるので、ぜひ、拝読下さい。

以前にも書いたのですが、私は、このビデオ講演を南米のボリビアのホテルの、少し寒い部屋で拝聴しました。WHO本部勤務時に出張した際のことでした。部屋に入ってTVをつけたら、柔らかい日本語が流れたのです。ボリビアなど南米では、日系人が多く、日本語放送が多いのですが、アレッ、皇后陛下のお声?と思った時、画面が現れました。コートも脱がないまま、長いご講演をうかがいました。日英二か国語なので、何人もの外国の友人にも進呈しましたが、皆、異口同音に感動を伝えます。

若い高校生佐藤さんの、この地に起こった歴史を受け止める責任を担って生きる!との、凛としたご発声を聞きながら、私は「橋をかける」の中で、陛下がかかれていたケストナーの「絶望」という詩の節を思い出しました。貧しい一家の少年が1マルクを持ってパンとベーコンを買いに行く、気が付くとお金がない、・・・いつまでも帰らぬ少年を心配して探しにきた母親に、少年は激しく泣く・・「彼の苦しみは、母親の愛より大きかった・・・」

 隔離された人々の世代には、隔離した側の人間も存在したはずです。あるいはシンポジウムの参加者の中に、そのような記憶のある人もおいでかもしれないとも思いました。そして、物理的に橋が架けられて30年を経た2018年のシンポジウムが、それらの人々の間にも、さらに、それらのすべてを含め、過去の世代と今、未来を生きる若者の間に大きな橋が架けられた・・・そう思いました。

当日の参加者は、登壇者や主催者同様、この一帯の歴史的存在と、シンポジウムの副題でもある~過去、現在そして世界遺産へ~の想いを共有されているのでしょう。

美智子皇后の「橋をかける」  すえもりブックス、文春文庫など。

美智子皇后の「橋をかける」 
すえもりブックス、文春文庫など。

 

シンポジウム・壇上の様子

シンポジウム・壇上の様子

 

 

 

 

 

 

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第22回日本看護管理学会学術集会 ~看護の新しい波~

2018年8月24, 25日、神戸ポートピアホテル・神戸国際会議場で、松浦正子神戸大学医学部付属病院副院長/看護部長を学術集会長とする表記学会が開催されました。

私どもは、2014年来「日本財団在宅看護センター起業家育成事業」を実施していますが、毎年、神戸での実地研修を行っています。中身は、通称WHO神戸センターことWHO健康開発総合研究センターで、WHOと世界の高齢化を学び、兵庫県立総合リハビリテーションセンターでは、障害者が社会と一体化することこそが真のリハビリテーションであり、それが「総合」なのだとの概念を確立され実践されてきた澤村誠志名誉総長のご講義と、広いセンターの見学に一日をかけます。また、今や世界トップクラスの医療機器メーカーであるSysmexでは、医療施設外の病気検出とは異なる健康チェックのための検査までの経過をたどります。そして、在宅看護の先達松本京子氏からは、併設されているホームホスピスなごみの家の管理運営をうかがいます。時間的余裕があれば、阪神淡路大震災のメモリアルでもある人と未来防災センターも見学します。

今年は、看護管理学会で1セッションを頂きましたので、学会関与の先生方7名と研修生17名に財団スタッフ3名計27名の大所帯、内20名が3泊4日の神戸の旅でした。

日本看護管理学会のインフォメーション・エクスチェンジ部門に、「看護の真価を言語化し発信する~一人一人の看護管理者が伝わる言葉をもつには」を申請したのは、上記研修で行っている「看護における研究的マインド(長崎県立大学大学院李節子教授)」と、「看護の言語化(九州大学非常勤講師因京子先生)」関連の講義が、新たな看護を考えるに大きなヒントを与えているとの私どもの感触に加え、毎年の研修生たちからも、このような講義は他で聴けない、強化してほしい、との意見からでした。

総合的ご判断から企画頂いた坂本すが東京医療保健大学副学長/研究科長らとの打合せでも、必要性はしっかり認識しましたが、実は、こんなテーマをぶち上げても、お集まり頂けるかは、少々ではなく大いに危惧も致していました。実際、学会初日に、指定された会場が800名入りと知って、さらに心配は大きくなりました。関係者を総動員したら30名はいます・・・と、情けない情報交換まで致しました。

セッションがはじまる前には、各地で開業している研修修了生を含む相当数が、会場前に並んで下さっており、ホッとしましたが、まだ、50人・・・100人程度・・・などと心配はしていました。入口では、日本財団と笹川記念保健協力財団のロゴ入りポロシャツを着た5期研修生が資料配布していましたが、500部用意した資料が足りない!!と嬉しい報告がまいりました。

満員の会場

満員の会場

セッションが始まりました。
坂本先生のご指示で並んだ壇上の司会者席からは、はるかかなたの会場入口辺りを含め、両側にも立ち見の方々、前列3席だけが空いていました。

李、因先生のお話は、看護の実践ではありませんが、皆が解説に大きくうなずいて下さっていました。会場全体が、同じマグマを発していると感じました。最後まで、席を立つ方もなく、質問やユーモアを交えた先生方の回答に、更に皆がどよめきました。大きな会場の中に、さらに大きな何か、今までにないうねりが沸き起こっていると感じました。

看護とは何か。
看護師とは、何をする人なのか。
これから厳しい時代に立ち向かう日本の保健・医療制度の中で、看護は、看護師は、何を担うのか、どんな責任をおうべきか。それらをどう総括し、自分の言葉として、だれにむけて発信するのか・・・

あっと言う間の1時間でした。この新しいうねりを絶やすことなく、実践に還元するには、財団は何を為すべきか、新たな可能性と責任を感じた神戸でした。

ご参集の皆さまありがとうございました。
なお、資料をご希望の方は、笹川記念保健協力財団(smhf_hospice@tnfb.jp)まで、お申込み下さい。

李先生スライド

李節子先生スライド

因先生スライド

因京子先生スライド

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「障がい児」ケア…どんなタイトルが適切か、迷いながらのタイトルです。

人影が少なく、電車もバスも普段よりはゆったりの東京、さしもの酷暑も一息ついた感じです。とは申せ、台風は次々に発生していますし、相変わらずの局所的豪雨、くれぐれも気を付けましょう、お互いに。

さて、8月初め、日本財団在宅看護センターのお仲間、Lanaケア湘南の代表理事である岡本直美氏が参加されるという軽井沢キッズケアラボ」の1日に紛れ込ませて頂きました。

ご承知の方も多いようですが、これは、福井県福井市にある、医療ケアの必要な障がいを持つ子どもたちが、通いではありますが、楽しく過ごせることを実践されている「オレンジキッズケアラボ」の活動の一環として2015年から始まっているものです。

概要は、上記ホームページをご覧いただきたいのですが、夏季、今年は7月16日から8月11日までの約1カ月、軽井沢でリゾート生活を送れるスペースを確保し、さまざま障がいをもつ子どもや大人の誰でもが、色々な活動(お絵かき、水遊び、スイカ割りなどは軽い部類、なんと乗馬や気球乗り!!・・・)に参画できるように多様なサポートが講じられる夏季限定の壮大なプロジェクトです。

「オレンジキッズラボ」は、本拠が福井県福井市の在宅医療専門クリニック「オレンジホームケアクリニック」の関連組織ですが、軽井沢に夏季プログラムを開かれるに当たり、地元長野県の佐久総合病院や軽井沢病院、さらに各地からの専門職を含むボランティアらが支援するという夢のコラボのようでした。食事やちょっとした行動や動作などにも、専門的介護や必要なら医療ケアもあって安心というだけでなく、雰囲気が素敵でした。障がいが有る無しに関わらず、皆が一緒に楽しくワイワイ・・・サポートされサポートしておられました。

私は、ホンの一瞬を拝見しただけですが、その昔(1960年代ですから、大昔ですが)の小児科医時代と、その頃にお世話した赤ちゃん、お子さんたちを思い出しつつ、医療とケアの進歩、時代の変化を実感しました。

障がいがあることイコール制限だったその昔に比べ、だれにも訪れる夏だけでなく、すべての時間を出来るだけ、他の子どもと同じように経験すること、それは子どもだけでなく、家族にとってもすばらしいことだと申せます。が、その昔は、医療施設の中ですら「言うは易し、行うは難し」でした。そして、障がい児のケアは、ほとんどが家族、取り分け母親に負担を押しつけていたと思います。

さて今回、湘南から二家族をお連れしての参加だった岡本氏は、遅れて参加した私をピックアップしたり、子どものケアをしたり、そして、率先して、ご自分がエンジョイされたり(失礼!!)、湘南~軽井沢往復運転、2泊3日でお疲れだったと思いましたが、良い経験をさせて頂きました。僅かな時間ですが、ご一緒した二家族とも、しっかりプログラムを堪能されたのではないか、今後の在宅看護における障がい児ケアの在り方を考える上でも、貴重な学びでした。

その前後、ちょっと気になる論文/論評を見ました。NEJM(New England Journal of Medicine: 1812年創刊の世界最古で、権威ある査読付き医学雑誌)に、「あなたの命を救った私を許してくれますか(Will you forgive me for saving you?)」との投稿があったのです。さらに、続けてすぐに、この記事への反応が掲載されました。最初のものは、家庭内で虐待され、仮死状態で運び込まれた幼児を担当した医師の葛藤であり、後は、その葛藤を理解することへの葛藤ともいえましょう。

医師は、病める人の命と健康を護ることが本務であり、病者を前に、その責任を果たすことに気持ちが揺らぐことはありません。少なくとも私自身は、20代から40代にかけて臨床に身を置いた間、そうだったと断言できます。小児科医であったことと関係するかもしれませんが、どんなに障がいが重いと思っても、「あなたの命を救った」「私を許してくれますか?」との気持ちは持ったことはありませんでした。幸せな医師であったのでしょう。が、現在は、家庭で、親や兄弟から虐待される子どもをどう扱うのか・・それは、障がい者や高齢者への虐待も同じと申せましょう。

どの生命も、自分のイノチと同じく尊いと云い、それを護るために出来得る限りを行うこと・・・ストレートで判り易い医療の根源が揺らいでいるとは思いませんが、何故、それをまっとうできない事態が生じたのでしょうか。どうすれば良いのでしょうか?

軽井沢キッズケアラボのさわやかさと、NEJMの二つの投稿の重さ・・・少し長いですが日本語訳も下にお付けしておきます。

New England Journal of Medicine 2018.7.5 379号

あなたを救った私を許してくれますか? トーリー・マガウン博士

Will you forgive me for saving you?

(原文)https://www.nejm.org/doi/pdf/10.1056/NEJMp1804030

Torree McGowan, M.D.

はじめて、あなたに会った日のことを覚えている。静かな日曜日の朝だった。受付の近くで騒ぎを聞いた。あなたのお母さんが叫んだ。「赤ちゃんは息をしていない!」

あなたを最初に見たとき、あなたはお母さんの腕に抱かれていた。悲しいことには、赤ちゃんらしく心地よくお母さんに寄り添うのでもなく、よちよち歩きをしているのでもなかった。あなたの小さな体はぴくぴく動いていた。専門用語で「異常肢位」という状態で、まるまる太ったよちよち歩きの子どもには、あまりにも残酷な言葉だと、医者としての私には感じられた。

急いで外傷センターに運び、病院全体であなたの治療に当たった。みんなの助けを借りて、私は一歩退いて、あなたの人生を永遠に変えてしまう決定を下そうとしていた。

あなたの小さな心臓の動きはあまりにも遅かった。子どもの心臓は、走ったり笑ったりするように早いものだが、あなたの心臓は遅く、どもるような感じで、今にも力尽きそうだった。また、あなたの心臓は強いと分かったが、あなたの脳はあまりにも大きく損傷を受け身体が消え入りそうだった。

次の瞬間の行動、私はぼんやりしたまま、骨に穴をあけるドリルのように、大声で、厳しいが的確な命令を発した。モニター表示が下がり始め、どの数値も心配だった。私はあなたを見た。あなたのすべてを見て、すべての部分を測定し評価分類した。

私の目はあなたの額のあたりをさまよった。右の額のちょうど眉の上、大きな痛ましい紫色のコブがあった。何度もその傷を見た。表面にこのようなヒドイ傷があるということは、その中にどれほど恐ろしい損傷が隠されているかだと判る。

私たちのチームは一生懸命働き、治療、点滴、モニターなど、多数の優秀な専門家が助けてくれた。あまりにもたくさんが治療に当たったが、それでもさらに多くの手が、あなたの小さな体に触れた。私たちは、あなたが怖がらないように小さな声で話した。

あなたを人工呼吸器に付けた時をはっきり覚えている。このような処置は何百回となくやってきたが、私の目の前がぼんやりしているのに気付いた。揺れているのは私の手だ。私は作業を止めて震えが止まるまで自分の指を見ていた。そして二度深い息をしたあと、あなたに呼吸チューブを挿管した。

呼吸装置が作動し、時を刻む音が始まると、状況が落ち着いた。あなたの体は、鎮静薬に反応し腕の緊張が緩んだ。消え入りそうだった鼓動が再び始まった。美しいブルーの瞳の中で瞳孔が反応し始めた。

ヘリコプターの音が、さらなる助っ人の到着を知らせた。あなたを初めて見た時、外傷センターで治療を始めた時、外部に応援を要請したのは、この小さな町の病院では、あなたの小さな命を救うための重篤なケガの治療ができないからであり、私は、要請に応えて駆けつけてくれた人々にはとても感謝している。

あなたが、さまざまな救命装置をつけられ、包帯で巻かれてミイラ状態で外傷センターから運び出されると、狂乱状態は一段落した。あなたが私の手を離れた時、あなたの命を救うために闘っている間、あなたに付き添っていたあなたを愛している人々の向こうに、その日、最初の嘘をついた男が一人いた。その男は、私の目を見ようとはせず、あなたが転んで壁の角で頭を打ったと言った。が、その男は、私たちが事情を知っていることを分かっていたはずだ。

あなたのことを考えていた間、私は、あなたの額が見え、そしてあちらの世界とこちらの世界を分ける境界が見えた。あなたの左手が胸の上でけいれんし、そして、だらりとするのが見えた。私は奇跡を願った。

小さな町にはありがちなことだが、あなたに何が起きたのかをちょっと聞いた。あなたの手術の噂についても聞き、あの日曜日の前に、あなたが保育所で笑う幸せな子どもだった時の写真も見た。あなたが家に帰ったと聞いた日には、悲しい誇りを感じた。おしめを替えるときに、あなたがじっとしていなかったというだけの理由で、あの男が悪事を働いたことを新聞で読んだ。

ある朝、私はいつもの同じ救急治療部にいて、いつもの同じ椅子に座っていたとき、あなたのお母さんが叫ぶのを聞いた。無線のガタガタという音が聞こえ、消えて行った。「TBIによると・・・。呼吸困難だ」私は緊張し、それがあなただということが分かった。

あたまのコブは消え、渦巻き状の傷が残っていた。脳に怪我をした患者に共通する、ちょっとテカテカした跡が皮膚に残っていた。それが、怪我によるものが、治療によるものかは分からなかったが、光沢に気が付いた。

あなたのお母さんに、ふたたび話す機会があった。私を抱きしめて、あなたを救ったことに礼を云われた。あなたのおばあさんは素晴らしい人だ。あなたを完全に愛していて、毎日、世話をしている。私たちは、少しの間、一緒にいた。このことをあなたは覚えていないだろうが、私は決して忘れない。

あなたがベッドに横たわっているのを見て、ちょっと笑っているような表情を見ると、何かうれしいことがあるに違いないと思う。あなたは「モアナ」が好きだから、お母さんが繰り返し見せている。あなたが幸せということを知っているのかどうかは分からないが、苦しみを知っていることだけは確かだ。看護師が点滴の用意をすると、あなたは、できる限り抵抗しようとし、顔をしかめ、逃げようとする。その苦しみだけが、あなたに分かるすべてでないことを願う。

私を許してくれるだろうか。あなたは、死にかけており、生きることができないのでは、と私は心配した。そのときでさえ、「生きる」ことが相対的で、あなたのために救おうとしている命は、心配だった。あなたの体のどこかで喜びを感じ、喜びが苦しみに勝ることを願っている。あなたがちょっとだけ覚えていてくれることを願っている。私は決してあなたのことを忘れないから。

あなたを救ったのはいい人生のためだったのか、私には分からない。私がしたことをうれしいと思ってくれているだろうか?あなたのお母さんとおばあさんは、あなたの世話と犠牲が永遠に続くいまでも、私に感謝してくれているだろうか?あなたの命を救った私を許してください。

 

「あなたを救った私を許してくれますか?」への反応 ジョンズホプキンス大学小児救急センター長イボール・ベルコビッツ博士

Reflections on “Will You Forgive Me for Saving You?”

(原文https://closler.org/passion-in-the-medical-profession/reflections-on-will-you-forgive-me-for-saving-you

Ivor Berkowitz, MD, Johns Hopkins University School of Medicine

 

暴行を加えられ危篤状態にある子どもの蘇生現場の救急室の秩序のある混沌と、自分自身の不安や両親の悲しみと打ちひしがれた叫びをトーリー・マガウン医師が抑制のきいた書き方で投稿したNEJMの強烈な記事を読んだ。私は、心の底に重圧を感じ、私自身の不安が迫って心臓の鼓動が高鳴り、手が震えるようだった。

私にはその感覚が分かる。緊急治療室や小児用ICUで、危篤状態にある子どもの蘇生処置をする時、何度も経験したこの感覚は、何年たっても消え去ることはない。今でも、危篤の子どもに気管挿管をするときには、震える手を落ち着かせ、呼吸を整えなければならない。

マガウン医師は、その子が、どのようにゆっくりと蘇生に反応したかを「心臓の鼓動が聞こえ、美しい青い瞳の瞳孔が収縮し・・・」と記載している。医療チームの努力が報われるのは、どれほど満足感があり、奇跡的なことだろう。死に直面しながら、振り返り、そして死に背を向ける子どもの回復力が、何年も前に、私を小児科の道に進ませた。

最後の二つの節に私は涙した。「あなたを救った私を許してくれますか」という、祈りのような懇願は、私を覆っているベールを引きちぎり、重篤な病気に罹っている子どもの蘇生処置の後で現れる心配と畏れに向き合わせる。

あなたとあなたの家族に、生涯にわたる負担と苦しみをもたらすために、私はあなたを救ったのだろうか。蘇生処置の緊急性を考えると、集中治療医にできることは、命を救うことだけである。緊急時、必死に蘇生している時には予測できないことが多く、我々は可能な限り全力を尽くして命を救う。

夜、ベッドに入ってから、ようやく自問する。我々はいい人生のためにあなたを救ったのかと。

 

[会長ブログ ― ネコの目]
福島放射線災害研修

5回目の福島放射線災害研修は、8月6日ヒロシマの日に始まりました。福島医大と長崎大学のご協力を得て、福島医大での講義と東京電力福島第二原子力発電所の見学、そして川内村、富岡町、飯館村 に分かれてのフィールド研修からなります。

今年は、全国各地の看護大学/学部、医学部から16名の学生院生が参加、そして昨年来、かつて参加し、今は社会人となっている先輩がチューターとして、数名加わって下さいます。

初日、アイスブレーキングのグループワークから、それなりに意見はでるのですが、皆、物静か、、、私は、イントロの災害概論を話させていただき、質問を受けましたが、やはり、お上品?

さて、フィールド研修が終わった昨日は8月9日、ナガサキの日に、反省会的かつ懇親の場として、夕食をともにしました。

たった3日の間に何があったのか、というほど、皆の中で生じたケミストリーの成果に圧倒させられました。賑やかななかにも、学生院生らしい真摯さを秘めた意見交換に圧倒されました。

こうして今年の研修も良い成果を出すことができました。ご協力いただいた関係者の方々、滞在させていただいた各地の皆さまに、こころからお礼申し上げます。

昨日、初めて長崎の式典に参加されたグテーレス国連事務総長のスピーチに、世界の軍備費は1兆7000億ドルを超えるとありました。イギリス、フランスそして日本の歳入(日本の歳出は2兆ドル超で赤字!)と等しいのです。なんてことでしょうか!

その昔、アフリカのアンゴラで交わした同僚との対話を思い出しました。

今日は、研修最終日。平和を願う、平和をつくり護ること、明日を担う若者にも、お願いしたいと思います。

少し静かなアイスブレーキング

少し静かなアイスブレーキング

盛り上がりました!反省会

盛り上がりました!反省会

[会長ブログ ― ネコの目]
暑さに耐えて・・・

TVや携帯ニュースでは、「熱中症に注意」とか「熱中症に厳重注意」の文字が現れます。
ここしばらくの日本では、35度以上が普通になっているように思えます。CNNやBBCの気象情報でも、世界中が似たり寄ったりの異常気温のようで、各地で山火事が頻発していますが、「熱中症に気をつけましょう・・・」には気が付きません。

かつて勤務したパキスタンのペシャワールで、二夏<フタナツ>、53℃を経験しました。
持参の気温計の最高温度が53℃まででしたが、新聞報道も53℃、そのような日には、二桁の人々が亡くなる報道が常でした。が、一緒に勤務していた現地の人々は、本当の気温はもっと高く、亡くなる人はもっと多いが、皆がショックを受るから、この程度の報道だとか、真偽は判りません。

彼の地、4月末から11月頃まで、日中は40℃を超えることが多く、6~10月は最低でも35℃、最高が50℃以上で、しかも湿度も高い、一日中、お風呂場にいるような日もありました。さらに、4月や11月の夜明けは10度以下という日内差も厳しいものでした。

まず、どれくらい暑い・・・熱いかの私の限られた経験です。実際に、自動車のボンネットで目玉焼きが作れました(そんな愚かなことをする人はいません、もちろん。使用人に呆れられながら、試しました)。ここ数日は、東京でもそうですが、水道からは熱湯に近いお湯が出ました。コンクリートに水を打っても、瞬時に乾き、裸足で水撒きをすると足の裏を火傷<ヤケド>する・・・植木に水を撒くと、水滴が煮えて、葉に水滴状の火傷後が残る。30年も前のことですが、ほとんど毎日数時間以上の停電。

途上国での予防接種事業に従事した経験から、今でも冷蔵庫は素早く開け閉めする習慣が身についています。熱帯での予防接種では、それぞれ保存温度が決まっているワクチンを、如何に現場まで、高温にさらさずに運ぶかが一大事です。1980年代、WHOやUNICEFが協力してCold Chain(コールド・チェーン。ワクチンを、先進国の製造工場から、途上国の田舎の予防接種現場まで一定温度で運べるシステム)を作りました。それでも、本当の末端まで一定低温を維持するのは至難でした。日本で、クロネコヤマトさんのクール宅急便が始まったのは1988年、私はロバの背中に、アイスボックスを括り付けて、道なき道を歩いていました。

さて、停電が長いと、冷蔵庫を開け閉めする度に熱気が入り、保存している筈のものが腐ります。ですから、どの位置に、何が入っているかを覚えて置き、間髪を入れず、必要なものを取り出す。また、無駄に冷蔵庫を開け閉めしないことは鉄則でした。

昨今の日本のように、とても暑い休日のこと。ペシャワールは、家具の名産地で、どのお宅にもチーク材などの立派なテーブルが置かれており、拙宅にも大きな食卓がありました。朝昼兼用の食事後、テーブルの上にマヨネーズのチューブを置いたまま、ほんの少し、別室に参りました。戻ってみたら、マヨネーズのチューブの中でブツブツと泡!! 煮だっているとは申せませんが・・・テーブルは、確かに、暖かよりは少し熱いと感じるほどにヒートアップしてはいましたが、ホント、ビックリしました。

ただ、郷に入っては郷に従え。彼の地の人々は、夜明け前から3,4時間働き、日中は、厚い土の壁の家の中で、静かに休んでいる、そして夕方、また2,3時間働く・・・のが普通のようでした。拙宅は煉瓦造りでしたが、それはモダンだが一番「熱い」建物で、日干し煉瓦造りや厚く土を塗り固め、小さな窓と入口には厚い毛布の熱気除けを吊るした現地風の家は、意外に涼しく、居心地は悪くありません。また、土甕の水もひんやりしていました。衛生上の問題を解決すれば、古来の暮らし方は妥当なのだと思ったものです。

人が住んでいるところで一番暑かった記録は、非公式にはイラクのバスラの58.8℃(1921)、公式にはカリフォルニアのDeath Valley(死の谷)の56.7℃(1913)が知られていますが、その他リビアのアジジヤの58℃(1922)、いずれも100年ほど前ですね。

現在の熱波が、大宇宙の自然のサイクルの一環なのか、地球にはびこった人類という生物の営みのなせるわざか・・・いずれにせよ、プラスチックだけでなくいろいろなものを消耗し過ぎないことを、皆が再認識し、少しでも良い環境、麗しい自然を次世代に保障できるよう、生活を慎みたいものです。


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