[会長ブログ ― ネコの目]
さようなら2014

今日は仕事納めです。
職場ビルの最上階8階の職員食堂に神棚があります。時折、ちょっと目礼しますが、普段はあまり意識しません。(神さま、すみません!!)
日本財団では、仕事納めの日に、その神棚の前で神事が取り行われます。私も、笹川記念保健協力財団理事長として、昨年から、緊張しながら、参列させて頂いています。今年も、本日、午後3時、日本財団笹川陽平会長ほか、関連組織の代表が列席して、仕事納めの神事が始まります。
狩衣に袴という、平安時代からの貴族の装束、烏帽子に笏をもたれた三人の神職が、浅沓<アサクツ>の音を響かせ、式場にお入りなられます。一同頭を垂れて、お払いを受けて、横笛が鳴り響き、神事が始まりました。今年も沢山の人々の助けを得て、私どもの仕事を恙無く進められたことを、心から感謝しました。
一瞬、確かに神が降臨されたと感じました。何故か、目頭が熱くなる想いでした。
皆様
本年のご交誼、ご支援、ご協力ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
ビルの玄関と受付では、もう来年の準備が終わっています。image-773d3.jpg

[財団ブログ ― ハンセン病]
年の瀬

年の「瀬」の瀬はどんな意味なのか、何となく判りますが、出典などがあるのでしょうか。また、「年の瀬」とは何時から何時までをいうのでしょうか?
「瀬」は、広辞苑では、[湍]とともに、①川などの浅くて徒歩で渡れるところ。②水流の急なところ、③(渡るための狭い所の意から)㋑事に出会うとき。おり。場合。㋺その場所。立場。㋩点。ふし。とあります。広辞林でも同様ですが、なぜ、これが「年の暮れ」を意味するのでしょうか・・・その昔、特に、しっかり支払を済まさねばならない節季(セッキ。季節の終わり、盆と暮れの支払いは特に大事)の辛い時期を示したらしい、ようです。そう申せば、思い出があります。若かりし頃、無理して買いこんだ医学書や購読していた洋雑誌の支払いを溜め込んで、12月のボーナスで支払いました。代わりに、書店のカレンダーや手帳を頂いて今年も終わったなぁ・・・と思いました。私の年の瀬だったのですね。懐かしいです。今は、無理して本を買うという意欲がなくなっているのですが、この「年の瀬」ですが、ぜひ、読みたい数冊があり、早々と買い込みました。
年の瀬の一日、12月23日は天皇誕生日でした。
陛下は、お言葉の中で、「昨日(22日)は冬至でしたが、これから、段々、日が長くなる」と仰せでした。「今年も、さまざまな自然災害が日本をおそい、決して安泰であったとはいえない」とも仰せでしたが、日が長くなる・・・と希望を述べられたことに勇気付けられました。
そして、今年は、太陽歴では、その起点とされる冬至と、欠けていちど姿を消す月が復活する新月が重なる朔旦冬至という稀な現象の年でした。朔旦冬至って、産経新聞のマンガ「ひなちゃんの日常」で、ひなちゃんがたくあんポリポリ・・・と、取り上げられていましたが、難しい言葉です。この現象は、地球が太陽の周りを一巡する1年と、月の満ち欠けの約1カ月の微妙な時間差から、おおよそ19年に一度発生するそうです。ただし、次回は暦上の齟齬から、38年後になるそうです。後期高齢者に足を踏み入れた私には、残念ながら、もう一度、この稀な事象を経験することは無理ですが、そんな風に考えると、日々、折々の暦、自然の移ろいも、二度とめぐりあわない貴重な一瞬と思います。
冬至には、かぼちゃを頂くと、いわゆる中風にならず長生きするとか、小豆粥を食べると病気しないとか、お風呂に柚子を浮かべるとか・・・優雅な習慣を実践しようとすると忙しいですが、関西地方では、ちょっと周りの移り変わりに疎い方に、少々嫌味をこめて、こんな風に申します。「冬至、十日経てば、馬鹿でも(日が長くなったことは)わかる」
さて、太陽が新たに蘇るこの日、月が再び満ちてゆくこの日を期して、新年を待たずに、新たな計画を立てては如何でしょうか?

[財団ブログ ― ハンセン病]
SPP – 当事者参加型ハンセン病対策

SPP-チームカラーはミドリ色!
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インドネシア 南スラベシ州のSPPグループ
SPPはStrengthening Participation of People affected by leprosy in leprosy services 「ハンセン病対策への当事者の参加を強化」の頭文字。
世界的にハンセン病の新規患者数は年間23万人レベルで停滞していて、なかなか減少が進みません。治療可能な病気にもかかわらず、診断が手遅れになり後遺障がいを残してしまう患者さんも10%前後。ハンセン病の後遺障がいが偏見と差別の対象となる構図も依然として世界の各地で見られます。何よりも早期に発見し治療につなげることが障がいなく治癒することにつながり、また感染の可能性を減少させ、ハンセン病制圧の鍵です。
「早期発見は我々の手で」。世界の各地の当事者組織は従来から家族やコミュニティで、ごく早期の症状に注意を払ってきました。ブラジルのMORHANは無料電話相談-TELEHANSENを長年運営しています。ネパールでもエチオピアでもグループで早期症状のある人を診断に繋げる活動をしています。フィリピンでは保健省のハンセン病対策の一環として取り組む仕組みができつつあります。
インドネシアではオランダ救らい協会と当事者を含むボランティア組織でSPPを地域啓発活動として展開し始めています。SPPのシンボルカラー「明るいミドリ色」のユニフォーム姿のSPPチームの活動は、近い将来世界的に展開するでしょう。
笹川記念保健協力財団は、2009年からSPPコンセプトを提唱し、各地のSPP活動を支援しています。

[財団ブログ ― ハンセン病]
第二世代の「宣言」ジョイス・ウォンさん

スンゲイブロー療養所の第2世代の宣言
ジョイス・ウォンさんの宣言(フェイスブック投稿から。)

ジョイス・ウォンさんは、スンゲイブロー療養所を逃れて、農業で生計を立てつつジョイスさんを育てた両親を誇りとし、入所者たちの聞き書きをもとにスンゲイブロー療養所の歴史を「希望の谷」として出版(2006年)。2010年には「第一世代に感謝する第2世代の会」を開催。療養所の外部との交流を実現。2014年には、療養所入所者評議会の議員に外部から初めて選出され、2015年に創立85周年となり、入所者数も200人余りとなったスンゲイブロー療養所の将来構想と記憶の継承を担う。

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             (真ん中 ジョイス・ウォンさん)
『生後間もなくハンセン病患者の親から引き離されて養女として育てられたある女性が、大きなパーティを開いて、養父母の家族や親族一同に実の母親を紹介したという新聞記事を読んだ。生みの母と娘がほぼ半世紀ぶりに再会したという。皮肉なことに、自分が実はハンセン病患者の子どもであることを世間に知られることを恐れている人がまだまだいる。
社会一般がまだハンセン病について無知だった頃、われわれ(第2世代)を差別から護るために秘密を護る必要があったことは理解している。でも、今はもう21世紀。もう庇ってもらう必要はない。なのになぜ、あなた方はまだ隠れているの?
もちろん、あまりにも長い間隠し続けて来た自分自身の一部を突然さらけ出すのは、はじめは違和感を覚えることがあるかもしれない。だからといって、まるでそれ自体なかったというようなふりをし続ける理由にはならない。それは、自分自身が誰なのか、あなたの両親が誰なのか、そして両親たちがどんな人生を生き抜いて来たのかを否定することになると思う。
人は一般に無知故に恐れる。われわれが沈黙し続けることで無知を持続させるべきだろうか?それとも、誤解をただすために明らかにして、歴史が繰り返すことのないようにすべきだろうか?
われわれ自身がやらなくて、誰にこれが出来るだろうか? われわれの親たちは失った尊厳を取り戻して当然だと思う。隠していては尊厳を取り戻すことはできない。自分の親を公然と認めることが出来ないなんて悲しいじゃないですか。親たちは一体何をしたというの? もしも友だちが知ったらどう見られるか心配なの? 私たち、もう人生の半ばを生きたわ。なのに、まだそんなことが問題? Come on! 自分を見下すのは、自分自身以外にはありえない。』

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(新評議員に選出されたジョイス・ウォンさん(左)とイーニータンさん)

[会長ブログ ― ネコの目]
民主主義

過日の選挙、予測していなかったので体制が整えられず敗北したとの言がありましたが、政治家という仕事は専門職なのでしょうか?専門職なら、どんな事態にも対応すべき・・・では?
わが国では、「憲法」の下、衆議院解散後の総選挙は解散後40日以内に、任期満了による総選挙(今までたった1回しかなかったそうです)は、任期満了日の前30日以内に行うと定められています。そして衆議院議員総選挙は、少なくとも投票日の12日前に公示されます。
もちろん30日とか40日で政治家になれるとか、それで十分とは思いませんが、政治を担当する専門家として、選挙のために必要な準備期間とはどれ位なのでしょうか。もし、2年も4年も必要なら、担うべき責務と準備はどのようにバランスがとられるのでしょうか。など、ちょっと馬鹿げたと申すか、嫌味を申しましたが、「民主主義」という言葉を思いなおすきっかけでした。
1988年という昔、後に政権復帰を目指す選挙中に暗殺されたベナジール・ブット氏がイスラム圏初の女性宰相に選ばれ、パキスタンに「民主主義 democracy」が喧伝された時代、
PPP (Pakistan People’s Party)党首ベナジール人気が最高潮でした。その頃、住んでいた伝統的な街ペシャワールに、ある日、ベナジールが訪れました。大通りは人ひとヒト…しかしその99%は男性、その人ごみが、ベナジールの「デモォゥクラシィ」の発声の度に、どよめきました。
傍の英語を話せるオジサマに訊ねました。「あなたにとってdemocracyとは何?」
「?」 しばし後に、折り目のついたシャルワール・カミーズ姿の男性は申されました。
「ね、ベナジールは、われわれに、沢山パンをもたらしてくれるのだよ!」
当時、初めて紛争地近傍に暮らしたこともあって国際政治というものを少しかじりました。
当時出版された猪口邦子先生の吉野作造賞受賞の「戦争と平和」を手始めに、それまで読んだこともない分野の書籍を手にしました。モチロン!初めはチンプンカンプン。が、アフター5活動がほとんど不可能な生活環境の所為もあって、帰国の度に、買い求めた書籍を、停電しない限り、繰り返し読めた・・それしかすることがなかったこともあって、用語、言葉も、少しずつ、とは申せ、何となくですが、判るような気がしてきたものでした。
そして一番面白く読めたのはトクヴィル。
この方は、フランス革命でほとんどの一族が処刑された、つまり旧体制派の旧家の出身ですが、そんなことがきっかけで革新的考え…リベラルに関心を持ち、後にアメリカに渡りました。そして新しい19世紀に勃興してきたアメリカという国の民主主義を見聞して書いたのが「アメリカの民主主義」だそうです。生まれたばかりの民主主義の様子が描かれている古典的名著だそうですが、私は、そんな価値は判らず、見聞記のように読みました。ただ、正確ではありませんが、民主主義の先には、混乱があると予測していたと覚えています。
当時、毎夜のように砲声銃声が聞こえる環境では、何よりも平和が欲しい、そしてその平和の中で、人々が安全に安心して暮らして行けるための体制には民主主義が必要だと、ちょっと思いつめた時期でもありました。
民主主義の行き着く先が混乱とは意外な気持ちでしたが、現在の民主制の先進国、就中、ご本尊のアメリカ、そして投票率が52%というわが国の様子、さらに彼我に広がる格差や地方の衰退を思うと、トクヴィルの予想、予言は現実化しているのでしょうか。ただ、トクヴィルは、知識やモラルの重要性も唱えていたように思うのですが、折を見て、読み返さねばなりません。
「戦争と平和」 猪口 邦子著 東大出版 現代政治学叢書17 1989
アメリカの民主政治上・下 講談社学術文庫1987

[会長ブログ ― ネコの目]
函館

ただ今、ロンドンですが、今日のブログは、先週の北海道の最後、函館についてです。先に記しましたように、同地の高橋病院の院長高橋肇先生からネット関連講義を受け、同病院のcare関連施設との連携を見学させて頂きました。
社会医療法人高橋病院理事長、社会福祉法人函館元町会理事長、一般社団法人元町会代表理事高橋院長を存じ上げたのは、本年8月上旬、東京で開催された日本病院会の院長幹部セミナーでした。高齢化に伴い、cure(病気を治すこと)とcare(健康状態低下を前提に、クライアントの生活をまるごと支えること)の連携はますます重要、などと云うのは机上の空論です。先生は、政策上導入されたcare施設を開拓するとともに、cureの拠点病院とそれらを有機的に統合する手段にシステムを活用していると仰せでした。目からうろこ、いえ、目がくらみました。先生は、地域ぐるみのネット活用実践で、2008年に「地域連携システム 道南MedIka」というシステムを導入し、この分野(u-Japanベストプラクティス2008優秀表彰)最優秀賞の「u-Japan大賞」をも受賞されているパイオニアなのです。

http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/special/it/report/200808/507446.html

ご講演後、進行中の「日本財団在宅看護センター」起業家育成事業研修生のための見学をお願いして、今回の押しかけが実現しました。4ヵ月の間に、さらに発展させられたお考えとネット網活用の実態を、長時間、面白く、判りやすくお話し下さいました。その後の実践をご指導下さったのは、先生の片腕的存在の滝沢さま、「元」看護師です。医師、それも大きな施設責任者の立場で構築されたネットは、多職間連携とは申せ、看護師が責任を持つ在宅センターのそれとは大いに異なりましょう。しかし、看護師が最大の力を発揮するであろう
careサイドもcureとの連携は必須、時間をかけても、研修生諸氏が良いネットシステムに行き着いて欲しいと思いました。
病院だけでなく、見学させて頂いた関連諸施設のスタッフご一同が、皆、ネット党の様子もむべなるかな、そもそも、循環器内科医であられる院長は、早くも明治27年に、この地に病院開設され、斬新技術活用とともに、社会科学としての医療の実践に邁進されたご先祖さまのDNAをご継承されているのでしょう。病院の理念(写真)も、多くの病院のそれと一味異なりますし、昭和38年の院内保育所開設もかなり早い(私は、昭和40年代の国立病院で、保育所開設交渉に苦労しました)ですが、過去十年余の、老人病棟、老人介護支援センター(函館市より委託)、介護老人保健施設、訪問看護ステーション、居宅介護支援事業所、訪問介護ステーション、介護病棟、特殊疾患療養病棟、認知症高齢者グループホーム、小規模多機能施設を次々に開設された上、それらの間の連携がなされています。電子カルテ、クライアントが電子ペンで記載すると、瞬時とは申しませんが、数分後には、関係者にそれが伝わる・・・そんなシステムは、人口減と高齢化を先取りした、保健医療による地域安定化とも申せます。
その高橋病院の歴史からは、函館の歴史とともに、高齢社会日本における保健医療の在り方が判る気がしました。病院開設は西暦1894年、日清戦争の年です。日清戦争では、当時の
「朝鮮国」内で発生した農民暴動/戦争をきっかけに、日本と、当時は「清国」であった中国が、あえて申せば、朝鮮半島の支配をめぐって戦いました。わが国は、この戦争に勝ち、一躍、国際社会に足場を築くと共に、中国大陸の遼東半島などを占領しました。明治維新(1868)以来、西欧列強に追い付き追い越すため、富国強兵政策をとってきた東洋の小国日本の政策が成果を上げた・・・と同時に、以後、わが国の侵略姿勢が強まるきっかけにもなったと、私は思います。そしてその頃、北海道では、室蘭や小樽、そして函館港が栄えました。
そう申せば、函館は、戊辰戦争最後の函館戦争(1868-69)の地、明治政府軍が最後の幕府側勢力を制圧し、日本の中世の幕を引いたところでもありました。現在の函館市立病院は、1860(万延元)年、北海道初の西洋式病院ですが、函館戦争当時の院長は、敵味方なく戦傷者を治療し、日本の赤十字活動の魁ともされる高松凌雲(夜明けの雷鳴)、そして高橋病院開設者高橋米冶先生も、その卒業生です。
先日、有名な函館の夜景も人口減のために、灯りのない黒いスポットができているとの新聞記事がありました。でも、マイナス1,2℃の函館山から拝見した景観は冷気の中で輝いていましたし、イルミネーションが見事な函館港は多数の観光客で賑わっていました。
大いに見聞を開かせて頂いた高橋病院への再見学をかねて、また、行ってみたいところが増えました。

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高橋病院理念
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函館の夜景

注:
戊辰戦争:1868(明冶元年) -69(明2)、薩摩、長州藩らによる明治新政府と、旧幕府側および奥羽越列藩同盟が戦った、わが国近代化前の内戦。明治政府の勝利で、国内対抗勢力は消滅し、新政府が国際的に認められるように。
函館戦争:1868-69。府の海軍の指導者榎本武揚らが、幕府の艦船で江戸脱出し、北海道に向い、函館五稜郭を占領、北方防衛開拓を申し出たが、新政府に認可されず、戦争となった。新政府軍と旧幕府の対立の最後。
「夜明けの雷鳴―医師高松凌雲」 吉村 昭 文芸春秋 2000

[会長ブログ ― ネコの目]
北海道

6月に始まった新事業「日本財団在宅看護センター」起業家研修も追い込みに入っています。後期講義と開業計画に追われている研修生一同と、病院でのcureと在宅でのcareの連携を見事に実践されている(と私は思っているのですが)函館市の高橋病院の見学を企画し、北海道に参りました。
先行した私は、同郷兵庫県出身で救急災害医学のバリバリ研究者だったものの、ご趣味の写真を理由に、北海道単身赴任6年目の村山良雄先生(清水赤十字)のガイドで、帯広、芽室、清水、夕張と4自治体の地域医療/在宅看護について見聞させて頂きました。
帯広への機上からの北海道は、しぶい緑、茶色、まっ黒と三色の区画が果てしなく広がり、その間を縫う道筋の所々に家々が見えます。昨今、限界集落を超え、消滅地域などという言葉もありますが、人口密度は東京(6,113人/Km2)に比し1/100の北海道(61.2人/Km2 2014年)は、そもそも過疎状態が当たり前だったのですね。今後の人口減時代の地域をどうするかは、北海道に学ぶところがあるはず・・・そんなことも思いました。ちなみに、日本国の人口密度は337人/Km2、世界最高は、都市ではマカオ(20,562)、国ではモナコ(24,728)、少ない方はオーストラリア(1.2)、カナダ(1.5)、モンゴル(1.7)です。(United Nations World Population Prospects)
どの国どの地域の文化も、長い間の生活、習慣、歴史と関連していますし、それぞれの暮らしつまり文化はその地の産業とも関係しています。今回、2日間で走り抜けた200Km強は、わが国有数の農業牧畜地帯 十勝平野ですが、ジャガイモ、長芋、そば、大豆、甜菜など、北海道ならではの作物ほか、ありとあらゆる野菜がとれるところ…と申しても、残念ながら、この時期は収穫後の広大な畑の広がり、機上から見たしぶい緑は短い草、茶色は大地、黒は肥料をまかれた土地と判りました。そしてその間の所々に、何々牧場と書かれた門標が現れます。何頭かの乳牛の姿が眺められました。
荒れ模様の天気予報でしたが、晴れオトコのドクター村山のお蔭で、ホンの少しの吹雪、時雨はありましたが、国道38号線や道東自動車道を帯広から札幌まで、傘をさすことはなかったのですが、車外温度は-1~2℃を行き来し、瞬時に天候が変わる雪国の様子は感じられました。交通量は少なく、対向する車もわずかでしたが、真夏には渋滞もあるとか、それはそれで結構なことだと思いました。街に差し掛かると、病院や診療所がありますが、郊外の高齢者は、殊に雪の季節はどうなのか…そんことも思いましたが、2,30km毎に町はある・・・ちょっとホッとします。
本来の目的の地域医療/在宅看護の様子は報告書にゆだねるとして、ここでは、今回訪問させて頂いた中から、2007(平19)年、財政再建団体(のちに財政再生団体)に陥り、市のホームページに、誠にユニークな借金時計がある夕張市の印象を記します。
夕張メロン、そして映画祭、財政破綻、日本一高齢化の街の日本一若い市長そして、借金時計と話題豊富なこの街ですが、市のホームページによると、明治時代、石炭の大露頭が発見され、わが国有数の炭鉱の街として繁栄し、最大人口は11万人もあったそうです。かつて住んだ九州でも、日本の近代化をけん引した石炭の街々が、その枯渇、事故、そしてエネルギー源が石油にとってかわったことによって衰退しました。ここでも、同じ経過があったのです。後から、よそ者が批判すべきではありませんが、石炭産業の衰退を見越した新たな街興しの規模が本来の街の機能に比し、無謀であったのでしょう。人々も、町の為政者も、当然、今の状態は想定しなかった、できなかったのですが・・・・市長がおっしゃる「課題先進地域夕張」の経過を学ぶことは日本の将来に有用・・・ムーディーズがランクを下げた日本の国債・・・そんなことがないことを切望します。・
現在の1/10の人口は、いわゆる限界集落現象とは異なり、町の財政破綻という、いわば人工の事象で街を去った人が多いこともあるようです。しかし、東京都から派遣された後、この街に戻り、よそ者ながら見事に市長選を勝ち抜き、復興を先導されている若き鈴木直道市長、この街の人間ですからと、高齢者ばかり…の街のケアを支えておられる横田看護師ら、市の破たん前から「がんばって」おられる市診療所長兼理事長の歯科医八田先生、市長イニシアティブで生まれた街の一角にある新しい「歩」、「萌」団地などなど、誰にも優しい新たな夕張の復興も感じました。皆様のご健勝とご活躍を祈るとともに、次回、名物メロンの時期(6~8月上旬)に再訪したいものです。

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鈴木直道夕張市長と村山ドクター
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夕張医療センター

 
参考
夕張再生市長 夕張市長 鈴木直道 講談社
やらなきゃゼロ!! 鈴木直道  岩波ジュニア新書

[財団ブログ ― ホスピス緩和ケア]
【ご案内】地域啓発活動助成

京都大学大学院で開催される講演をご紹介します。
お申し込み等の詳細は、PDFをご確認ください。
「京都の町で あなたらしく生きる を支える」
日時:平成27年1月12日(月・祝日) 14:00~17:00
場所:京都大学大学院 医学研究科 人間健康科学系専攻
    杉浦地域医療研究センター (杉浦ホール)
活動者:京都大学大学院 医学研究科 竹之内 沙弥香
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詳細PDF:ACP看護研究会地域公開講座案内

[会長ブログ ― ネコの目]
インド大陸列車の旅

インドのウエストベンガル州といってもピンとこない方も多いでしょうか。ベンガル湾に面した古い都市コルカタ(かつてのカルカッタ)が州都です。ここから、列車でプルリアまで約6時間の旅を致しました。目的地は、さらに、そこから車で一時間約50Kmのマニプールでしたが、行は鉄道、帰りは車8時間でした。
インドの列車に乗るのは、2回目、最初は5,6年も前ですが、前職看護大学の国際看護フィールドスタディでインドを訪問した際、同じくコルカタからバラナシまでの夜行列車を使いました。バナラシは、よく知られたヒンズーの聖都、夜明けのガンジス河(現地ではガンガスとおっしゃいます)で沐浴する人々や、河岸の荼毘に付される遺体、その遺灰(正確には焼け残った遺体の一部)を聖なる河に流す光景を見ました。あまりきれいではない河・・ですが、信じることは何物をも凌駕することは実感できました。
さて、今回は、弊財団が所在する日本財団ビルなどを管理する株式会社東京BMCさまのご寄付を活用した、ハンセン病患者や回復者の子どもたちのためのホステル-訓練所を兼ねた寄宿舎の竣工式に参加するための事務局長との二人旅です。
コルカタの壮大な鉄道の駅はガンジスに面しています。たくさんのバスやタクシー、そして人々が群れる駅前から構内に入りますと、以前と同じように、天井に巣くっている鳥の鳴き声が騒がしく耳を圧します。区画された待合ベンチでは、これも以前同様、ちょっと気だるげな乗客が並んでいました。夕方4時45分発の列車ですが、3時半過ぎには人々が乗り込みます。長い列車の一両だけのエアコン車両は現地でないと手配できないとか、地元のハンセン関係のNGOの方にお願いしました。発車時には、一車両80席は満席、携帯の話声、ミネラルウォーター、チャイ(甘いミルク紅茶)、よく判らない駄菓子、オモチャ売りがひっきりなしに声を張り上げて通路を行き交うほか、難病の子ども支援の寄付を募る女性もいました。
携帯、アイパッド、イアホーンで何かを聴く人、サリー姿の女性、宗教的な、行者のような姿の男性、額にビンディのある女性、ジーパン、スーツ、いやはや、きょろきょろするに事欠かない光景の中、定刻、音もなく列車は動きました。が、かなり左右に揺れます。1時間くらいは、窓の外の明かりは途切れませんでしたが、やがてほとんど真っ暗、時折、鈍い灯りがひとつ、二つ、また、稀には街灯らしきものが続いているところもありますが、大体は暗黒の中を列車が驀進している…という風でした。
所々の駅に停まりますが、放送があるわけではなく、注意していないと乗り越しそうですが、周囲の乗客は悠然とされています。たまたま、座席が駅舎側ではなかったのですが、19時10分頃に停まったところにはMidonapoleとありました。人気のないプラットフォーム、線路を大きくまたぐ架橋、まるで日本の田舎の駅のようでした。
時折、小さな紙カップにティーバッグでつくるチャイ、よく判らないポップコーン様のお菓子を売りに参ります。ちなみにチャイは、2ルピー約4円、それにしては美味しく頂けました。また、時折、突然の携帯、怒鳴るような話し声が響きます。
さて、インドの鉄道は大英帝国によって、1853年、現在のムンバイ(当時のボンベイ)とその郊外のタネー間に敷かれたそうです。日本は嘉永6年、ペリー来航の年です。日本の汽笛一声新橋を列車が動き出したのは1872年ですから20年先輩です。現在、62,000Kmの長さを誇る世界第五位の大鉄道網です。当初は、大英帝国が、植民地化したインド内で安く手に入れた綿花や石炭そして紅茶などを集積するためでした。大英帝国だけではありませんが、かつて世界を睥睨したヨーロッパ諸国は、その植民地を経営するに、株式会社形式をとっています。曰く、オランダ東インド会社、イギリス東インド会社・・・制度としては効率的であったのでしょうが、その組織の下で暮らし続けて行かねばならなかった現地の人々はどんな思いだったのか…ゴトゴト揺れる列車の中で、そんなことを思いました。
東北インドでは、紅茶の名産地ダージリンやアッサム行の、世界遺産に登録されているダージリン・ヒマラヤ鉄道(1999登録)があり、特殊な登山列車風だとか、一度乗ってみたいとも思いました。

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コルカタ駅
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車内の様子

[財団ブログ ― ホスピス緩和ケア]
【ご案内】地域啓発活動助成

東久留米白十字訪問看護ステーションで開催される2つの講演をご紹介します。
問い合わせ・お申し込みは、中島 朋子さん(h-hakujuji@bz03.plala.or.jp)までお願いたします。
    
1 がんと共に生きる ~その1~
  おしゃれライフアドバイス
日時:2014年11月30日(日)10:00~12:00
場 所:成美教育文化会館 3F 研修室
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〈詳細PDF〉頭皮ケアセミナー (3) (3).pdf
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〈詳細PDF〉頭皮ケアセミナー裏面 (3) (3).pdf
2 医療福祉職の緩和ケア学習会
  「グリーフケア」
日時:その1 2014年12月11日(木)18時半~20時
   その2 2015年1月31日(土)14時~16時
場 所:成美教育文化会館 研修室
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12.11②.png
〈詳細PDF〉2014年12月学習会 ポスター案ver 1 (3).pdf


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