[会長ブログ ― ネコの目]
テープカットと女性

3月2日、常磐道自動車道が全線開通したとの報道がありました。
間もなく満4年になる東北大震災、そしてその後の東電福島第一原発事故のために遅れていた、富岡と浪江両インターチェンジ間の14.3Kmの工事が終わり、全長300Kmがつながったそうです。この路線の決定は1966年といいますから、ほぼ半世紀も昔に計画されていたのですが、被災地と首都圏をつなぐ大動脈が完成し、復興が加速されるとの期待もあるようです。
首都圏から東北部に向かっては、もうひとつ東北自動車道がありますが、常磐道は、より太平洋側なので降雪の影響が少ないとか。ただ、今回開通した区間は、「富岡」「大熊」「双葉」「浪江」と、原発事故後にお馴染みとなった地域、つまり、未だ帰還困難だったり、居住制限されていたりの地域を走り抜けるため、1時間当たり空間放射線量を知らせる電光掲示板が設置されています。国によれば、車で同区間を1走行した際の被曝線量0.2μシーベルトは、胸部レントゲン撮影時の1/300としています。
TVでも放映されたテープカットの光景には、首相以下お歴々らしき方々がお並びでしたが、女性は一人も見えません。住民の半分以上は女性、ここを通るだろうドライバーの中にも女性は相当数に上るだろうにと思い、ちょっと調べてみましたら・・・
古いのですが、平成2年の自動車安全運転センターによる152ページの報告書「女性運転者の運転の実態と意識に関する調査研究」には、「わが国の運転免許保有者数は増加を続け、昭和63年末現在で5,700万人に達した。 このような増加は、特に女性において顕著で、昭和63年末現在での女性の運転免許保有 者数は、10年前の2倍強の約2 , 100万人に達し、全体の約36%を占めている。」とあり、新しくは「女性ドライバーの事故が増加中!クルマ選びも女性目線が大切?」には、「1970年代には1,000万人程度だった女性の免許保有者数は、2010年には3,500万人を突破。男女比でも、女性の割合が徐々に大きくなりつつある。」とありました。いずれにせよ、ドライバーの半数近くは女性であることが判ります。ですから、利用者の立場からは、テープカット者の半分近くが女性であって欲しいと思いったのですが・・・・
前者の報告書の続きには、「女性運転者による交通事故件数は、昭和63年においては全体の約20%に当たる約12万件で、10 年前の約2.2倍に達し、男女全体での同様な対比の約1.3倍をはるかに超えている・・・・」、後者には「女性ドライバーによる交通事故件数も、年々増加傾向にある。1995年~2004年の10年間で比べてみると、交通事故件数の増加率は、男性の場合20%弱だが、女性は40%を超える。」とありました。ガァァーン!! ですね。
一方、女性が少ないことに関して、10日ほど前の新聞に、全国地方議会1788のうち、約2割にあたる379市町村議会では、女性議員が一人もいないとの記事がありました。特に町と村では35%を越え、九州や東北で目立つともありました。九州や東北という広大な地域では、車なしには生活できないところでもありまして、女性のドライバーは多いと思います。そのような地域でこそ、もっともっと女性が社会進出しなければならないのですが、何はともあれ、安全で適正な運転は必須ですね。
テープカットから、調べた女性ドライバーから事故と、少し脱線してしまいましたが、道路上では、安全運転を心がけます、ではなく、必ず、安全運転を、です。

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Cat’s index ネコ指数

昨日2月22日は、ニャンニャンニャンの猫の日でした。
先週は、国立ハンセン病療養所ご勤務の医師、看護師ご一行17名と、多数ではありませんが、まだ、新患発生があるフィリッピンに参りました。セブ、クリオン、マニラでの関連施設見学と同国の患者、回復者を含む関係者との意見交換に加え、WHO/WPRO(西太平洋地域事務所)でも勉強させて頂きました。こちらは、きちんとした報告書作成に委ねますが、ここでは、少し、気がかりな仔ネコちゃんのお話を。
ハンセン病の歴史では、世界的に有名なクリオン島への拠点は、近年、ダイビングスポットとして売り出しているコロン島です。そのホテルのことでした。
朝、一匹の仔ネコがよろよろとロビーを横切りました。そして、小さな岩を組んで作られた池の周りの石垣を登ろうとしました。ネコオタクの私は、世界中、何処でもネコ写真は撮らせて頂きますが、引っかかれたり、噛み付かれたりして感染することもあろうかと、実際にネコを触ることは控えています。
しかし、その仔ネコの、あまりのひたむきさに、そぉっと抱き上げ、池の縁に置きました。仔ネコは、しきりとにおいを嗅ぎつつ、噴出している水の傍に近づきました。が、掌に乗るほど小さい身体の上、骨ばかりにやせた、その仔ネコには、激しく流れる水は危険だと感知したのでしょうか、伸びたり下がったりしたものの、ついに諦めたのか、わずかに湿っている石を舐め始めました。
そうなの、あなたは水が欲しいの?と、私はつぶやいて、同行スタッフからペットボトルをもらい、石のくぼみに水を注ぎました。
仔ネコは、小さな、小さな、そして貧血気味の舌を懸命に動かして水を舐めました。間もなく、疲れたように目を閉じました。私は、仔ネコを池の縁から地面に下ろし、手持ちのクッキーを水で湿らし、その口許に置きました。一、二度、舐めただけで、もはや、それを食べる元気もないようでした。
昔、国際保健専従時、cat’s index(ネコ指数)などと申したことを思い出しました。
成猫はいるが、目つき険しく、ガリガリ。仔ネコはいないような国や地域での、人の5歳未満時死亡率(U5MR)は200/1000出生以上、成猫はやせてはいるが、お腹が垂れ、何度もみごもったらしいメス猫がいるところのそれは100程度など、私なりのネコ指数と実際の科学的数字を比べたことがありました。激しい紛争が遷延しているところでは、ネコはいない・・・など。
あの仔ネコは、恐らく、あの日の内に生を終えだろうと思うと胸が痛みます。が、最後に、気力を振り絞って、水を求めた逞しさ、わずかな水を舐めた後、諦観したように目を閉じた姿。
自然の中で生きるということを教えてくれた、あの小さな命も、また、限りなく尊いものでした。
さて、日本のネコの日は、「日本の猫の日実行委員会」が制定されたものですが、ロシアンブルーのロシアは3月1日、アメリカンショ-ト-ヘア-のアメリカは10月29日、そして国際的には8月8日がInternational Cat Day (World Cat Day)、猫好きには、猫の日が沢山あって、幸せです。

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水を求めてさまよう仔ネコ
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一心に水を飲む
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うずくまって動かなくなってしまった

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野球老年 久保瑛二氏

過日の宮城学院女子大学訪問の後、足を延ばして、登米市にある国立ハンセン病療養所のひとつ、東北新生園を再訪させて頂きました。仙台から車で1時間半ほど、週末・・休みを承知で押しかけたのは、雪の療養所を見学させて頂きたいとの想いからでしたが、運悪く・・・いえ、運よく、天候に恵まれ、旧知の鎌田さゆり氏の運転もなめらかに、まったく雪の無い行程でした。
自治会支部長久保瑛二氏は、今年82歳と仰せですが、お見かけもさることながら、気持ちがとてもとても、お若いのです。
それもそのはず、そうです、かつて巨人の「川上」に熱を上げられた野球少年のまンまなのです。と、申しても、赤バットの川上を知っている世代は、ボチボチ後期高齢者・・・同行の若いスタッフとの間には、当然世代ギャップ!!
支部長室の壁にかかっている「少年野球」関連の感謝状から、新生園主催の少年野球のお話をうかがいました。そのお口振りの熱いこと!
今年平成27(2015)年には、第13回になる東北新生園と同園入所者自治会(楓会)主催の少年少女野球東北新生園大会は、かつての野球少年久保支部長の夢から生まれたものです。
昨年の訪問時にもうかがったことですが、園の中を抜ける2本の市道は地域住民の日常通路であったこともあって、近隣に開かれた園、そして人々との交流は途絶えなかったようです。そして、園と園自治会主催の野球大会や、かつて在園された副園長のご厚意による花火大会も、沢山の来園者が続いているそうです。
過日のグローバルアピールは、ハンセン病に対する偏見を排除するための催しであり、世界的には、またまだ、改善されるべき事態は根深いのですが、ここでは、野球少年のお気持ちそのままに、身体的にはいささかお歳を召したものの、気持ちは、かつてと何もかわっていない、久保支部長の発案による療養所から外部に向けての貢献が地域の中に花開いていると実感しました。
後期高齢者に達した私世代が集まりますと、アッチが痛い、コッチが具合悪い・・とあまり花のある会話はないのですが、素敵なスーツ姿で、熱く野球を語って下さる久保支部長のお蔭で、ちょっと背筋がまっすぐになりました。今年の野球大会には、是非参加したいと思いました。
現在すでに80名のなった在園者の方々の恙無い生活と、野球少年久保支部長の、さらなるご活躍を祈って、わずかに雪の残る園と別れました。

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わずかに雪の残る新生園
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野球老年久保支部長との記念撮影
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少年少女野球東北新生園大会のパンフレット

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宮城学院の国際社会

1月の最終日曜日「世界ハンセン病の日」を期して、日本財団主催の第10回グローバルアピールは大成功でした。
私どもでは、それに並行したイベントを承り、広く呼びかけましたところ、ありがたいことに、全国各地、津々浦々、大学、高校から地域サークルや自治体、さらに各種団体さまから個人ドノまで、本当にさまざまな企画をお寄せ頂き、年度末まであちこちで、色々な催しを支援させて頂いています。
その一環で、福音主義キリスト教の精神に基づく宮城県仙台市の宮城学院女子大学にまいりました。
大学の理念に、神を畏れ敬い、自由かつ謙虚に真理を探究し、隣人愛に立ってすべての人の人格を尊重し、人類の福祉と世界の平和に貢献する女性を育成する、とありますが、チャペルの壮大なステンドグラスには圧倒されました。少し雪が残るキャンパスには、煉瓦作りの瀟洒な建物が広がり、映画のシーンのような素敵な学生さんがにこやかに会釈して下さいます。緊張がほぐれました。
さて、この大学でのイベントです。
学生の自主活動のためのリエゾン・アクション・センター(MG-LAC)の​主催の本イベントの学生責任者で、ことにハンセンにご関心が高く、かの有名なフィリッピンのクリオン島まで遠征済みの4年生の​作間温子さんの企画です。ひとつは、日本財団専属のフォトグラファーで、同財団笹川会長の各地各国訪問に同行しつつ、意義深く、しかし美しい作品を撮られている富永夏子氏の作品展です。他は、「人類が抱える差別という病-ハンセン病の今を知り、私たちができることを考えてみませんか」と題された講演会で、不肖私が国際での経験を踏まえ、お話させて頂きました。

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富永夏子氏の作品展
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講演会場となった教室

が、ここでは、その報告ではなく、その後に参加した二つの催しについての感想です。
まずは、高校2、3年生のプレゼンテーションの評価会です。校長先生によると、初めての試みだそうですが、対象テーマがすべからく国際的、たった4分と云う短い持ち時間ながら、多様なテーマについて、工夫をこらしたご発表を楽しませて頂きました。ちょっともったいないばかり、半日位時間をかけて、意見交換がなされれば、もっと盛り上がるかと思いましたが、相当やかましくなるかな?
次は、高校1、2年の4名と面談です。私となら、60年程も齢が異なる、まるで異文化世代の若き「お嬢たち」の話題は、これまた、海外で困っている人々への関与の在り方という、感動するばかりの国際性。私は、長らく、いわゆる「国際」と呼ばれる分野に身を置いてきましたが、次の次の、そのまた次の世代でしょうが、日本の若者にとっては、世界はうんと、うんと小さくなっていると実感しました。
東北と云えば、間もなくあの災害から4年目。この学生生徒さんたちは、多分、その日のための催しをすでに仕込んでおられるような気がしますが、東北地方からみて外部も内部なく、また、日本から見て、外国も国内もなく、意見は色々、服装も肌の色も色々あっても、話し合えある場と協力できる余地のある本当の国際化社会が来てほしいとつくづく思いました。

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生徒さんとの記念撮影

[財団ブログ ― ハンセン病]
〈ご案内〉「世界の島は語る」パネル展の開催!!

今月初めより月末まで、日本財団ビル1階フロア(バウルーム)にて、国立療養所長島愛生園歴史館制作(協力: 笹川記念保健協力財団)の「世界の島は語る」パネル展を開催しています!
「海・・・ それは島の療養所に隔離された者にとって、社会や家族との「壁」そのものでした。療養所の入所者たちはこの海を眺め、故郷を想い、家族を想いました。」
岡山県にある長島愛生園は、日本で島に所在のあるハンセン病療養所の一つです。その療養所の歴史館で学芸員をつとめる田村さんの言葉です。
世界には、日本と同じように隔離政策を行い、隔離施設としての療養所を島に開設した国がいくつもあります。本パネル展では、世界各地のそうした島の歴史と今日の姿をわかりやすく紹介し、今に至るまで続いてるハンセン病問題とその将来について考察を深める機会を提供するものです。
みなさんのお越しを心よりお待ちしております!
会場: 日本財団ビル1階 (東京都港区赤坂1-2-2)
  (地図 → https://www.smhf.or.jp/about/access/
開館時間: 平日9:00~17:00
※ 入場無料

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会場の様子
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フィリピン・クリオン島についてのパネル

[会長ブログ ― ネコの目]
旅立ち

とても、とても重く、しかしとても、とても充実した一週間が過ぎました。
1月27日には、初の日本開催となったハンセン病の差別・偏見に対する啓発活動「グローバル・アピール」(宣言文)が開催されました。今年のカウンターパートは世界の看護師!! 国際看護師協会会長、日本看護協会会長、そしてハンセンにかかわりのある内外の多数看護師が一堂に会しました。

そして29日は、8ヵ月にわたる「日本財団在宅看護センター」《起業家育成事業の研修生の旅立ちの日》でした。北海道から九州にいたる、各地から、さまざまな経験と背景をもつ17名の看護師が、新しい地域包括医療制度の中で、重要な役割を担うであろう「在宅看護センター」の管理者を目指して集まったのは昨年6月でした。そして山あり谷あり、雨の日、嵐の日もあった8ヵ月を切磋琢磨して、この日を迎えました。

日本財団笹川陽平会長は、ひとりずつに親しく修了証書を手渡された後、ユーモアいっぱいの式辞を述べられました。和服姿もまじる一同は、先々週の開業計画発表時とは打って変わって寛いだ雰囲気ながら、顧客にも、スタッフにも、そして何より自分自身の仕事に責任を持ち、孤独にも立ち向かわねばならないリーダーとしての心得を説かれた会長のお言葉を真摯にうかがった様子でした。

そして、厚生労働省、日本看護協会、訪問看護財団からのご祝辞、祝電ご披露後には、研修生代表のお礼の言葉がありました。
「・・・講義を締めくくる最後の3日間、多磨全生園ハンセン病記念館見学、日本財団笹川陽平会長と笹川記念保健協力財団紀伊國献三会長、そして日本看護協会坂本すが会長のお話しが続き、21世紀を生きる看護師として、この研修が如何に時宜を得たもので、私たちにとっては必然であったことが、改めて、身に染みました。」
「私たちは、今、自分たちが生きる社会の仕組み、世界の動きの中での看護を考えるようになっています。そしていつの時代にも、その変化とニーズに合わせて、自らも常に変化し続けねばならない事、変化することで看護の真髄がまもられること、その意味では、安定はない事を痛感しました。」
「この東京での出会いは、私たちにとってどれほどの糧になったか。素晴らしい出会いの数々に想いを馳せると、この日本財団ビルで過ごした時間は、また、人生にとっても必然の1ページであったことに疑いの余地はありません。超高齢社会に突入しつある日本において、2025年問題の解決は最重要事項です。私たちは、この8ヵ月の学びによって強化した看護力を発揮し、地域にしぶとく定着し、そして発展します。史上最早の高齢社会を迎える日本において、世界のモデルケースになる『看護師が社会を変える』取り組みを、誠実に確実に行います。」と力強く宣言してくれました。 新たに旅立った17名の同志のご発展とご健勝を、切に願います。

[会長ブログ ― ネコの目]
「世界ハンセン病の日」と「第10回グローバル・アピール」

1月の最終日曜日は世界ハンセン病の日(World Leprosy Day)です。
と、偉そうに申す資格など、私にはありません。もし、現在の職場である公益財団法人笹川記念保健協力財団に加わることがなければ、私は、この日のことも、なぜ、この日があるのかも知らないまま一生を終えたことでしょう。縁あって・・など、古めかしい云い方ですが、ここに来ない限り、関心をもつことも見ることもなったことでもあります。しかし、開発理論にある「見た人の責任」という言葉とともに、最近は、究極の感染症とも云える、興味深いこの疾患・・とそれを持つ人々について働く機会を得たことをありがたく思っています。
まず、なぜ、1月最終日曜日なのかです。ハンセン病に特に関心の高かったインドの聖者ガンジーが亡くなった日(1月30日)に近い日曜日がゆえんと聞きました。今年は、昨日1月25日でした。
さて、詳しくは当財団HPをご高覧頂きたいのですが、わが財団は、41年前、日本財団創設者笹川良一翁と、ハンセン病が治ることを示したプロミンという薬剤を、わが国で初めて合成された石館守三博士の両先達の歴史的な決意で生まれました。爾来、親財団の日本財団の下、多数の組織的また個人的支援者のご協力を得て、主に海外活動を続けてまいりました。
それに並行して、ひたすらハンセン病者のために貢献してこられたのが現日本財団笹川陽平会長です。ハンセン対策における笹川会長の「特筆すべき」ご貢献は最低3つあると私は思います。まず、1995年、世界のハンセン病者に無料薬剤配布を宣言されたこと(その結果、数年間で患者数が激減したあと、そのプロジェクトはノバルティス社が継続中)、次いで2006年以来、世界初の活動として、この病気にまつわる差別、偏見、人権問題に着手されたことそのご功績は世界最大の法律家団体である国際法曹協会が認めるところとなり、法のノーベル賞ともよばれている「法の支配賞」を、昨年11月、日本人で初めて受賞されました)、さらに2013年、停滞している新規感染者検出を促進するためのバンコック会議をWHOとともに主宰されたこと
(その結果、数カ国が、国を挙げてハンセン病対策に取り組み直している)などなどです。この道たった2年目の私が申すのは僭越至極ですが、これらエポックをなした取り組みの背後にある状況を的確に把握し、会長の目指される理念をどう継承拡散させかがが、私どもの役目、私の責任と考えています。
斯く斯様に、かつて千数百万を数えた年間発病者の多くは多剤併用療法によって、身体変形や機能障害を残さず治癒するようになり、現在の新規発病者は毎年20万人強になりました。しかし、世界中に、まだ、偏見は強く残っており、本人や家族が辛い思いをしているだけでなく、事実上、社会生活が妨げられていることも多い・・・ほとんどそうだと申しても良いほどです。WHOの健康の定義は、身体的、精神的、社会的に全きこととありますが、それらが満たされることは、特にこの病気では難しいと感じさせられます。そして、その二つ目と三つ目にかかっているのが、2006年の世界ハンセン病の日を期して始まったグローバル・アピールです。日本財団では、この病気にまつわる人権問題に関する啓発活動の一環として、差別問題などを世界に訴えるための「ハンセン病に対するスティグマ(社会的烙印)と差別をなくするためのグローバル・アピール」を、毎年、ある職種、機能を代表する人々をパートナーに、世界に向けて発表しています。
2015年、第10回目は、世界の看護師団体をパートナーに初めて東京で開催されます。世界看護師協会(ICN)会長、日本看護協会会長を始め、まだ、問題が残っている国々の看護界代表者の来日もさることながら、133ヵ国の看護師協会の代表が、グローバル・アピールにサインを寄せられます。
偏見は、病気を患っている本人にあるのではありません。
偏見や差別は、病者以外の人間、つまり私やあなたの心の問題とも申せます。常々、看護師は、人々に一番近い保健専門家であり、病人と社会をつなぐことも、その機能の一つと申している私には、明日1月27日の第10回グローバル・アピールはとても嬉しく、晴れがましい催しです。大いに気合を入れて参画させて頂いています。
なお、しばらく、”Think Now ハンセン病キャンペーン”も行っていますので、是非、ご参加を!!

[財団ブログ ― ハンセン病]
「アイデア・IDEA」そして、その先へ

§始まりは1993年10月フロリダ州オーランド 国際ハンセン病学会に当事者が参加§
1993年10月アメリカ南部フロリダ州のオーランド市で開かれた第13回国際ハンセン病学会は一つの歴史を刻んだ。1897年の第一回ベルリン会議からほぼ100年、医師、研究者の学会に「当事者」たちのセッションが出来た。「患者たちが学会に?」に近い声が学会主流にあったことは言うまでもない。当事者たちの参加を想定して作られた特別セッションは「ハンセン病サービスの提供者と消費者=コンシューマー」という奇妙なタイトルだった。つまり「提供側」と「受け手」という図式の中で、「受け手」の当事者の発言の場を確保したものだった。
§個性豊かな活動家たちが顔を合わせた§
このセッションに参加した「消費者」側は多彩だった。ハワイ モロカイのバーナード・プニカイア、ブラジルのバクラウ、韓国の鄭相権、そしてインドのゴパール。それぞれ自分の地元でハンセン病回復者の生きる道を探って努力を続けて来た人たちだった。日本からただ一人参加した奄美の佐々木氏は、会場で会ったプニカイアに「貴方は7才の時に母親のもとから引き離されてカラウパパに送られましたね、、、、」と語り掛け、佐々木氏に同行した私はただただ驚きを隠せなかった。インターネットもない時代に、日本の南の島でモロカイに生きる同病者の動きを把握している。その鋭さに圧倒された。
§アイディア(国際組織)設立へ§
フロリダでの学会の翌年、ブラジルの当事者組織MORHAN(モーハン=ハンセン病者の社会統合運動)の努力で、リオデジャネイロ州ペトロポリス市でアイデア設立集会が開かれた。アイデアの第一期は、世界の各地で個々に声をあげていた当事者リーダーたちが国際的な舞台を得て連帯を築くことが中心となった。アイデア創設とその後の牽引車の役割を担ったアメリカの活動家、アンウェイ・ローさんの「本来(このような国際的な発言の場は)もっと早くできて当然だった」という言葉を裏書きするかのように、ハンセン病回復者自身による国際ネットワークの設立は世界各地で熱く受け止められ、急速にその波紋が広がって行った。
§アイディアのビジョンが日本に伝えられる§
それから2年後の1996年、アイデアが中国でも設立されることになり、設立集会に参加するインドのゴパール氏とアメリカのアンウェイ・ローさんが東京に立ち寄った。日本の回復者とアイデアの出会いであった。ちょうど「ハンセン病廃止の歴史」の校了間際であった故大谷藤郎氏は、アイデアの中心理念である共生・尊厳・経済向上に触れて、校了間際であった著作に書き足した。「人間の権利を侵害されて苦しんだ人間こそが『共に生きる社会』を真剣に考え先頭に立つことができる」「国会がらい予防法廃止を議決する同じ時期に、アイデアのゴパール会長とアンウェイ・ラウ夫人が日本を訪問してアイデア精神を説かれたのは『天からの使者』のように私には思える。」
§1998年 初の国際交流集会§
1998年6月には、全療協・アイデア・藤楓協会の共催で「人間の尊厳回復と共生をめざして-ハンセン病回復者の国際交流集会」が開催され、海外7か国から9名の回復者が来日した。
§アイデア ジャパンの設立§
こうして日本に撒かれたアイデアの種は2004年、森元美代治さんを中心としたアイデア・ジャパンに結実した。当事者が世界各地の当事者と連帯して共通の問題に発言し、相互に支援する運動は、全国の療養所の入所者の方々の支援も受けた。当初は個人的に参加する方も何人もあり、全療協も賛助会員として支援していただいた。
§アイデアの第二期は、、§ 
それぞれのリーダーたちが自らの足元の問題に注目し、組織を強化し活動を拡げていく過程であった。インドでは全国的なハンセン病コロニーの調査を行い、コロニーをベースにした州レベルの組織化に努力が傾けられ、その後の全国組織、「ナショナル・フォーラム」に発展していく。エチオピアでも全国の支部をつなぐ組織「エナパル」の強化が進んだ。フィリピンでは、長い隔離の歴史のなかで、全国8か所の療養所を中心に生まれていた多数の草の根グループの調査が始まっていた。中国のハンダ(漢達康福協会)は全国600余りのハンセン村のうち、南部を中心に回復者村民のリハビリテーションに取り組み始めていた。ブラジルではモーハンの主導で、厳しい隔離の歴史を持つ30余か所の療養所入所者の生活向を課題として、隔離政策の被害を問う国家賠償の要求運動が展開された。
§記憶を継ぐもの、、、、新しい担い手の出現§
そして今、厳しい隔離と差別の人生を生きた第一世代は高齢となり、去りつつある。ハンセン病は治る病気となり、第一世代が体験したような逃れようのない烙印を残すことは比較的少なくなり、各地でハンセン病の足跡が消され始めている。その一方で、隔離と差別の中を不屈の精神で生き抜いた第一世代の人々の人間像に、現代社会が見失いつつある原石のような力を発見し、人としての強さ優しさのメッセージを受け継ぎ、その記憶を後世に引き継ごうという活動が生まれている。それは同時に、外の社会にハンセン病を生きた人々の姿がとどくことであり、見えない「壁」を取り払う動きとなり、アイデアの今一つのコンセプトであるインテグレーション、つまり社会への統合に至る道に他ならない。
社会の排除と闘って自分たちを育ててくれたことに感謝と誇りをもち、第一世代である父母の世代に発足した組織を継承する第二、第三世代がいる。第一世代の当事者と深く心を通わせ、第一世代に「自分たちの跡を引き継いで、ハンセン病問題を解決して欲しい」と委託された個人・団体もある。苦しく辛い人生を生きた第一世代のイメージがを記憶している第2第3世代がいる場合は、当事者組織の理念や方針は来通り維持されると予想される。一方、第2世代の居ない環境ではどうだろうか。そこには、高齢の当時者と20代前半の若者といった新しい支援環境が生まれている。若者たちには、ハンセン病を生きた人々との交わりを経て、よりはるかな人間の地平線が見えて来るのかもしれない。ハンセン病問題は病気を超えた様々なテーマを提供しsて、我々一人一人に迫り、育ててくれる。 (ヤマグチ)

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テロ in Paris

新年早々、痛ましい、そしておぞましい事件が起こりました。
卑劣な襲撃の犠牲となられた方々と、そのご家族、同僚、友人そしてフランスの人々に、心から哀悼の意を表します。
2015年1月7日、昼前のパリ、シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)という風刺画を特徴とする週刊新聞社に、覆面した武装二人組が押し入り、編集長ら職員と警官2名を含む12名を射殺しました。犯人らは、翌々日、立てこもり先で射殺されました。結局、この事件で失われた命は17名に上るそうですが、その数ではなく、起こったこと事態が、2001年9月11日の同時多発テロ同様、世界に新たな挑戦を挑んだものと思います。
直後、現場に到着したフランスのオランド大統領は「テロ」だと明言されました。その後、世界各地で、「私はシャルリー!」と書いたプラカードを掲げる追悼が続き、パリでは街全体を埋める連帯の輪が広がりました。イギリスのキャメロン首相、ドイツのメルケル首相、イスラエルのナタニエフ首相もパレスチナのアッバース大統領も、ともにオランド首相と腕を組んで行進されました。
二つのことを思いました。
今回の事件の場は、パリの中部にあるバスティーユ駅の近くだそうです。
テロという言葉の最初は、バスティーユ宮殿襲撃で開始されたフランス革命に始まります。この、史上最大の市民革命-フランス革命を簡単に申すことは不可能ですが、要は、1789年7月14日、それまでの旧体制に不満を持った人々がバスティーユ宮殿を襲撃し、いわゆる第三身分(平民)による国民議会発足に始まる革命の拡大が、王政と封建制度を崩壊させ、自由・平等・博愛を奉じる新生フランス誕生の経過です。実際、国内が落ち着くまでには数十年もかかっていますが、その初期、キリスト教迫害、ルイ16世やマリー・アントワネットらのギロチン処刑、多数の内乱などなど、ロベルピエール率いるジャコバン党恐怖政治が終わる1794年までは、実に血なまぐさい時代だったようです。
テロの語源は、この間、「権力を握った」ジャコバン党が、敵対する人々を次々粛清するためにギロチンにかけたことを恐怖政治La Terreur(仏語)と呼んだことに始まります。つまり、最初のテロとは、「権力者の手段」だったのです。現在のそれは、まったく逆で、「権力を持たないもの」が、権力側に抵抗する手段として乱用されています。
かつて、紛争地勤務の後、テロを少し調べたことがありますが、そもそもの定義すら、何十何百もあって一定しません。当時、「権力を持たないものが、為政者や権力者に抵抗するため、不特定多数への傷害を与え、社会を混乱させること」、つまり、権力者に不満があるものなら誰でもがテロリストになり得るし、また、誰でもがそのターゲットになり得る、究極の人的災害だと私は考えていました。今回、テロと云う言葉の発祥の地で、メディアという民主主義最大の手段である報道/広報=意見を自由に述べる手段の場を襲うという最悪の事態が発生したことは、世界がとても深刻な時代に突入したように思いました。
もう一つは、フランスの国歌La Marseillaiseです。
ご承知のように、この国の国歌は、知らずに歌詞を読みますと、軍歌としか思えません。特に各小節の間に繰り返される部分は、「武器を取れ 市民らよ 隊列を組め、進もう 進もう! 汚れた血が 我らの畑の畝を満たすまで!」と勇ましいのです。
では、何を目指して戦うのか、です。幼時、空襲警報に怯えた私が思ってきたのは、戦争や対立のない平穏で平和な社会を作るためでした。しかし、今回の事件後の彼の国の人々、そして西欧諸国の連帯から思うことは、語弊を恐れずに申しますと、決して単純に平和を求めているのではないのではないかと思いました。モチロン、平和を否定するのではありませんが、フランス革命以来、この国の人々が、命を懸けて求めてきたものこそが「自由」と「平等」と「博愛」であり、今回の事件が、その自由への挑戦と受け止められたのでしょう。そしてその考えは、壮大な連帯の行進に参加しているすべての国々が共有する考えなのでしょう。
しかし、何故、このようなテロリストが生まれるのか、世界全体でみた場合の自由と平等、そして博愛はどうなっているのか。私どもは、どんな立場にあるのか、真剣に考えました。
結論は出ませんが、何と世界は複雑になってしまったのだろうかと思う反面、古来、和をもって貴しとするわが民族の出番があるような気もしています。皆様は、どのようにお考えでしょうか?

[会長ブログ ― ネコの目]
初夢

明けましておめでとうございます。各地の大雪、出鼻をくじかれた感ありでしたが、よい新年をお迎えになられたことと拝察します。
古来、新年2日の明け方に見るのが初夢、縁起の良いのは一富士、ニ鷹、三茄子と申します。世界遺産の霊峰、Mt.FijiのNo1は異論ないところですが、出所は江戸時代、駒込にあった富士山信仰の講が由来とか。ついでにくっ付いたのが、付近の鷹匠住宅つまり将軍ご趣味の鷹狩専門家の存在と名物地産なす。でも、やはり何故、鷹とナスですね。そして地域で違うそうですが、四扇五煙草六座頭と云うらしい、です。
私の初夢です。単純ながら、畏れ多くも天皇陛下の年頭のお言葉に触発されています。戦後70年の節目に当たる今年、陛下は、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なこと」と仰せでした。
満州事変とは、1931年、日本軍の一部隊関東軍(当時の中華民国からの租借地関東州の管理者)が、現在の瀋陽(当時の奉天)郊外の柳条湖という地の鉄道線路を爆破(柳条湖事件)し、以後、勢いをエスカレートさせて、現在の中国東北部全部を占領した武力介入、そして、いわばこの一部隊の暴走が、その後、わが国が世界と戦う第二次世界大戦の下地をなしていました。陛下が、そこから考えよと仰せの訳を真剣に考えねばなりません。
さて、物心がつき始めた頃、一年程住んだ「満州」に少し敏感なところがあると自覚していますが、私の初夢は33年前に身罷った父が出てまいりました。
日本の軍国時代、父は松花江沿いの林口駐留日本軍の通信部隊教官でした。生家は田舎故、家系断絶ならじと姉は祖父母の許に残り、私は父母と一緒にその地に渡りました。大戦末期、私どもが無事帰国できたのは、いずれも病気が理由。母と私は、子宮がんを患っていた祖母の容体悪化で1944(昭19)年春に、父は翌年春、虫垂炎術後芳しくなく内地強制送還でした。当時、彼の地の生活はゆったりでしたが、帰国前に送った私物は一切着かず、朝鮮半島南端の釜山からの航行は、何時、魚雷に遭遇するか判らないと救命胴衣着用が厳命されたと後に母から聞きました。また、30代後半で壮健だった父の術創悪化は、既に、現地の医療衛生状態の芳しからざることもあったかと、今は思います。
戦後の父は、自分の命は拾ったものと申していましたが、しばらく、引き揚げても郷里に戻れなかったかつての「部下」、今ならスタッフを何人も自宅に泊め、仕事を見つけたり、お嫁さんを探したりしていました。思い出しますが、少年兵とでも呼べた年頃と思われたこの方々は、私が高校生になる頃までの戦後十数年間、父に向って「部隊長ドノ!」と呼びかけていました。
夢の中の父は、掘り炬燵なのに浴衣姿で、癖の貧乏ゆすりをしながら、ニコニコしていました。私の短気は父譲りだと思っていますが、若い時の父は、特に悪戯の過ぎた私には怖い存在で、しばしば子どもの力では開けられない蔵や母屋二階の暗い物入れに閉じ込められたり、母の詫びでは許されずに、時には父が一目置いていたご近所のご高齢のご夫婦が私を引き取って謝って下さいました。そんな日、私はベソをかきながら、そのご夫婦の家で夕食を頂いたものでしたが、かつての部下ドノたちによれば、ただの一回も部下に手を上げなかった唯一の部隊長だったそうです。
父は、夢の中で、ただ、ニコニコと、私の周りの沢山の人々を眺めていました。その数え切れない人々とは、直近の在宅看護センター研修のお仲間、今は亡くなった小学校の同級生、中学時代に通学定期の使い回しで補導された時の仲間(悪さの思い出、冷汗!!)、アフガンで出会った少女はまだしも、見たこともないお顔もありました。炬燵の向こうの父に触れようとしたのですが、何故か手が届かず、手を伸ばそうとしても手が伸びないまま、何故?何故?と思っている内に目覚めました。
さて、満州から父と連想ゲームのような初夢は、果たして何を示唆しているのでしょうか?
今年も、皆様と丁々発止の質の高い対話を続けさせて頂きたいと思います。