馮可騰 (中国)

ph_ls_fen01私は貧しい家庭に生まれました。母はたった一人で家族全員の生活費を稼いでいました。私の祖母、弟、そして私。弟と私は幼い子どもでしたが、祖母は私たちよりも母に頼り切った生活をしていました。祖母は80代で、盲目でしたから。私は飲み込みがいいほうでしたので、魚を釣ったり、農作業を手伝ったり、料理をしたりと、小さいころからできる限り家族を助けてきました。

私が10歳の時、左足に何か明るい赤いマークがあるのに気がつきました。赤い斑点のようなもので、全然気にしていませんでした。たいしたことではないので、母にも言いませんでした。中学校に入学してしばらくすると、今度は顔にまた赤いマークが出てきたのです。母はこれを気にして、医者に連れて行かれました。そこでハンセン病と診断されたのです。

何日もの間、家の中に閉じ込められました。毎日毎日、母は私を問い詰めるのです。「おまえ、どうしてこの病気になったの?」

この病気にかかった人は、何か悪いことをしたから神様が怒って与えるのだ、と信じている人が、いまだに多くの国にいるのです。ユダヤ教やキリスト教文化でもそうだったと聞きました。母がこうやって私を問い詰め、なじったのも、愛情の表現だったと言えますね。母は、私が何をしてこの病気になったのか分かったら、病気が治せると思ったのです。私は第一子でした。母の暴力は、私よりも、母自身を深く傷つけていたでしょう。

1963年9月1日、私は近くの山間部にある潭山医院に送り込まれました。病院とは名ばかりでした。薬すらなかったのですから。潭山医院での最初の8年間は、常に痛みを感じていました。神経作用だと言われました。痛みよりも悪かったのは、飢えです。食べるものが欲しくて、近くの農場で働きたいと思っても、誰も仕事をくれませんでした。とても真面目で、やる気もあったのに。周囲の人たちは、私たちを怖がっていました。

1968年の2月、恐ろしいことが怒りました。病院の近くに住む人たちの恐れが頂点に達し、病院を襲ったのです。火をつけ、そして住んでいた私たちを追い払いました。300人以上の人が、一夜にして住むところを失いました。

家族のもとや故郷に戻ろうとした人も多くいました。私は家族のもとに戻りました。しかし故郷では、近所の人も親せきも誰も私に近寄ろうとしないのです。私が近寄ると、口元を覆った人もいます。つばを吐きかけてきた人もいました。

結局、母がこんな状態から助けてくれました。また私を家に閉じ込めたのです。今回は長いこと続きました。10カ月間です。それでも私はこう思うのです。きっとこの病院にいた人の多くよりは、私のほうがましだったんだろう、と。病院を追い払われた私たち、総勢300人以上はなんらかの差別を体験しています。しかし何人かの仲間にとって、この体験はあまりにもつらいものでした。自殺した仲間もいます。しばらくして私たちはまた潭山医院に戻りました。近くの人たちの襲撃を恐れた政府は、病院に戻る私たちに軍隊の護衛をつけました。

1975年に医者に治ったと言われました。本当にうれしかったですよ。もうハンセン病じゃないんだ!母に手紙を書きました。「お母さん、病気が治りました。もう感染しません。普通の人のように、社会で暮らすことができます」と。

母は信じてくれませんでした。今でも信じていません。今日でさえ、母はハンセン病は治らない病気だと信じているのです。今日でさえ、母は、ハンセン病は何か悪いことをした人がかかる病気だと信じているのです。だから私は病院に残ることにしました。

もう、ここに41年間住んでいます。この41年間の間に私が故郷を訪れたのは、たったの2回。死んでしまいたいと思ったことは数知れません。私はもう患者ではない。ほかの人に病気をうつしたりしない。それなのに、まだ私は普通の社会で、普通の生活に戻ることができないんです。家族のもとに帰ることさえできないのです。

一度、家まで歩いて帰ったことがあります。療養所には食べるものがなかったので、何か食べさせてもらおうと思って。故郷まで一晩かかりました。明け方ようやく村に着き、家の玄関をノックすると、母が出てきました。

あの顔が忘れられません。母は血相を変えてこう言いました。

「おまえ、何をしに来たんだい?ここにはおまえのいる場所も、おまえに食べさせるものもないんだ。さあ、とっとと療養所に帰るんだよ」。

それから故郷に戻ったことはありません。

3000年もの歴史を持つこのハンセン病という病気が、人々の心に残している恐怖や偏見は、そう簡単にはなくなりません。しかし、私たちがどんなに社会に人間として認めてもらいたいと願っていることか、お分かりですか?私たちだって普通の生活を送っていいはずではないですか。この願いを現実のものとするため、私たちは頭を高くかかげ、声を上げなくてはなりません。この病気についての正しい知識を伝え、私たちの奪われてきていた権利を主張しようではないですか。

HANDAが誕生したことによって、長い間、孤独の暗闇の中に暮らしていた私たちは、ようやく希望の光を見いだすことができました。政府、ハンダ、そして多くの人たちの尽力のおかげで、私たちの生活や状況も改善されてきました。ハンセン病に対する偏見のない世界への道のりは、まだまだ長く険しいものです。しかし今、私たちはこの目標に向かって、着実に歩みを進めていることを感じています。

必ず明るい未来が近いうちに訪れるでしょう。皆さんと一緒ならば、自分たちに自信と誇りを持って歩くことができます。さあ、私たちと一緒に、ハンセン病に対する偏見のない世界を築こうではないですか。

※HANDA:中国広東省のハンセン病回復者団体 HANDA(Guangdong HANDA Rehabilitation and Welfare Association:広東省漢達康福協会)

 

馮可騰(フェン・ケーテン)

中国広東省生まれ。少年時にハンセン病と診断され、以来、人生の大半を療養所・定着村に暮らす。1997年中国南部のハンセン病回復者団体HANDAの活動に加わり、現在は同団体の理事長を務める。