アレム・ジェレタ(エチオピア)

OLYMPUS DIGITAL CAMERA私の名前はアレム・ジェレタ。1981年生まれの28歳です。結婚して子どもが3人います。夫の名前はムルジェタ・アスファウ。夫も私もハンセン病の回復者です。

最初にハンセン病の症状に気がついたのは1993年のことでした。母は伝統的な薬を使うように言いましたが、治りませんでした。1年もこの伝統的な治療を続けましたが治らなかったので、住んでいる村の保健所に行かされました。保健所ではボル・メダというハンセン病の病院に行くように言われたので、ボル・メダに出掛け、そこで3カ月間治療を受けました。その後は村の保健所で治療を継続するようにと、村に戻されたのです。それから2年間継続して治療を受け、治りました。

病気が治ると、家族は結婚を口にするようになり、1996年に15歳で結婚しました。すぐに最初の子どもができました。ところが最初の子どもが生まれてすぐに、らい反応が出てしまったのです。ボヌ・メダにすぐに戻り、入院して3カ月間の治療を受けました。でも治療が終わっても村には戻りませんでした。ハンセン病の治療を受けていたことが明白ですし、それが分かってしまえば私の居場所はもうないからです。夫と子どもと別れ、私はデセという町に残り、治療を一緒に受けていた女の人と一緒に暮らすことにしました。デセのケシャ・セファーという地域にある、ぼろぼろのビニール袋で作られた掘っ立て小屋に住んでいました。

生計をたてるため、穀物の貯蔵庫で、ゴミを穀類からより分ける仕事をしていました。1日の稼はだいたい7ブル(約45円)。どうにかこうにかその日を過ごしているそんな時、現在の夫ムルジェタ・アスファウに出会ったのです。彼も同じ病気にかかったことがあります。出会って間もなく結婚しました。それから何カ月かして彼の両親が暮らしているデガガという村に引っ越しました。病気のため夫の足には感覚がありませんが、そのためにけがをすることがよくありました。そのけががひどい潰瘍となったのです。この潰瘍を見ると、仲のよかった友人も、親せきも、隣人も私たちをひどく差別をするようになりました。もうこれ以上ここで暮らすことはできないと思った私たちは、再びデセに戻り、ケシャ・セファーのビニール袋を屋根や壁代わりに巻きつけてあるぼろぼろの小屋に10ブルの家賃を払って暮らすことになりました。

デセで暮らすようになり、また私は穀物の貯蔵庫で同じ仕事を始めました。お給料は前と一緒。でも、細かいちりやゴミがもうもうとする中で長時間働き続けることが健康によいはずがなく、病気になってしまいました。これを見た隣人が、もっといい仕事があると教えてくれました。

この隣人に連れられていったのが聖ジョージ教会でした。その日はちょうど大切な1年に1度の宗教行事が行われる日で、エチオピア正教の信者がデセのありとあらゆる地域から、この教会に来ていました。彼女の言う「もっといい仕事」とは、物ごいだったのです。彼女は物ごいにいいスポットを見つけると、地面に座り、自分の前に布を広げて、前を歩く人たちに手を差し伸べて施しをもらうように言うのです。物ごいなんてできないと、その場から逃げ出しました。けれどしばらくたってから、物ごいをしていたこの隣人の横に座りました。

だんだんと教会に人が集まり始めました。教会に続く道に列をなして座っている物ごいに、パンとテラ(社会行事で使われる伝統的な飲み物)を配る人たちも増えてきました。もう長いこと何も食べていなかった私は、目の前に置かれた食べ物を見るや、何も考えずにすぐに口に入れました。しばらくして家に帰りましたが、自分が物ごいをし、施してもらった食べ物を食べたという事実は耐えがたく、こんな人生を送らなければならないのは自分の責任であると思い始めました。そのうち、自分に残された道は、自殺しかないと思うようになったのです。

ところが死のうと思ったその日、知り合いが、自分の家族のためにインジェラ(エチオピア主食の発酵パン)を焼いてくれないかと声をかけてくれたのです。これに救われました。その後、同じ家族が私を手伝いとして雇ってくれました。1カ月の給料は60ブル(約400円)。しかし残念なことに、それから間もなく、足の裏にできた問題がもとで、仕事を辞めざるを得ませんでした。この家族は、私が仕事を辞める時に60ブルをくれました。

仕事を辞めた次の日、買い物をしに市場に行きました。そこで灯油、砂糖、塩やコーヒーなんかこまごましたものを売っている女性を目にしました。この女性を見ているうちに、これなら私にもできるのではと思いついたのです。翌朝、市場に行って、持っているお金で砂糖、塩、たきぎを買いました。家に戻ってからそれを並べ、物を売っているという張り紙をしました。ビジネスの開始です。

店の物はよく売れました。商品がどんどんと売れていくので、久しぶりに本当にうれしい思いでしたよ。夫が戻ってきたので、店番をしておいてくれるように頼み、また市場に出掛け、その日の朝に店に来た人が頼んだ物を買いました。その日が終わってみると、その日私が買ってきたものはひとつ残らず売れていました。自分も何かをやれる、自分で何かをやれるというのは、なんという喜びでしょう。自信が出てきました。

店を開いて数か月がたったころ、市役所は町のホームレス一掃を図りました。不法な小屋に住んでいた私たちも、ホームレスとともに町はずれに定住させられることになりました。当然のこと土地は限られていますので、私は小さな土地を手に入れるように、必死になりました。そのおかげで、幹線道路に近い小さな土地を手に入れることができたのです。道路に近くなければ、お客さんは来なくなります。いい場所だったので、襲われたりしたんですよ。何度か土地を取られそうになりましたが、どうにか守って、ここにビニール袋でおおった簡単な小屋を建てました。

ある日隣人が、ハンセン病回復者のENAPALという団体があるので、この団体の会員になったらどうかと薦めてくれたのです。なんのための団体なのか聞いてみると、回復者とその家族の権利を訴え、尊厳ある人生を送るための団体だということでした。これまでハンセン病のためにひどい差別を受けてきましたので、すぐに会員になりました。

店は順調にいっていましたが、十分なお金がなかったので、どうしても店を大きくすることができませんでした。店を大きくするために、実家からいくらかの融資を頼もうと思いましたが、これまでハンセン病を理由にどれだけの仕打ちを受けたか思い出し、結局、借りに行きませんでした。もう店を大きくすることはできないだろうと思っていた時、ENAPALの会員が教えてくれたのです。何か担保があれば、ドイツハンセン病団体(GLRA)から融資を受けられるらしいと。すぐに申請し、1,000ブル(約6,600円)の融資を受けました。おかげで望みどおりに店を大きくすることができました。大きくした店も順調で、1,000ブルの融資はすぐに返済しました。その後、笹川記念保健協力財団の支援でデセ支部が行っている融資プロジェクトに申し込み、新たに1,000ブルの融資を受けました。2回目融資プロジェクトのいいところは、融資を受けた人が返済した返済額はデセ支部の他の会員が同様の融資を受けるために使われるので、自分が返済したものが他の会員の役に立つということ。そして、これはハビタット・フォー・ヒューマニティーという団体の低所得者を対象とした安全な家プロジェクトともつながっており、仕事を始めることによって定収入を得た人たちが、安全な家を手に入れる可能性も手に入れられるということです。もちろん融資さえ受けられればすぐに仕事も家も手に入るというのではありません。長期的に考えなければいけませんが、希望があるということは素晴らしいことです。

神とENAPALのデセ支部、エチオピア政府とさまざまなNGOのおかげで、私はハビタットのプロジェクトによる立派な家を手に入れることができました。これまでまともな屋根も壁もなく、簡単な骨組みの上にビニール袋を何枚も張り付けただけの掘っ立て小屋にいわば不法占拠で住んでいた私が、こんなに何部屋もあって、合法で、立派な家に住める日が来るなんて、この喜びは言葉では表現できません。

それだけではありません。今ではきちんとした洋服を着て、ちゃんとした靴を履き、他の女の人と同じようにバッグを持ってどこにも行きます。そう、胸を張って外を歩けるようになったんです。子どもたちを学校に行かせることもできるようになりました。夫は物ごいをしていましたが、新しい家に引っ越してから、物ごいは止めるようにお願いしました。店の売り上げで夫にロバを買いました。ロバは水をくみに行ったり、建築資材を運んだりすることができるので、いい収入になるんですよ。店が順調に行くようだったら、ロバをもう1頭買おうと思っています。そうすれば、収入が増えますから。

そうそう、もう少し店を拡張して、夫の商売のほうもうまくいくようになったら、勉強をしたいと思ってるんです。教育を受ければ、自分と家族の生活をもっとよくすることができると思うんですよ。

出典:The Truth(ENAPALの機関誌)、No.11, February 2010号
引用に際しては、本人の許可を得ています。