アンジャン・デイ(インド)

オリッサ州出身のベンガル人です。両親には6人の子どもがいましたが、息子は私だけで、家族からの愛を一身に受けて育ちました。勉強も運動もどちらも優秀な成績を残しましたよ。運動では特にバレーボールとクリケットが得意でした。演技をすることも好きで、クタックテレビセンターでは、優秀な役者と認められていました。当然のことながら、両親は私に多くを期待しましたし、私もその期待に背かないように頑張りました。高校を卒業した後は、工科大学に入学しました。私の夢は、インドでトップクラスのエンジニアになることでした。

このころ、母は、私がまったく気がつかないうちに、右手に傷を作ったりやけどをしたりするのに気がつきました。そこで母に連れられて地元の病院に行きました。ハンセン病の疑いがあることを告げた医師は、それ以上は私に触ろうともせず、治療も受けられませんでした。母と私は、ハンセン病という宣告に頭を撃たれた思いで、口をきくことさえできませんでした。

これを現実のものと受け止めると、過去のいくつかのできごとが私の目の前によみがえりました。ハンセン病の物ごいが家の近くに来ると、母が施しをやってくるように、でも触らないように気をつけることと言ったこと。祖母と一緒に寺院に出掛けると、階段にハンセン病の症状のある人がずらりと並んでいたこと。そして祖母がその人たちに近寄らないようにと私を引っ張ったこと。

このような将来が私を待ち受けていると考えると、心が締め付けられる思いでした。

希望を失い、なぜ自分なんだと問い続けました。その後に頭をよぎったのは、このような人生、生きていく価値があるのか、という問いでした。施しを受けるために寺院につながる階段に座り込んでいる自分の姿は、どうやっても想像できません。死んだほうがいいんじゃないか、死ぬしかないんじゃないかと悩みました。

差別も受けるようになりました。それもまったく予期しないところから。私の町の医者が、治療どころか、私に触れることさえ拒否するのです。治療を受けられなかったため、私の手には徐々に障がいが出てきました。

そのころまでには親せき、友人、近所の人たちも私の病気のことを知るようになっていました。ある人はあからさまに、ある人は分からないようにしながら、私と一定の距離を保つようになりました。両親の顔に浮かぶ悲しみに、胸が張り裂けそうでした。1人息子の私の病気によって、両親の世界も一緒に大きな音をたてて崩れていったのです。夢も一瞬のうちに失いました。でも悪夢はまだ続きます。姉の1人は結婚式を控えていましたが、私の病気が明らかになると、新郎の家族から結婚の中止が申し渡されたのです。

もう明白でした。このままいけば、何も悪いことはしていないのに、私の家族まで差別され、社会から追放されてしまう。それを防ぐためには、私が家を出るしかなかったのです。ある日、家族の誰にも告げることなく、私は町を出ました。

厳しい現実が待ち受けているのは分かっていました。そして私は一人で闘い続けなければならないのだということも。しかし同時に運命に負けてしまうのではなく、闘い続けることに決めていました。

ボンベイ(現ムンバイ)に到着した私は、この病気は治る病気だということを知りました。マハラシュトラ州のサトラ地区にある病院で治療を受けられることを耳にしたので、すぐにここに行くことにしました。ところがここの医者は、牛小屋に7日間も私を閉じ込めたのです。一度も私に触れることもなく、食べ物は足もとに投げつけられました。ここでは治療は受けられないと、去ることにしました。

でも希望はまだあると思っていました。プーネに行くと、今度はコンドゥワのバンドーワラ博士ハンセン病病院を訪れました。医師が私に触れてくれたのは、この病院が初めてでした。

この病院で治療を受けることにしました。同時に生活費のために床の掃除もしました。ゆっくりと、でも着実に病気は治っていきました。しかし誇りと尊厳を取り戻し、夢見た人生を生きるのだという欲求が、体の中で渦巻いていました。まだ人生は先が長い、ひとつの病気にかかったからと言ってすべてを投げ出す必要はない、と常に言い聞かせていました。

病院に滞在する間に、理学療法に関心を持つようになりました。勉強をし、資格を取って、まっとうな仕事に就きたいという気持ちを病院に伝えると、メータ先生がベロールにあるキリスト教医科大学を薦めてくれました。面接の後、理学療法のコースへの入学が認められました。両親には3カ月ごとに手紙を送り、何も心配することはないと伝えていました。

1980年までには病気はすっかり治っており、理学療法士としての資格も得ました。どこで働くか考える際に最初に頭に浮かんだのは、バンドーワラ博士ハンセン病病院でした。医師が私の障がいのある手に触ってくれたのが、この病院だったからかもしれません。

同じ病院で働いていたウルミラというマハラシュトラ州の女性と結婚しました。ウマと呼んでいます。いえ、彼女はハンセン病にはかかっていませんよ。理学療法士として3年働いた後、オリッサ州にある家に戻りました。

両親は私を見て大喜びしました。親類や友だちも、最初は遠巻きにしていましたが、家まで会いに来てくれるようになりました。そうですね、私が社会の中で自分の居場所を築き上げたからでしょうか。何年も前に家を出た時は、進むべき道も夢も尊厳も何もかも失っていました。でも今は誇りを持って言えます。尊厳も運命もこの手で取り戻したと。

誇りを持って生きているんですよ。当然でしょう?美しい妻と、きれいな顔をした成績もよい健康な2人の子どもに恵まれ、家も車もあるんです。子どもたちは有名な大学で勉強していますよ。これはすべて私が固い決意を持って、必死に働いたことによって手に入れたのです。今日私が持っているものは、すべて私がこの手で築き上げて得たものです。かつて生活費を稼ぐために床掃除をしていた病院で、いまひとつの部を率いていると言う時に感じる、私の誇りを感じてもらえますか?

バンドーワラ博士ハンセン病病院で常勤として働いているかたわら、プーネにある他の病院や診療所でも、非常勤で理学療法士として働いています。厳密には医師ではありませんが、みんな私のことを「アンジャン・デイ医師」と呼んでくれます。非常に誇らしい思いです。

私のキャリアにおけるハイライトのひとつは、イギリスのクイーン・マーガレット大学の足病学科の行った、潰瘍治療の研究プロジェクトで働くことができたことです。私は足底潰瘍における予防ならびに矯正治療と、患者に手と足のケアの衛生教育をしました。現在は足底潰瘍の予防の一環としての靴の治療パッドの使用について、インド政府の厚生省科学技術部の研究プロジェクトに加わっています。

それでも時々考えることがあるんです。この病気にかからなければ、私の人生はどうであったか、病気が分かった時に医師がきちんと治療さえしてくれたら、どんなに違った人生が拓けていたか、と。考えても仕方のないことではありますが、少なくとも5本ではなく10本すべての指が残っていたでしょうね。

病気と、それに伴うものとの闘いの中で分かったことがひとつあります。人は病気を恐れるのではない。恐れるのは障がいなのです。今病気はMDTで治ります。でも後遺障がいは治りません。

社会が進化しているのは事実ですね。ハンセン病についての見方に関して言えば、そう、例えば20年前と比べれば、確かに変わってきています。私はこれまでに多くのものを成し遂げてきました。それでも、今でも私を紹介する時に、同僚がこう言うのを耳にします。「さあ、これがアンジャン・デイさんですよ。素晴らしい理学療法士です。このフィールドではよく知られていてね。彼、ハンセン病の元患者なんですよ」。

この「ハンセン病の元患者」という言葉を聞くと、これまで私が築き上げてきたもの、私が成し遂げたことがすべて無に帰する思いがします。まるで、「ハンセン病元患者」は私から引き離すことのできないアイデンティティーででもあるかのようではないですか。考えてもください。誰かを紹介する時に、「この人は、マラリアの元患者ですよ」とか、「結核の元患者ですよ」とか、「がんの元患者ですよ」なんて言いますか?言わないでしょう。それなのに、なぜハンセン病の元患者は別扱いなんでしょうか。これは私が永遠に理解することができない不思議のひとつです。

社会は学ばなくてはいけません。ハンセン病は病気のひとつなんだって。治療を受け、治ったら、そのまま普通の生活を送らせてあげてください。今でもリハビリセンター(療養所)というのがたくさん残っていますが、これをなくすというのは、ひとつのやり方かもしれませんね。ここにいる回復者たちは、社会復帰できていないからです。ここにいる限り、社会からは隔離されたままです。ハンセン病定着村、ホーム、職業訓練…・。ハンセン病回復者だけの閉ざされたものは、前向きではないように感じます。このようなハンセン病回復者だけの世界は、かえって「ハンセン病元患者」の世界を作り上げているように思えるのです。まとめて集めて、ハンセン病元患者というレッテルを貼って。社会復帰というのは、ハンセン病を体験した人が自分の村、家族のもとに戻り、自分が去ったその時点からの生活を再開することができて、初めて意味があるものだと思います。

出典: Dignity Regained (ICONS Media Publication)
引用に際して許可を得ています。