ナンシー・アヤオ(ガーナ)

私はガーナ中南部イースタン州アクアピアム村の出身です。子沢山が当たり前の時代にひとりっ子として生まれたので、両親や祖母からとてもかわいがられましたね。幼いころに母を亡くしたので、祖母がよく面倒を見てくれました。人一倍甘やかしてもくれましたよ。両親の職業はあまり覚えていないのですけれど、祖母が農作業をしていたのはよく覚えています。芋やキャッサバなんかを作っていました。

6歳になって、ちょうど小学校の入学手続きを済ませて数日たったころ、私の胸のあたりに赤い斑点があるのに家族が気付きました。ハンセン病の兆候が出ていたんですね。でもその時はそれが何を意味するのか誰も分からず、しばらく家で休んで様子を見ましょうということになったんです。ところが症状はよくなるどころか斑点が増えるばかりでした。困った祖母が教会の神父さんに相談して、首都アクラにいらっしゃるジョモ神父という方が、しばらく私の面倒を見てくださるということになりました。

この時はまだ6歳でしたからあまりよく覚えていないのですが、アクアピアム村からジョモ神父のところまではとても遠かったので、家族と離れて生活しなくてはなりませんでした。家族が恋しくてよく泣いていたように記憶しています。祖母も私のことをとても心配して、何度か会いに来てくれました。今から70年近く前のことですから、交通事情もよくないはずですし、高齢の女性の一人旅ということで、大変な思いをして会いに来てくれたのだと思います。いつも1、2週間滞在して村に帰っていくのですけれど、そのたびに2人でおいおい泣いて別れを惜しんでいました。ジョモ神父のところには、私のほかにも12人くらいの方が生活していました。当時の私はよく理解していなかったのですが、ジョモ神父はハンセン病患者のための療養所を持っていらっしゃって、私はそこに入ったのです。周りはみな大人ばかりで、私と同じくらいの年代の子どもなんていませんでしたから、寂しかったですよ。でも、みんなとても優しくしてくれました。特に、私と同じ部屋で生活していた女性はとても優しく、いろいろと面倒を見てもらいましたね。療養所では、食事や衣類などを支給されていましたが、途中から外国人のお医者様が来るようになり、薬を処方されていたような気がします。このころのことはあまり細かく覚えていないのですが、家族と離れて暮らすのがつらかったということだけははっきりと記憶に残っています。

ジョモ神父のところには、7年ほどいました。その後、なんらかの理由でそこから出なくてはならなくなったので、故郷のアクアピアムに帰りました。でも、村で農業や料理をするうちに手足に重い障がいを抱えるようになってしまい、よい病院がアクラにあるとうわさで聞いたので程なくアクラに戻ることを決意しました。以来、60年近くアクラのウェイジャ療養所に住んでいます。夫と出会ったのもウェイジャに移ってからです。彼も療養所の住民でした。ウェイジャ療養所はキリスト教会の支援で設立されたので、施設内に教会があるんです。そこで結婚したんですよ。結婚式には、私の家族も駆けつけてくれました。式の後、アクラ市内の彼の実家にあいさつに行って、晴れて正式な夫婦となったわけです。

その後は夫婦で農業を営み、キャッサバなどを療養所周辺の市場に売って6人の子どもを育てました。私の作った野菜を忌み嫌う人なんかいませんでしたよ。足が悪くなる数年前まで現役でした。

私の人生を振り返ってみると、大変なこともたくさんありましたけれど、とても幸せだったと思います。夫は数年前に亡くなりましたが、6人の子どもは全員アクラで就職して、中には公務員になった子もいるんですよ。孫は30人、ひ孫は8人います。子どもたちは毎週末私を訪ねてきてくれますし、今は孫とひ孫が私の世話をするために療養所に住み込んでくれています。足が悪いので以前のようにいろんなところにいけないのが残念ですけれど、座りながらでも店番くらいはできますからね。食べるものもあって、子どもや孫たちにも恵まれて。とても幸せな人生だと思っています。

2010年の本人のインタビューより。掲載に際して本人の許可を得ています。