蒋太雲(中国)

『苦難の経歴をも平淡に帰す』

SONY DSC蒋太雲、広西省桂林平山ハンセン病快復村の村人。乱世に生き、6歳で父母を亡くし、困難に遭いながらも一人で動乱に満ちた人生や未来への憧憬と向かい合ってきた。彼はこれまでも、そしてこれからも、力強く、淡々と生きていく。

不穏な少年時代

過去のことを話す時、蒋太雲の顔は暗く重い表情になる。
「3歳の時母が死に、6歳の時に父が死んだ。それからは叔父の家に身を寄せた」
叔父は大量にタバコを吸い、退廃的で、家を顧みず、常々子どもたちに対して悪態をつき、暴力を振るった。
「家は貧しく、靴を作る端切れすらなかった。毎年、毎年、1年中、風雨の中、はだしで仕事をした。牛の放牧、まき割り、脱穀…。7、8歳の子どもを大人と同じように働かされた」。
難しい時代に生まれ、他人の元に身を寄せ、自分の道も自分で決めることができない。
1944年、侵華戦争(日中戦争)の最中、日本軍が西南地方に攻め寄せ、桂林が陥落した。国は破れ、家は滅び、蒋太雲は再び不穏な生活を送ることになった。この時、日本軍は戦争物資を補給するため、占領した地区の人々を奴隷労働に就かせ、無垢の百姓に生産労働を行わせ、農民労働の成果を根こそぎ搾取した。蒋太雲は流浪しながら、戦乱中に息子を失った農家に行き着き、そこの仕事を手伝うようになった。そこで彼は日本軍のために兵糧を提供し、故郷を離れた苦しみと亡国の痛みとに黙々と耐え忍んだ。

最も輝かしい青春の2年間

桂林が解放された後、蒋太雲は毅然と入隊し、桂林軍のとある部隊の兵士となった。解放の初期、社会は乱れ、不安定で、盗賊や強盗が町に横行し、山を占拠して支配していた。蒋太雲の所属する部隊は命を危険にさらす重責・桂林地区盗賊掃討を負うことになった。話がここに至ると、蒋太雲は得意になって語る。
「おれたちはあの革命映画『烏龍山盗賊掃討記』にある”東北の虎”と呼ばれる劉玉堂らと同じ部隊にいたんだ」。
彼は大切に、そっと退役証を取り出し、自信に満ちて言う:
「これが当時のおれだ。これが毛主席の肖像…これは朱総司令官…」
彼は往年のできごとを語る時には特別に興奮する。変形した手は盛んに動き、止まることなく宙を舞い、昔の話を私たちに聴かせてくれる。
「おれが入隊したのは昇進して富を築くためでも、私腹を肥やすためではない。大衆の労苦を解放し、人民を災いから救うことだ」。

苦難の日々を越えて平淡へ

2年間の兵役の後、身体がおかしいので、蒋太雲は退役し、故郷に戻り、地元政府の組織する民兵訓練に参加した。この期間、彼は独学で読み書きを覚えることに没頭し、4大名著を読破した。ここまで語ると、彼は『紅楼夢』にある詩を暗唱する、
「秋花惨淡秋草黄、耿耿秋灯秋夜長、已覚秋窗秋不尽、那堪風雨助凄凉」
(秋の草花は枯れて黄色い。灯火のともる秋の夜は長い。窓から見る秋は終わる気配もない。外に降る雨は寂しさを助長する)。
彼は少しうれしそうに語る、
「4大名著の中ではやっぱり『紅楼夢』が最高だ」
しかし、よい時は長くは続かなかった。彼の身体の調子が次第に悪くなり始めた。その後、最も厳しい差別を受けるハンセン病にかかっていると診断されてしまった。人々は当時、ハンセン病患者が公共の場で生活することを絶対に許さなかった。流浪し、物ごいする資格すらなかった。この、抱負をいっぱいに持った青年にしてみれば、青天の霹靂のような打撃だった。蒋太雲の言葉を借りるなら、
「当時は絶望そのものだった。死んだようなものだった」
世間の冷笑と謗りに遭い、社会の差別と排斥に遭い、蒋太雲は身も心も疲れ果て、少しの希望もなかった。
「死にたいと思ったんですか」
「もちろんだ。生きることは死ぬことより難しい」
「どんな力支えられて今まで生きてこられたのですか」
「信念だ。政府が私たちを放棄することはないと信じていた」
政府の支持と医師の助けの下、蒋太雲は平山ハンセン病医院にゆき、治療を受けた。こうして蒋太雲はこの時から社会と隔絶されたハンセン病村での生活を送っている。
しかし村での生活は孤独で助けがなく、多くの村人たちは深い絶望を味わうことになる。世間の人々の差別、病気の苦しみ、身体の障がい。生活は太陽の出ない暗闇のようだった。蒋太雲は、これらの運命を共にする村人たちを助けることもできず、彼らが一歩一歩絶望の深みに向かって歩いていくのを見ているしかなかった。あの時の見るに堪えない場面を語るたび、堅強な彼は目を潤ませる。

年月は巡っていく。歳月はこの不屈の人を見捨てることはなかった。1984年、肖友儀がこの辺ぴな村にやってきた。当時彼女は後遺症がとても重く、身体に障がいを持ち、不自由な生活を送っていたが、蒋太雲の心のこもった世話を受けるようになった。日がたつにつれ、愛情が芽生え、意気投合し、互いに思いやりながら2人で暮らすようになった。今日に至るまで2人は寄り添っている。蒋太雲は1987年、平山村の治安副隊長となり、村の安全を守っている。

出典:「歳月―讲述我们的故事」(中国の回復者のライフストーリー集)
引用に際して本人の許可を得ています。