[活動レポート ― ハンセン病]
第2回「ハンセン病問題を語り継ぐもの」

2015年10月に熊本、福岡、香川、兵庫にて、第2回「ハンセン病問題を語り継ぐもの」シンポジウムを開催しました。子どもを生むことはできても育てることが許されなかったマレーシアと、子どもを生むことが許されなかった日本。いずれもハンセン病問題を語り継ぐ「家族」は限られています。親を探す過程での悩みと新たな出会い。語り始めたマレーシアと日本の家族の言葉は、会場の皆さんの心に確実に届きました。
引き離された親子 ― マレーシア
マレーシアでは、1920 年代半ばよりハンセン病患者の隔離が進められていきました。1930 年代には、ハンセン病の感染から守るため、入所者のもとに生まれた子どもは、生後まもなく両親から引き離されるようになります。入所者は親戚、友人、施設など、子どもを預ける先を探しますが、引き取り手が見つからず、施設に預ける金銭的な余裕がない場合には、子どもは国内外に養子に出されました。それから数十年がたった今日、高齢化が進んだ入所者は、「死ぬ前に一目でいいから、養子に出した子どもに会いたい」という強い希望を持っています。当財団は2013年度に親子の絆を取り戻す活動の支援を開始しました。これまで、再会を果たした親子もいれば、入所者である親はすでに死去しており、実際に会うことはかなわなかったものの、親や自分のルーツを取り戻すことができた第2世代も出てきました。
語り始めた家族たち
生むことは許されても育てることは許されなかったマレーシアと、生むことが許されなかった日本。マレーシアでも日本でも、ハンセン病問題を当事者として語り、そして第2世代として語り継ぐ家族は、ごく少数です。家族の多くは、現在でも、身内にハンセン病にかかった人がいたことを、ひた隠しに生きています。療養所退所者の中 修一さんは言います。「私はどうしても外で生きたかった。療養所の中ではなく、外で生きたかった。だから退所しました。退所してからは、自分の病気のことは隠さずに生きてきた。社会の人はね、思ったよりもハンセン病に対する偏見や差別は持っていない、というのが実感です。でも、一番強い差別はどこから来るか知っていますか?それは家族です。一番の支援者であるべき家族からの拒絶が、最後まで残ります。それはなぜか。家族も被害者なんです。私たちは病気になって、療養所で暮らさざるを得なかった。でも社会に残った家族は、当時のとてつもない偏見や差別の中で、生きていかなくてはならなかった。その記憶が染みついているから、らい予防法が廃止になっても、国賠訴訟で勝訴しても、帰ってくるな、と言うんです。私の家族は私を受け入れてくれました。でも、病気にかかった私たちの多くは、家族に、『なぜなんだ、受け入れてくれ』と強く言えません。私たちの病気のせいで、家族がどれほどの苦しみを受けたかを知っているからです」自分の親や家族にハンセン病にかかった人がいることを隠して生きる家族が多い中、「私たちは胸を張って生きていくべきだし、生きていけるべきだ。まず、語ることから始めよう」と、語り始めた人たちもいます。
スンゲイブローの姉妹
今回来日したのは、マレーシアのスンゲイブロー療養所の入所者の子どもの姉妹です。姉であるヌルル・アイン・ヤップさんはマレーシアで、妹のエスター・ハーヴェイさんはニュージーランドで暮らしています。2人の姉妹が生まれて初めて会ったのは、来日の1週間前のことでした。

菊池恵楓園自治会副会長 太田 明氏と共に。 エスター・ハーヴェイ氏(中央)、ヌルル・アイン・ヤップ氏(右)

菊池恵楓園自治会副会長 太田 明氏と共に。 エスター・ハーヴェイ氏(中央)、ヌルル・アイン・ヤップ氏(右)

エスターさんが親探しを始めたのは、今から9 年前のこと。エスターさんは、幼いころから自分が養子であることを知っていました。しかし養父母はあふれるばかりの愛情を持って育ててくれ、大変に幸せな人生を送ってきました。子育ても一段落し、自分の実の親について知りたいと思ったのがきっかけでした。プラウジェレジャクという島で生まれたことを知ったエスターさんは、インターネットで世界中の情報が手に入るようになったことで、ようやく自分のルーツをたどり始めたのです。長い年月と多くの人との出会いを経て、エスターさんが知ったのは、残念ながら両親ともすでに亡くなっていたということでした。しかしマレーシアやオーストラリアに叔父やいとこが見つかり、その親戚を通して、自分には姉がいたはずだと知ります。その姉が誰なのか分かったのは、今年の3月のことです。姉のヌルル・アイン・ヤップさんは、マレーシアの夫婦のもとに養子に出されました。養母は、ヌルルさんの実の親はプラウジェレジャクという島で暮らしていたということ以外は語らないまま他界しました。自分には血のつながった家族はいないと思っていたヌルルさんにとって、実の妹が自分を探しているというニュースは、非常な驚きでした。しかも実の親はハンセン病の患者で、自分が育ったペナンの近くのプラウジェレジャクで暮らしていたこと、その後、いま自分が暮らしているクアラルンプールの近くのスンゲイブロー療養所に移って、そこで亡くなったことを聞いたのです。今までの穏やかな生活が一転するような話でした。子どもたちのためにも、聞かなかったことにしようかとも思ったそうです。しかし、妹が何年も親を探し続け、親の手掛かりを探すために、ニュージーランドからマレーシアに足を運んだこと、そして、実の親のことを聞くにつれ、なかったことにはできない、自分も勇気を持って、ルーツに向き合わなければならないと思ったそうです。実父は園内で多くの作業をして、わずかの作業賃を貯め、自分の弟にそのお金を託したそうです。エスターさんが初めてオーストラリアの親戚と会った時に、叔父は「『いつか私の娘が見つかったら、渡してくれないか』と言われたんだ。何十年もたってようやく出会えてよかった」と言って、古いコインをいくつも渡してくれたそうです。「私たちのことをこんなにも想ってくれていた親に会うことができなかったことは、悔やんでも悔やみきれない。でも、親を探すという旅を始め、存在していることも知らなかった姉に出会い、新しい家族ができた。何十年の時を経て結ばれた家族の絆を失ってはいけない。そして病気のために社会から強制的に隔離され、家族から引き離されて暮らさなくてはならなかった私たちの親をはじめとする、多くの人の人生をなかったことにしないためにも、私たちが語り、語り継いでいかなくてはならない」とエスターさんは語ります。
ハンセン病問題を語り継ぐもの
熊本、福岡、香川、兵庫の4 都市では、姉妹と共に、50 代から90 代までの5人の日本の当事者と家族がお話しくださいました。心痛、苦悩、そしてそれを乗り越えようとする人間の力。国や言葉や文化の差を超え、共通するものも多くありました。ハンセン病問題、そして人間について考える機会になりました。
熊本城前にて

熊本城前にて