[活動レポート ― ハンセン病]
インドネシア 州レベル制圧活動促進 ~WHOハンセン病制圧大使のゴロンタロ州訪問~

笹川会長が誰と一緒にいるか、わかりますか?

ここは、インドネシアのスラウェシ島北部・ゴロンタロ州の空港です。ゴロンタロの民族衣装に身を包んだ男女の青年が、州知事書記官や州保健局長等とともに、歓迎してくれました。

1_ゴロンタロ空港にて

ゴロンタロの風景

ゴロンタロの風景

インドネシアの状況 - 未制圧州(赤)

インドネシアの状況 – 未制圧州(赤)

州レベル制圧達成ロードマップ(保健省作成、2014年時点)

州レベル制圧達成ロードマップ(保健省作成、2014年時点)

インドネシアは、インド、ブラジルに次ぎ、世界で3番目に患者が多い国で、年間17,000人ほどの方が病気を発症しています。「人口1万人あたり登録患者数1人未満」という病気の制圧基準を、2000年に国レベルで達成しているものの、州レベルでは全34州のうち、未だ12州が未制圧です。政府は、2020年までに全州での制圧達成を目標に掲げました。笹川会長は、WHOハンセン病制圧大使として、この政府の目標達成への試みを支援すべく、2016年末、全未制圧12州を訪問することを保健大臣に約しました。本年7月、北マルク州、北スラウェシ州を訪問し、先月11月には、ゴロンタロ州を訪問しました。

2_リンボト第12小学校での検診活動を視察激励 (※体育の授業前、体操着に着替える際に、学校の先生が体に斑紋がないかチェックしている)


リンボト第12小学校での検診活動を視察激励
(※体育の授業前、体操着に着替える際に、学校の先生が体に斑紋がないかチェックしている)

 

ゴロンタロ州は、未制圧12州のうち、明年2018年に制圧達成を目標とする3州の1つで、政府戦略の中で非常に優先順位の高い州です。年間の新規患者数は200人ほどですが、人口1万人あたりの患者数は2.29を示し、未だ1.0未満という制圧基準の達成は厳しい状況にあります。そこで、WHO、保健省と協働し、同州のハンセン病対策活動の一層の推進を念願して、蔓延地における患者発見活動を視察し、現場担当官等を激励するとともに、特に制圧達成の課題となっている偏見差別を是正するため、病気の正しい知識を伝えるための啓発活動に参加し、一般市民の理解の促進に努めました。

(※ハンセン病という病気と社会からの差別の双方への怖れから、初期症状に気が付いても病院へ行かず、診断が遅れるケースが多い。)

3_ジャカルタ州知事との会見(左から、笹川会長、PerMaTa代表Paulus Manek氏、副代表Al Kadri氏、アニス州知事、ジャカルタ州保健局長)

ジャカルタ州知事との会見
(左から、笹川会長、PerMaTa代表Paulus Manek氏、副代表Al Kadri氏、アニス州知事、ジャカルタ州保健局長)

 

出国前には、ジャカルタにて、ジャカルタ州知事アニス・バスウェダン氏、副大統領ユフス・カラ氏と会見し、回復者組織PerMaTaの代表を紹介しつつ、政府レベルでの病気への理解と、当事者と連携したサービスの重要性、ハンセン病対策活動への一層の支持を訴えました。

 

 

 

これから、残る9つの未制圧州訪問と、回復者組織PerMaTaによる行政と連携した活動について紹介してゆきます。どうぞご期待ください!

 

[活動レポート ― ハンセン病]
ハンセン病の歴史を人類の遺産に 第5回人類遺産世界会議 ~ハンセン病の歴史を語り継ぐ~ 開催

一般公開日には400 名を超える来場者で会場は満席となり、世界各地の歴史保存の取り組み、語り継ぎの可能性、当事者の想いについて語られました。非公開の日には、ワークショップや療養所訪問と併せ、海外15カ国約40 名の参加者により今後の展開についての議論が交わされました。

世界15カ国(アメリカ合衆国、イタリア、韓国、ギリシャ、コロンビア、スペイン、タイ、中国、日本、ノルウェー、ブラジル、フィリピン、ポルトガル、マレーシア、南アフリカ)からの参加者たちの笑顔

世界15カ国(アメリカ合衆国、イタリア、韓国、ギリシャ、コロンビア、スペイン、タイ、中国、日本、ノルウェー、ブラジル、フィリピン、ポルトガル、マレーシア、南アフリカ)からの参加者たちの笑顔


完全に失われる前に
疾病としてのハンセン病の対策は、近年になり多大な成果を上げました。そのためハンセン病は「過去の病」として見られるようになり、その記憶や記録は急速に失われつつあります。厳しい差別と偏見、科学の発展による疾病制圧、そしてこの病を生き抜いた人々の軌跡により織りなされるハンセン病の歴史は、世のあらゆる偏見と差別の問題に通じます。ハンセン病の歴史を通し、疾病、出自、障がい、宗教などがハンデとならず、誰もが自分らしく生きられる社会を考えることができます。今回の会議では、悲劇の重さを量るためだけではなく、辛さや悲しみを超えた生命の輝きの証としてのハンセン病の歴史を人類の遺産として社会全体で守り、後世に伝えていこうとする世界各国の動きが紹介されました。各国の参加者が、互いの取り組みについて存分に話し合い、そこで学んだことを自分の国における活動に実際にどう生かしていけるのかを考え、同じ目標を持つ国同士がどのように協力し合っていけるのかについて意見を交換しました。
中村医師の講演

中村医師の講演


また、特別講演として、ペシャワール会代表の中村哲医師をお招きし、「ハンセン病からいのちの水へ」と題して、アフガニスタンでハンセン病治療に携わったご経験が、どのように現在の氏のライフワークである井戸掘りにつながっているのかについて話していただきました。
かけがえのない歴史を未来に届けるために
前回の第4回目の会議では、海外20カ国のハンセン病の歴史保存の取り組みと課題についてお互いに知り、保存のために協力し合うことを誓いました。それを受けて今回の会議では、ハンセン病の歴史保存の先にある歴史継承に焦点を当て、後世に確実に語り継ぎ、ハンセン病の歴史が世界の歴史を理解する上で欠かせないものであることを広く認識してもらうためには実際にどうしたらよいのかについて話し合いました。
誓いの署名ボードにサイン

誓いの署名ボードにサイン


参加した海外15カ国のハンセン病の歴史保存に関わる回復者とその家族、行政機関関係者、NGO、歴史研究者たちにとって、今回の会議は、ユネスコ世界遺産、世界の記憶、国家遺産、重要文化財、芸術祭、ツーリズム、都市計画(公園・緑地計画)などの取り組みの実例について学ぶまたとない機会になりました。また、相互交流を通じ、歴史を語り継ごうとする人々が共通の課題について互いから学び合えるパートナーシップを作っていくことで、個々の団体の活動を社会全体の活動にまで広げることができることを改めて認識できた場でもありました。共催である瀬戸内市にはユネスコ世界遺産登録を目指す2つの療養所があり、海外からの参加者たちも市の積極的な取り組みを知って大いに勇気づけられたことでしょう。
歴史を救うために今やらねばらないこと
参加者による話し合いの結果、実際に歴史保存と継承を進める上で、各国が早急に取り組むべき4つの共通課題が明らかになりました。
1. 場所や建物をできる限り残そう(世界遺産登録などにより)
2.残されたモノにもっと語らせよう
3.回復者と第2、第3、第4世代を結びつけよう
4.もっと学術的研究を
「緊急性」という言葉をキーワードとし、これらの課題を前に、まずは各国の現状と目標を見直し、国を超えた地域ネットワークや活動組織づくり、バーチャル博物館やツイッターなどの情報発信ツールの開拓と活用、NGOや歴史保存団体などとの協力関係づくりに取り組んでいくことを誓い合いました。当財団は各国の実際の活動支援を行うとともに、それぞれの課題解決に果たしうる役割を提案していきます。ハンセン病を生き抜いた人々の歴史はもちろんのこと、それらを守り伝えていこうと努力している人々の思いや願いも伝わっていくことで、より多くの人々に今私たちが生きている世界をもう一度見つめなおしてもらうことを強く願っています。

[活動レポート ― ハンセン病]
バチカンで初のハンセン病国際シンポジウム開催

2016 年6月9日~ 10日、バチカン市国において「ハンセン病患者・回復者の尊厳の尊重と総合的なケアに向けて」をテーマにローマ法王庁保健従事者評議会と日本財団主催、笹川記念保健協力財団、善きサマリア人財団、ラウル・フォレロー財団、マルタ騎士団共催にて国際シンポジウムが開催されました。バチカンでのハンセン病関連の国際シンポジウムはこれが初めてで、2015 年12 月から1年間の「いつくしみの特別聖年」の「病者・障碍者のための記念日」に合わせての開催でした。

公開ミサを司宰するフランシスコ法王

公開ミサを司宰するフランシスコ法王


回復者からの証言
シンポジウム第1部では医療・科学の観点、第2部は人権問題の視点、第3部は宗教の観点、第4部はグッド・プラクティスの紹介、そして第5部ではハンセン病回復者の証言という構成となりました。冒頭、WHOハンセン病制圧大使を務める笹川陽平日本財団会長より、ハンセン病が神罰だとの誤った認識が今もって払拭されていない、正しい知識と啓発活動が急務となっていることが指摘されました。各部での発表後の質疑応答では、各国の回復者からの積極的な発言がなされ、問題提起と共に国際会議の雰囲気を盛り上げていました。中でも、回復者の人権問題の視点から発表に立ったアメリカのホセ・ラミレスJr. 氏は、自身が幼い頃にハンセンと診断された時のことを回想し、その時の母親の姿を一生忘れることはできない。我が息子がハンセン病に感染した衝撃、そしてその原因が自分にあるのではないかと自分を責め続けた挙げ句、口にした「これは神の罰なのか」という一言、その辛辣なイメージと記憶を証言として語りました。一方、日本からは、国立療養所 長島愛生園の自治会副会長石田雅男氏が登壇し、10 歳での発症から70年にわたって療養所で過ごしてきた自らの想いと、日本における回復者組織である全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)の人権闘争に触れ、1950 年代前半からハンガーストライキや座り込みなど、過酷な歴史を刻んできた中で、1996年にようやく隔離を根幹とした法律「らい予防法」が廃止されるに至った経緯が語られました。そして「私の人生はハンセン病とともに歩んだ道であり、得難い体験の人生である。決して自ら選んだ道ではないが、与えられた道としてこれからも歩んで行きたい」と結びました。終了後は会場の拍手が鳴りやまず各国の参加者が次々と石田さん夫妻のもとに駆け寄り、握手を求めました。
ホセ・ラミレスJr.氏

ホセ・ラミレスJr.氏


宗教界の役割
6月12日は、フランシスコ法王の主宰のもとサンピエトロ広場に7万人を超える人々が参集し、公開ミサが行われました。法王は「『病者のための聖年』の一環として当地でハンセン病を患った人々のための国際会議が開かれた。感謝の念をもって開催者と参加者を歓迎し、この病気との闘いに実り多き取り組みがなされるよう切望する」と述べられました。本シンポジウムでの「結論と勧告」には、今後ハンセン病の偏見差別解消に向けて宗教界も重要な役割を果たしてゆくべきと明記されています。世界のハンセン病問題解決に向けた新たな一歩となって行くことが期待されます。
笹川陽平日本財団会長を囲んで

笹川陽平日本財団会長を囲んで

[活動レポート ― ハンセン病]
宮崎駿監督が語る「全生園で出会ったこと」

ハンセン病関連のイベントが続けて行われた1月、当財団は、「ハンセン病の歴史を語る―人類遺産世界会議」を開催しました。オープニングでは、世界的に著名なアニメーション映画監督であり、東京都にある国立療養所多磨全生園の人権の森構想を支援している宮崎駿氏に、ハンセン病問題に関する想いを語っていただきました。

「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」 にて講演する宮崎駿監督

「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」 にて講演する宮崎駿監督


おろそかに生きてはいけない
宮崎監督が初めて、ハンセン病に正面から向き合ったのは、いまから20数年前のこと。のちに「もののけ姫」となった作品の構想中に、自宅からほど近い全生園に足を運んだのが、始まりでした。全生園に隣接するハンセン病資料館も訪れ、そこで全国から集められた、療養所の園内通貨や、生活を送る上で使われてきた品々と出会った監督は、大変な苦しみの中で人が生き抜いてきた証に衝撃を受けました。訪れるたびに、「おろそかに生きてはいけない。・・・自分が今ぶつかっている作品をどう作るかということを、真正面からきちんとやらなければいけないと思った」そうです。「もののけ姫」には、ハンセン病を患った人からヒントを得た人たちも登場しましたが、完成した作品を見た全生園自治会会長の佐川修氏や、ハンセン病資料館で佐川氏と共に語り部活動を続ける平沢保治氏をはじめ皆さんは大変に喜ばれたそうです。
人権の森構想
現在、多磨全生園をはじめ、療養所の入所者数は減少しています。各園とも将来構想に基づき、保育所や特別養護老人ホームなど、地域のニーズに合った施設の設置を始め、隔離から地域開放へ、療養所は変わりつつあります。多磨全生園では、1940 年代に緑化運動が、1980 年代にふるさとの森造り計画が始まりました。入所者がいなくなった後に、この地に豊かな緑の地を残したいという思いで始まったものです。2002年には、緑と共に、歴史的建造物や史跡を「人権の森」として残すため、「人権の森構想」が立ち上がりました。この「人権の森構想」のもとを作ったのが、宮崎監督でした。療養所には、使われなくなった建物が残されています。老朽化が進む建物の一つに戦前から残る男子独身寮「山吹舎」がありました。「山吹寮」を残したい、そのために協力する、という宮崎監督の言葉が、「人権の森構想」につながったのです。「全生園の緑と建物を残す『人権の森構想』に協力しているのは、友人が先頭でやっているからです。・・・大きな緑を残したということもいいことだと思いますが、同時に、生きるということの苦しさと、それに負けずに生きてきた人たちの、巨大な記念碑をずっと残しておきたい」という宮崎監督。世界には多くの問題がある。その全てに自分が関わっていくことはできない。だから、皆が少しずつ手分けをしていくしかない。そして、「資料館や人権の森が、人間というのは間違えるものなんだ。絶対間違えないと思って間違えるのが人間なんだ、という教訓になればいいと思う。我が身をかえりみて、謙虚でいなければいけない」と言います。講演後半では、佐川氏と平沢氏も登壇しました。講演活動をめったにされない宮崎監督が、今回の講演を引き受けられた背景には、監督と深い交流を持つ両氏の存在がありました。「負の遺産」としてのみ捉えられることが多いハンセン病の歴史は、両氏をはじめとする、人間の持てる計り知れない力と可能性を示す歴史でもありました。宮崎監督が全生園で出会われた、生きる苦しさに負けずに、内から強い光を放ちながら生きてきた人たちの歴史を、人類の遺産として残し続ける努力はこれからも続きます。
講演後半に全生園の友人である佐川修さん、平沢保治さんと

講演後半に全生園の友人である佐川修さん、平沢保治さんと

[活動レポート ― ハンセン病]
活動レポート

過去の記事は、以下のページでご覧いただけます。
 ハンセン病
 ホスピス緩和ケア
 公衆衛生の向上

[活動レポート ― ハンセン病]
第2回「ハンセン病問題を語り継ぐもの」

2015年10月に熊本、福岡、香川、兵庫にて、第2回「ハンセン病問題を語り継ぐもの」シンポジウムを開催しました。子どもを生むことはできても育てることが許されなかったマレーシアと、子どもを生むことが許されなかった日本。いずれもハンセン病問題を語り継ぐ「家族」は限られています。親を探す過程での悩みと新たな出会い。語り始めたマレーシアと日本の家族の言葉は、会場の皆さんの心に確実に届きました。
引き離された親子 ― マレーシア
マレーシアでは、1920 年代半ばよりハンセン病患者の隔離が進められていきました。1930 年代には、ハンセン病の感染から守るため、入所者のもとに生まれた子どもは、生後まもなく両親から引き離されるようになります。入所者は親戚、友人、施設など、子どもを預ける先を探しますが、引き取り手が見つからず、施設に預ける金銭的な余裕がない場合には、子どもは国内外に養子に出されました。それから数十年がたった今日、高齢化が進んだ入所者は、「死ぬ前に一目でいいから、養子に出した子どもに会いたい」という強い希望を持っています。当財団は2013年度に親子の絆を取り戻す活動の支援を開始しました。これまで、再会を果たした親子もいれば、入所者である親はすでに死去しており、実際に会うことはかなわなかったものの、親や自分のルーツを取り戻すことができた第2世代も出てきました。
語り始めた家族たち
生むことは許されても育てることは許されなかったマレーシアと、生むことが許されなかった日本。マレーシアでも日本でも、ハンセン病問題を当事者として語り、そして第2世代として語り継ぐ家族は、ごく少数です。家族の多くは、現在でも、身内にハンセン病にかかった人がいたことを、ひた隠しに生きています。療養所退所者の中 修一さんは言います。「私はどうしても外で生きたかった。療養所の中ではなく、外で生きたかった。だから退所しました。退所してからは、自分の病気のことは隠さずに生きてきた。社会の人はね、思ったよりもハンセン病に対する偏見や差別は持っていない、というのが実感です。でも、一番強い差別はどこから来るか知っていますか?それは家族です。一番の支援者であるべき家族からの拒絶が、最後まで残ります。それはなぜか。家族も被害者なんです。私たちは病気になって、療養所で暮らさざるを得なかった。でも社会に残った家族は、当時のとてつもない偏見や差別の中で、生きていかなくてはならなかった。その記憶が染みついているから、らい予防法が廃止になっても、国賠訴訟で勝訴しても、帰ってくるな、と言うんです。私の家族は私を受け入れてくれました。でも、病気にかかった私たちの多くは、家族に、『なぜなんだ、受け入れてくれ』と強く言えません。私たちの病気のせいで、家族がどれほどの苦しみを受けたかを知っているからです」自分の親や家族にハンセン病にかかった人がいることを隠して生きる家族が多い中、「私たちは胸を張って生きていくべきだし、生きていけるべきだ。まず、語ることから始めよう」と、語り始めた人たちもいます。
スンゲイブローの姉妹
今回来日したのは、マレーシアのスンゲイブロー療養所の入所者の子どもの姉妹です。姉であるヌルル・アイン・ヤップさんはマレーシアで、妹のエスター・ハーヴェイさんはニュージーランドで暮らしています。2人の姉妹が生まれて初めて会ったのは、来日の1週間前のことでした。

菊池恵楓園自治会副会長 太田 明氏と共に。 エスター・ハーヴェイ氏(中央)、ヌルル・アイン・ヤップ氏(右)

菊池恵楓園自治会副会長 太田 明氏と共に。 エスター・ハーヴェイ氏(中央)、ヌルル・アイン・ヤップ氏(右)

エスターさんが親探しを始めたのは、今から9 年前のこと。エスターさんは、幼いころから自分が養子であることを知っていました。しかし養父母はあふれるばかりの愛情を持って育ててくれ、大変に幸せな人生を送ってきました。子育ても一段落し、自分の実の親について知りたいと思ったのがきっかけでした。プラウジェレジャクという島で生まれたことを知ったエスターさんは、インターネットで世界中の情報が手に入るようになったことで、ようやく自分のルーツをたどり始めたのです。長い年月と多くの人との出会いを経て、エスターさんが知ったのは、残念ながら両親ともすでに亡くなっていたということでした。しかしマレーシアやオーストラリアに叔父やいとこが見つかり、その親戚を通して、自分には姉がいたはずだと知ります。その姉が誰なのか分かったのは、今年の3月のことです。姉のヌルル・アイン・ヤップさんは、マレーシアの夫婦のもとに養子に出されました。養母は、ヌルルさんの実の親はプラウジェレジャクという島で暮らしていたということ以外は語らないまま他界しました。自分には血のつながった家族はいないと思っていたヌルルさんにとって、実の妹が自分を探しているというニュースは、非常な驚きでした。しかも実の親はハンセン病の患者で、自分が育ったペナンの近くのプラウジェレジャクで暮らしていたこと、その後、いま自分が暮らしているクアラルンプールの近くのスンゲイブロー療養所に移って、そこで亡くなったことを聞いたのです。今までの穏やかな生活が一転するような話でした。子どもたちのためにも、聞かなかったことにしようかとも思ったそうです。しかし、妹が何年も親を探し続け、親の手掛かりを探すために、ニュージーランドからマレーシアに足を運んだこと、そして、実の親のことを聞くにつれ、なかったことにはできない、自分も勇気を持って、ルーツに向き合わなければならないと思ったそうです。実父は園内で多くの作業をして、わずかの作業賃を貯め、自分の弟にそのお金を託したそうです。エスターさんが初めてオーストラリアの親戚と会った時に、叔父は「『いつか私の娘が見つかったら、渡してくれないか』と言われたんだ。何十年もたってようやく出会えてよかった」と言って、古いコインをいくつも渡してくれたそうです。「私たちのことをこんなにも想ってくれていた親に会うことができなかったことは、悔やんでも悔やみきれない。でも、親を探すという旅を始め、存在していることも知らなかった姉に出会い、新しい家族ができた。何十年の時を経て結ばれた家族の絆を失ってはいけない。そして病気のために社会から強制的に隔離され、家族から引き離されて暮らさなくてはならなかった私たちの親をはじめとする、多くの人の人生をなかったことにしないためにも、私たちが語り、語り継いでいかなくてはならない」とエスターさんは語ります。
ハンセン病問題を語り継ぐもの
熊本、福岡、香川、兵庫の4 都市では、姉妹と共に、50 代から90 代までの5人の日本の当事者と家族がお話しくださいました。心痛、苦悩、そしてそれを乗り越えようとする人間の力。国や言葉や文化の差を超え、共通するものも多くありました。ハンセン病問題、そして人間について考える機会になりました。
熊本城前にて

熊本城前にて

[活動レポート ― ハンセン病]
グローバル・アピール2015

「世界ハンセン病の日」サイドイベント活動レポート
当財団では1月に開催した「グローバル・アピール」(主催:日本財団)に合わせてサイドイベントの企画をしました。テーマは「ハンセン病問題を考えよう」、広く一般に向けての啓発が主な目的です。企画に際しご協力いただいた皆様には、厚くお礼を申し上げます。全国から集まったサイドイベントの模様を、ピックアップしてお伝えいたします。

日本財団笹川陽平会長と並んで学生たちもハンセン病問題を考えました (ハンセン病でつながる若者シンポジウム 於:早稲田大学)

日本財団笹川陽平会長と並んで学生たちもハンセン病問題を考えました (ハンセン病でつながる若者シンポジウム 於:早稲田大学)


サイドイベント実施を振り返って
一般公募で集まったサイドイベント23件は、北は宮城から南は沖縄まで全国各地で開催され、参加者総数は2,500名超に及びました。特筆すべきは、今までほとんどハンセン病と関わることのなかった学生や市民を対象とした企画が多かったことです。今回の一般公募によって、これまでほとんど当財団と接触がなかった人々や地域にアプローチできたことも大きな喜びの一つでした。中には大きく新聞等で取り上げられたものもあり、その波及効果は参加人数の何倍にもなると推測しています。
活動内容は様々で、写真展や講演会・シンポジウム、ハンセン病療養所の見学や、冊子・映像の制作もありました。今回のサイドイベント23件によって、多くの人々にハンセン病を知っていただく機会を提供できたと同時に、当財団も新しいネットワークを築くことができました。ありがとうございました。
宮城学院女子大学リエゾン・アクション・センター(MG- LAC)
宮城学院女子大学は、宮城県仙台市にある約130 年の歴史を持つ大学です。今回のイベントは学生が主体となり、学生に自主活動の機会を提供する窓口であるリエゾン・アクション・センターがサポートする形で行いました。イベントは、当財団理事長喜多悦子を講師とした講演会、日本財団所属のフォトグラファー富永夏子氏の写真を展示した写真展、そして宮城県登米市にある国立療養所東北新生園見学の3部構成で行われました。
講演会では「物事を多角的にとらえる」という切り口で、ハンセン病をめぐる諸問題から世界情勢など、喜多のこれまでの経験談を交えた講演を、学生たちは興味を持って聞いていました。アンケートには「世界に関心を持つということが、人への関心を持つことにつながることが分かった。病気、戦争など世界で起こっていることに関心を持ち続けたい。」というような、学生らしい将来に期待させるようなコメントが多く寄せられました。学生企画責任者である作間温子さんからは、「一連のイベントを通して、ハンセン病に罹患したためにそこに押し込められた人々の気持ちに触れ、人間の尊厳とは何かを考えると同時に、入所者たちの『生きる力』に触れることができたと思います。」とメッセージが寄せられました。
入所者自治会長の久保瑛二さんからお話 を伺いました(於:国立療養所東北新生園)

入所者自治会長の久保瑛二さんからお話 を伺いました(於:国立療養所東北新生園)


片野田斉 写真展 「きみ江さん~ハンセン病を生きて~」(2月7日~16日)
銀座にあるギャラリークオリア・ジャンクションで行われた写真展は、東京都東村山市在住の報道写真家片野田斉さんが、5 年間にわたってハンセン病元患者の山内きみ江さんを追い続けた記録の一つの集大成として企画されました。片野田さんが山内さんと関わったこの5 年間は、山内さんが療養所から「外の世界」に飛び出し「普通の生活」に挑戦してきた5 年間でもあります。療養所で長く生活してきた山内さんにとって、「外の世界」で「普通の生活」を送るということはどういうことなのかも改めて考えさせられる写真展でした。銀座という場所柄様々な方が足を運んでくださり、ハンセン病については「知らなかった」という感想が多かったようですが、中には「昔近所にいたんだ」とぽつりとおっしゃる方もいたそうです。片野田さんは「きみ江さんのハンセン病元患者というだけではない、一人の人間として前向きに生きるパワーの強さに触れることで何かを感じて帰っていく方が多かったように思います。」と、写真展を振り返っていました。
山内さんも会場で来場者とのふれあいを楽しまれていました (於:ギャラリークオリア・ジャンクション)

山内さんも会場で来場者とのふれあいを楽しまれていました (於:ギャラリークオリア・ジャンクション)

山内さんからのメッセージ
「大きなイベントに関わることができて、外国の方からも激励をいただき、たくさん記念撮影もできて、とても嬉しく思います。これをエネルギーに、これからもっと活躍したいです!」
音楽座ミュージカル 朗読ミュージカル「泣かないで」(2月15日)
サイドイベント23件の中で最もユニークな企画の一つとなった、音楽座ミュージカルによる朗読ミュージカル「泣かないで」の上演についてご紹介します。音楽座ミュージカルは東京都町田市に活動拠点を置くミュージカルカンパニーで、もともと音楽座ミュージカルが持つレパートリーに、遠藤周作著「わたしが・棄てた・女」を原作にした「泣かないで」という作品があります。この作品は、戦後間もない東京で女子工員として働いていた主人公ミツのラブストーリー、しかしミツはハンセン病と診断されてしまいます。音楽座ミュージカルでは今回のサイドイベントに合わせて「泣かないで」を大胆に朗読劇に編集し、さらにミュージカル上演と併せてハンセン病に関する解説と参加者によるグループディスカッションも行いました。ミュージカルというエンターテイメントだけでは伝えきれない、ハンセン病を知ってもらうという啓発の機会であるということを、しっかり補う企画となっていました。参加者は地元町田市の子どもたちや市民がほとんどで、演技・歌・ストーリーの素晴らしさに感動している様子が多く見られました。グループディスカッションの最後には劇中歌を全員で合唱し、会場全体が一体感に包まれたイベントとなりました。
キャストの迫真の朗読に引き込まれました (於:音楽座ミュージカル芹ケ谷スタジオ)

キャストの迫真の朗読に引き込まれました (於:音楽座ミュージカル芹ケ谷スタジオ)

[活動レポート ― ハンセン病]
「ハンセン病問題の今後を考える」

「グローバルアピール(2015)~ハンセン病に対するスティグマと差別をなくすために~」が第10回目を迎え東京から発信されたのを機に、その協賛イベントとして、日本各地で企画されたハンセン病に関するイベントへの助成と、ハンセン病問題の今後を考えるリトリート(合宿型の話し合い)、3都市での講演会を開催しました。

グローバルアピール2015と両陛下謁見
日本財団は回復者、宗教者、企業、教育機関などの賛同を得て、2006年より毎年「グローバルアピール~ハンセン病に対するスティグマと差別をなくすために~」を発信しています。10 回目にあたる今年は、初めて日本からの発信となりました。国際看護師協会の賛同を得たグローバルアピール2015は、1月27日に国内外から多くの参加者を得て盛大に発信されました。翌日には、本式典に参加した日本と海外のハンセン病回復者8名が、天皇皇后両陛下の謁見を許されました。「故郷では家族さえも私に触れることを避けたのに、両陛下から親しく話を聞かれ手を握っていただき、感無量です」と感動を口にしていました。

富士山のふもとでの集合写真

富士山のふもとでの集合写真


御殿場リトリート(GOTEMBA RETREAT 2015)
グローバルアピールや両陛下謁見に続き、ブラジル、インド、インドネシアなどのハンセン病回復者を中心とした、11カ国25名と共に、ハンセン病問題の現在と今後を考える会を開催しました。世界の多くの国では、ハンセン病患者数は減少している一方で、今なお新たな患者が発見されている高蔓延地域があります。患者数の減少にともない、国レベルでのハンセン病対策の優先順位が下がる中で、ハンセン病サービスとその質の維持が今ほど問われている時代はありません。11カ国の参加者と共に2泊3日をかけて、2つのテーマについて話し合いました。1つは、ハンセン病回復者自身による、ハンセン病サービスへの積極的な参加について。ハンセン病サービスとその質を維持するために、回復者自身が「自分たちの」サービスに声を上げ、行動を起こし始めています。この動きを進めるために必要なのは何かを協議しました。もう1つは、ハンセン病問題に取り組む新しい「当事者」(担い手)について。日本をはじめとする多くの国では、厳しい差別や隔離の時代を生き抜いた回復者は高齢となり、活動も難しくなってきました。その回復者と共にあり、その声を代弁し、語り継ぎながら、ハンセン病問題に正面から向かい合い、自分の問題として取り組む人たちが現れています。今後は病気を体験した回復者に加え、ハンセン病問題を自分の問題として取り組む人たちも含む「当事者」を増やしていこう、と話し合われました。2つの大きなテーマを語る刺激に満ちた2泊3日は、参加者によるさらなるコミットメントと共に幕を閉じました。
会議の様子(於:静岡県御殿場市)

会議の様子(於:静岡県御殿場市)


「ハンセン病問題を語り継ぐもの」講演会
当財団はグローバルアピール2015を大きな国内啓発の機会とすべく、ハンセン病啓発企画を公募し、協賛イベントとして助成しました。同時に、新たなハンセン病問題の「当事者」(担い手)が現れつつあるマレーシア、中国、日本の3カ国の語り手による講演会を、大阪では追手門学院大学社会学部共催、鹿児島では星塚敬愛園自治会共催、国立療養所星塚敬愛園後援、東京では日本財団学生ボランティアセンター後援で開催しました。中国には今なお600を超えるハンセン病回復村があります。そこには、家族や外の社会との交流を断たれた、高齢の障がいを持つ回復者が暮らしています。かつて「死ぬのを待つだけだ」と言っていた村人が、希望を取り戻したのは、学生の力でした。村人と学生は、支援する者とされる者という関係を軽々と越え、強い絆で結ばれています。中国からは、学生という新しい「当事者」を、回復者の視点から欧鏡釗さんが、ワークキャンプのコーディネーションNGOのJIAから菅野真子さんが語り手として話をしてくれました。マレーシアのクアラルンプール近郊にある、かつて世界で2番目に大きかったスンゲイブロー療養所の入所者は子どもを産むことは許されていましたが、育てることは許されませんでした。所内の乳児施設で育てられた子どもの多くは、国内外に養子に出されました。高齢化が進む入所者は、最後に一目でいいから我が子を目にしたいと切望しています。数十年と言う時が過ぎた現在、入所者の子どもを探すのは非常な困難を伴いますが、見つかった第2世代の中には、ハンセン病を理由に親に会うことを拒む人も少なくありません。その中で今、語り部として活動を始めた第2世代がいます。マレーシアからは、入所者と第2世代をつなぐ取り組みを続けるエニー・タンさんと、第2世代として語り部活動を行うノラエニ・モハメドさん、そしてノラエニ・モハメドさんの娘で日本に留学中のナジーラ・バスリさんが話をしてくれました。大阪では中国とマレーシアの話に加え、長島愛生園歴史館の学芸員である田村朋久さん、鹿児島では星塚敬愛園入所者の小牧義美さんと上野正子さん、東京では弁護士の山本晋平先生にお話をいただきました。ハンセン病問題は歴史として残すだけ、また、知識として知るだけでは十分ではありません。そこから得られた普遍的な問題提起を、どのように現在、未来に活かしていくか、ということが重要であり、そのことを考える機会となりました。
開催にあたり、追手門学院大学、国立療養所星塚敬愛園には多大な協力をいただき、予想を超える多くの参加者を得ての講演会となりました。「ハンセン病に関する講演会にこれだけの人が参加する日本は、意識が高い」と、語り手も強い印象を持って帰国しました。
鹿児島講演会場の様子 (於:鹿児島県鹿屋市)

鹿児島講演会場の様子 (於:鹿児島県鹿屋市)

[活動レポート ― ハンセン病]
マレーシア発「家族の絆」を取り戻そう

子どもを産むことは許しても、育てることは許さなかったマレーシアのハンセン病療養所。出生後まもなく、生まれた子供は、園外の親族や国内外に養子に出されました。高齢化が進む入所者の一目でいいから我が子を見たいという思いと、実の親を探したいという第2世代の思いをつなげる取り組みが進んでいます。
スンゲイブローの子どもたち
英国植民地下最大であり、世界でもフィリピンのクリオン療養所に次いで2 番目の規模であったマレーシアのスンゲイブロー療養所の入所者は、子どもを産むことは許されていましたが、育てることは許されていませんでした。誕生直後から所内の乳児院で育てられた子どもは6カ月になる前に園外の親族に、それが叶わない場合には国内外に養子に出され、時には宗教、言語、文化も異なる家族のもとで成長し、多くが結婚し、新しい家族と暮らしています。高齢化が進む入所者の最大の願いは、出生後まもなく連れ去られた我が子との再会。近年になり、第2世代の中から、第3世代にあたる子どもも成人し、ひと段落したところで、実の親を探したいという人が出てくるようになりました。
私の親を探して
ノラエニさんは、生後半年でスンゲイブローから養子に出された1人です。スルタンの運転手だった養父をはじめ、温かい家族に恵まれ、宮殿で過ごした少女時代は幸福なものでした。自分が養子であることは知っていましたが、養父母への配慮から、実の親の所在は探しませんでした。手がかりが出てきたのは、養母の死の翌日でした。遺品から養子縁組の書類が出てきたのです。そこには、イスラム教徒として育てられた自分の実の両親は華僑であり、しかもスンゲイブロー療養所の住人である、という驚きの事実が記載されていました。 夫や子どもたちの全面的応援を受け、ノラエニさんの実の親探しの旅が始まりました。スンゲイブローの引き裂かれた親子の絆を取り戻すための活動をするイーニー・タンさんと出会い、療養所の記録、州で保管される誕生記録などさまざまな記録をたどった結果、自分には姉がいること、父はすでに退所していること、母はすでに死亡していることが分かりました。姉と父の所在は、今でも分かりません。イーニー・タンさんは、せめて母の眠る墓を見せたいと、療養所の墓地で、母親の名前の刻まれた墓を探し歩きました。ノラエニさんの母との再会は墓前でしたが、その横には、ノラエニさんを信じ、支えてくれる家族が立っていました。
あなたは1人ではない
ノラエニさんはイーニー・タンさんと書き上げた「墓地での再会」についてこう語ります。「この本にはハンセン病についての情報もありますが、私たちはこの本を通して、親から引き離され、まだ親を探す勇気のない第2世代に、こう伝えたいのです。『あなたは捨てられたのではない。養子に出されたのは、愛されていなかったからではなく、隔離政策のため。希望を持って生きてほしい。あなたは1人ではない』」親子の絆を修復するためには、親と子の双方の気持ち、家族の理解と応援、そしてハンセン病に対する社会の理解が必要です。 当財団は 2013 年度より、子どもに会いたい、親を探したいという気持ちをつなげながら、ドキュメンタリーフィルムの制作や、さまざまなイベント、ブログやフェイスブックなどを使い、第2世代、その家族、社会のハンセン病に対する考えを変えるための取り組みを支援しています。

家族の絆を取り戻す活動を続けるノラエニさん(中央右)、イー ニー・タンさん(中央左)と、ノラエニさんの息子(両端)

家族の絆を取り戻す活動を続けるノラエニさん(中央右)、イー ニー・タンさん(中央左)と、ノラエニさんの息子(両端)