[活動レポート ― ハンセン病]
「ハンセン病の歴史ウェブサイト」 リニューアル

「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」の初日には、世界のハンセン病の歴史をまとめたウェブサイトのリニューアル公開をしました。ハンセン病に関する歴史的な場所の沿革から当事者のライフヒストリーまで網羅したこのウェブサイトは、研究者や専門家だけはなく、誰もが使える、使いやすくて魅力的なウェブサイトとして生まれ変わりました。ぜひ一度サイトを訪れてみてください!

サイトトップページ

サイトトップページ


ILAハンセン病の歴史ウェブサイト http://leprosyhistory.org/
新しくなったウェブサイト
急速に失われつつあるハンセン病の歴史を語り継ぐため、国際ハンセン病学会(International Leprosy Association:ILA)は、2000 年に、主に研究者の使用を想定した世界のハンセン病歴史プロジェクトウェブサイトを立ち上げました。データベースが主体の旧ウェブサイトの検索システムはすでに旧式のものとなりました。貴重な情報が集積されているにもかかわらず、旧ウェブサイトの利用頻度は低迷したままでした。そこで、当財団は、ILAと共同し、旧サイトの担当者の協力を得て、ウェブサイトを一新しました。
情報を検索するには検索システム
データベースは、アーカイブ、医師や研究者・当事者などの人物、タイムラインの3 種のデータから構成され、それぞれ、国やキーワード、年代などから検索することができます。新データベースには、旧サイトのデータベースをもとに、新たな情報を追加しましたが、これからも各地から寄せられた新たなデータを随時追加していきます。
アーカイブ検索

アーカイブ検索


世界地図で見る歴史的な場所
トップページの中段の世界地図には、データベースに記録のあるハンセン病にゆかりのある場所が示されています。地図上の場所をクリックすると、それぞれの場所の情報ページに入ります。地図はGoogle Mapsにつながっており、現在の当地の様子も見ることができます。また、それぞれの場所はデータベースにリンクされており、データベース内の情報を閲覧することができるとともに、関連年表データ、国別のハンセン病の歴史にもアクセスできます。
地域の歴史の概要
各地の歴史は、コミュニティ、国、国を超えた地域の大きな歴史の流れの影響を受けています。新ウェブサイトには、各地の情報だけではなく、国、そして国を超えた地域のハンセン病の歴史の概要を加えました。ここには当時の写真も多く掲載されており、往時の様子を見ることもできます。また、ハンセン病当事者が語るライフヒストリーや、データベースに記録のある資料館の史料についての解説や、ハンセン病が法律や文化に与えた影響や、医療史におけるハンセン病、最近の歴史保存の活動などのニュースなどは、それぞれコラムを設け、随時掲載される予定です。生まれ変わったハンセン病の歴史ウェブサイト、ぜひご活用ください。
ハンセン病とその影響についてのエッセイ集

ハンセン病とその影響についてのエッセイ集

[活動レポート ― ハンセン病]
宮崎駿監督が語る「全生園で出会ったこと」

ハンセン病関連のイベントが続けて行われた1月、当財団は、「ハンセン病の歴史を語る―人類遺産世界会議」を開催しました。オープニングでは、世界的に著名なアニメーション映画監督であり、東京都にある国立療養所多磨全生園の人権の森構想を支援している宮崎駿氏に、ハンセン病問題に関する想いを語っていただきました。

「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」 にて講演する宮崎駿監督

「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」
にて講演する宮崎駿監督


おろそかに生きてはいけない
宮崎監督が初めて、ハンセン病に正面から向き合ったのは、いまから20数年前のこと。のちに「もののけ姫」となった作品の構想中に、自宅からほど近い全生園に足を運んだのが、始まりでした。全生園に隣接するハンセン病資料館も訪れ、そこで全国から集められた、療養所の園内通貨や、生活を送る上で使われてきた品々と出会った監督は、大変な苦しみの中で人が生き抜いてきた証に衝撃を受けました。訪れるたびに、「おろそかに生きてはいけない。・・・自分が今ぶつかっている作品をどう作るかということを、真正面からきちんとやらなければいけないと思った」そうです。「もののけ姫」には、ハンセン病を患った人からヒントを得た人たちも登場しましたが、完成した作品を見た全生園自治会会長の佐川修氏や、ハンセン病資料館で佐川氏と共に語り部活動を続ける平沢保治氏をはじめ皆さんは大変に喜ばれたそうです。
人権の森構想
現在、多磨全生園をはじめ、療養所の入所者数は減少しています。各園とも将来構想に基づき、保育所や特別養護老人ホームなど、地域のニーズに合った施設の設置を始め、隔離から地域開放へ、療養所は変わりつつあります。多磨全生園では、1940 年代に緑化運動が、1980 年代にふるさとの森造り計画が始まりました。入所者がいなくなった後に、この地に豊かな緑の地を残したいという思いで始まったものです。2002年には、緑と共に、歴史的建造物や史跡を「人権の森」として残すため、「人権の森構想」が立ち上がりました。この「人権の森構想」のもとを作ったのが、宮崎監督でした。療養所には、使われなくなった建物が残されています。老朽化が進む建物の一つに戦前から残る男子独身寮「山吹舎」がありました。「山吹寮」を残したい、そのために協力する、という宮崎監督の言葉が、「人権の森構想」につながったのです。「全生園の緑と建物を残す『人権の森構想』に協力しているのは、友人が先頭でやっているからです。・・・大きな緑を残したということもいいことだと思いますが、同時に、生きるということの苦しさと、それに負けずに生きてきた人たちの、巨大な記念碑をずっと残しておきたい」という宮崎監督。世界には多くの問題がある。その全てに自分が関わっていくことはできない。だから、皆が少しずつ手分けをしていくしかない。そして、「資料館や人権の森が、人間というのは間違えるものなんだ。絶対間違えないと思って間違えるのが人間なんだ、という教訓になればいいと思う。我が身をかえりみて、謙虚でいなければいけない」と言います。講演後半では、佐川氏と平沢氏も登壇しました。講演活動をめったにされない宮崎監督が、今回の講演を引き受けられた背景には、監督と深い交流を持つ両氏の存在がありました。「負の遺産」としてのみ捉えられることが多いハンセン病の歴史は、両氏をはじめとする、人間の持てる計り知れない力と可能性を示す歴史でもありました。宮崎監督が全生園で出会われた、生きる苦しさに負けずに、内から強い光を放ちながら生きてきた人たちの歴史を、人類の遺産として残し続ける努力はこれからも続きます。
講演後半に全生園の友人である佐川修さん、平沢保治さんと

講演後半に全生園の友人である佐川修さん、平沢保治さんと

[活動レポート ― ハンセン病]
「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」開催報告

笹川記念保健協力財団では、1月28日~30日までの3日間にわたって、人類遺産世界会議を開催しました。

登壇者記念撮影

登壇者記念撮影

 

1日目は、アニメーション映画監督の宮崎駿氏を迎えて、「全生園で出会ったこと」と題して特別講演をいただき、病気を病みながらも生き抜いてこられた方の尊厳ある人生から私たちの学ぶべき姿があることを伝えていただきました。午後には、当財団がオーストラリア・クイーンズランド大学のDr Jo Robertson氏と協力してリニューアルした「国際ハンセン病学会(ILA)のハンセン病の歴史ウェブサイト(leprosyhistory.org)」を紹介し、今後世界各地の歴史保存研究などに活用していただけるように訴えました。その後、セッションIとして、「ハンセン病の歴史を残す-世界の取り組み」をテーマに、マレーシアやフィリピン、中国、タイの博物館やアーカイブによる保存の取り組みについて紹介して頂きました。

熱心に議論する参加者

熱心に議論する参加者

さらに、2日目にかけて、セッションIIとして、「保存する・学ぶ・伝える~主たるプレーヤーは誰か」をテーマに、ブラジルや韓国など9カ国の学者、政府機関、当事者家族のそれぞれの立場から発表していただき、保存活動に対して果たす異なる役割を学び、さまざまなプレーヤーが協力して行うことで保存活動の質と持続可能性を高めることについて確認し合いました。セッションIIIでは、「生きた証・創造力・作品:芸術、文芸、生活用具」として、厳しい隔離の中で当事者の方が作りだしてきた音楽や陶芸、絵画など多様な芸術作品を紹介し、これをどのように現代未来へと保存し伝えてゆくことができるか検討しました。最後に、セッションIVにて、「未来への遺産~実現の途をさぐる」と題して、エクアドル、フィリピン、スペインの方が、南米、アジア、ヨーロッパのそれぞれの地域レベルでネットワークを形成して保存活動を推進していくことの重要性を確認しました。

 

東京宣言に署名する登壇者

東京宣言に署名する登壇者

3日目には、これまでの議論を踏まえて、17カ国30名の登壇者の皆がさらに連帯を深め、各地の保存活動の一層の進展を図っていくことを約した東京宣言を発表しました。3日間を通じて、のべ500名の方にお越しいただき、一般市民の皆様にも広くハンセン病問題の将来について考えていただく機会とすることができました。

 

※ 東京宣言 Resolution

[活動レポート ― ハンセン病]
活動レポート

過去の記事は、以下のページでご覧いただけます。
 ハンセン病
 ホスピス緩和ケア
 公衆衛生の向上

[活動レポート ― ハンセン病]
第2回「ハンセン病問題を語り継ぐもの」

2015年10月に熊本、福岡、香川、兵庫にて、第2回「ハンセン病問題を語り継ぐもの」シンポジウムを開催しました。子どもを生むことはできても育てることが許されなかったマレーシアと、子どもを生むことが許されなかった日本。いずれもハンセン病問題を語り継ぐ「家族」は限られています。親を探す過程での悩みと新たな出会い。語り始めたマレーシアと日本の家族の言葉は、会場の皆さんの心に確実に届きました。
引き離された親子 ― マレーシア
マレーシアでは、1920 年代半ばよりハンセン病患者の隔離が進められていきました。1930 年代には、ハンセン病の感染から守るため、入所者のもとに生まれた子どもは、生後まもなく両親から引き離されるようになります。入所者は親戚、友人、施設など、子どもを預ける先を探しますが、引き取り手が見つからず、施設に預ける金銭的な余裕がない場合には、子どもは国内外に養子に出されました。それから数十年がたった今日、高齢化が進んだ入所者は、「死ぬ前に一目でいいから、養子に出した子どもに会いたい」という強い希望を持っています。当財団は2013年度に親子の絆を取り戻す活動の支援を開始しました。これまで、再会を果たした親子もいれば、入所者である親はすでに死去しており、実際に会うことはかなわなかったものの、親や自分のルーツを取り戻すことができた第2世代も出てきました。
語り始めた家族たち
生むことは許されても育てることは許されなかったマレーシアと、生むことが許されなかった日本。マレーシアでも日本でも、ハンセン病問題を当事者として語り、そして第2世代として語り継ぐ家族は、ごく少数です。家族の多くは、現在でも、身内にハンセン病にかかった人がいたことを、ひた隠しに生きています。療養所退所者の中 修一さんは言います。「私はどうしても外で生きたかった。療養所の中ではなく、外で生きたかった。だから退所しました。退所してからは、自分の病気のことは隠さずに生きてきた。社会の人はね、思ったよりもハンセン病に対する偏見や差別は持っていない、というのが実感です。でも、一番強い差別はどこから来るか知っていますか?それは家族です。一番の支援者であるべき家族からの拒絶が、最後まで残ります。それはなぜか。家族も被害者なんです。私たちは病気になって、療養所で暮らさざるを得なかった。でも社会に残った家族は、当時のとてつもない偏見や差別の中で、生きていかなくてはならなかった。その記憶が染みついているから、らい予防法が廃止になっても、国賠訴訟で勝訴しても、帰ってくるな、と言うんです。私の家族は私を受け入れてくれました。でも、病気にかかった私たちの多くは、家族に、『なぜなんだ、受け入れてくれ』と強く言えません。私たちの病気のせいで、家族がどれほどの苦しみを受けたかを知っているからです」自分の親や家族にハンセン病にかかった人がいることを隠して生きる家族が多い中、「私たちは胸を張って生きていくべきだし、生きていけるべきだ。まず、語ることから始めよう」と、語り始めた人たちもいます。
スンゲイブローの姉妹
今回来日したのは、マレーシアのスンゲイブロー療養所の入所者の子どもの姉妹です。姉であるヌルル・アイン・ヤップさんはマレーシアで、妹のエスター・ハーヴェイさんはニュージーランドで暮らしています。2人の姉妹が生まれて初めて会ったのは、来日の1週間前のことでした。

菊池恵楓園自治会副会長 太田 明氏と共に。 エスター・ハーヴェイ氏(中央)、ヌルル・アイン・ヤップ氏(右)

菊池恵楓園自治会副会長 太田 明氏と共に。
エスター・ハーヴェイ氏(中央)、ヌルル・アイン・ヤップ氏(右)

エスターさんが親探しを始めたのは、今から9 年前のこと。エスターさんは、幼いころから自分が養子であることを知っていました。しかし養父母はあふれるばかりの愛情を持って育ててくれ、大変に幸せな人生を送ってきました。子育ても一段落し、自分の実の親について知りたいと思ったのがきっかけでした。プラウジェレジャクという島で生まれたことを知ったエスターさんは、インターネットで世界中の情報が手に入るようになったことで、ようやく自分のルーツをたどり始めたのです。長い年月と多くの人との出会いを経て、エスターさんが知ったのは、残念ながら両親ともすでに亡くなっていたということでした。しかしマレーシアやオーストラリアに叔父やいとこが見つかり、その親戚を通して、自分には姉がいたはずだと知ります。その姉が誰なのか分かったのは、今年の3月のことです。姉のヌルル・アイン・ヤップさんは、マレーシアの夫婦のもとに養子に出されました。養母は、ヌルルさんの実の親はプラウジェレジャクという島で暮らしていたということ以外は語らないまま他界しました。自分には血のつながった家族はいないと思っていたヌルルさんにとって、実の妹が自分を探しているというニュースは、非常な驚きでした。しかも実の親はハンセン病の患者で、自分が育ったペナンの近くのプラウジェレジャクで暮らしていたこと、その後、いま自分が暮らしているクアラルンプールの近くのスンゲイブロー療養所に移って、そこで亡くなったことを聞いたのです。今までの穏やかな生活が一転するような話でした。子どもたちのためにも、聞かなかったことにしようかとも思ったそうです。しかし、妹が何年も親を探し続け、親の手掛かりを探すために、ニュージーランドからマレーシアに足を運んだこと、そして、実の親のことを聞くにつれ、なかったことにはできない、自分も勇気を持って、ルーツに向き合わなければならないと思ったそうです。実父は園内で多くの作業をして、わずかの作業賃を貯め、自分の弟にそのお金を託したそうです。エスターさんが初めてオーストラリアの親戚と会った時に、叔父は「『いつか私の娘が見つかったら、渡してくれないか』と言われたんだ。何十年もたってようやく出会えてよかった」と言って、古いコインをいくつも渡してくれたそうです。「私たちのことをこんなにも想ってくれていた親に会うことができなかったことは、悔やんでも悔やみきれない。でも、親を探すという旅を始め、存在していることも知らなかった姉に出会い、新しい家族ができた。何十年の時を経て結ばれた家族の絆を失ってはいけない。そして病気のために社会から強制的に隔離され、家族から引き離されて暮らさなくてはならなかった私たちの親をはじめとする、多くの人の人生をなかったことにしないためにも、私たちが語り、語り継いでいかなくてはならない」とエスターさんは語ります。
ハンセン病問題を語り継ぐもの
熊本、福岡、香川、兵庫の4 都市では、姉妹と共に、50 代から90 代までの5人の日本の当事者と家族がお話しくださいました。心痛、苦悩、そしてそれを乗り越えようとする人間の力。国や言葉や文化の差を超え、共通するものも多くありました。ハンセン病問題、そして人間について考える機会になりました。
熊本城前にて

熊本城前にて

[活動レポート ― ハンセン病]
ひろがるハンセン病の歴史保存の動き

1980年代の治療法の確立以降、全世界で精力的に展開された対策活動により、ハンセン病の状況 は大きく進展しました。しかし華々しい科学の勝利の一方で、ハンセン病は「終わった問題」として、その歴史は急速に忘れられつつあります。そのような中、歴史保存の動きが広がり始めています。

国立ハンセン病資料館を見学するブラジルからの参加者

国立ハンセン病資料館を見学するブラジルからの参加者


変化するハンセン病の世界
最も古い感染症の一つであるハンセン病は、その長い歴史を通し、世界各地で恐れられてきました。ハンセン 病にかかった人はその病気のために、生きる場、手段を 奪われ、偏見や差別は家族にも及びました。1980年代の有効なハンセン病治療法の確立、世界レベルでの制圧目標の決定、治療に必要な薬剤の無償配布により、登録患者数は大きく減少しました。その一方で、ハンセン病は「終わった問題」として認識されるようになり、病気と共に生きた人々の歴史、治療に尽くした人々の歴史、ハンセン病をめぐる当事者・家族・社会の歴史 は急速に忘れ去られつつあります。
なぜハンセン病の歴史を残すのか
「辛い過去は忘れたい」、「何十年もたって社会も病気のことを忘れて、差別がなくなってきたところだ。いまさら社会の人に問題を思い出させないでほしい」。さまざまな国でハンセン病の歴史を残そうとする人たちが耳にしてきた言葉です。なぜハンセン病の歴史を残すのか。病気のために差別した過去の過ちを忘れないため、医学や科学のさらなる発展のため、病気と共に生きた当事者の思いを語り継ぐため、さまざまな「問題」を持つ人々が共に生きる社会の実現に活かすためなど、理由は多くあります。日本では1970年代から、療養所入所者が史料を集め、1977年、多磨全生園の一角に、ハンセン病図書館が開館されました。この図書館に集められた資料の多くは、現在の国立ハンセン病資料館に引き継がれ、病気を体験した人たち自身による「自分たちの生きた証」である歴史を語り継いでいます。
第1回国際ハンセン病歴史保存ワークショップ
当財団と国立ハンセン病資料館は、ブラジル、マレーシア、フィリピン、台湾からの参加者と、オーストラリアの講師を招き、2012年10月第1回国際ハンセン病歴史保存ワークショップを開催しました。第1回ワークショップ終了後に大きな動きがあったのは、 フィリピンでした。当事者ネットワーク、国家歴史委員会、 国立公文書館、国立療養所、保健省が協力体制を築き、国レベルでの歴史調査と、各療養所における保存活動を開始したのです。
第2回ワークショップ
開催から2年がたった本年10月末に、タイ、ネパール、 マレーシア、コロンビアからの参加者に加え、前回ワークショップ開催後に歴史保存が大きく展開したフィリピンから講師を招き、第2回国際ハンセン病歴史保存ワークショップを開催しました。すでに自国にてなんらかの歴史保存活動を開始しているか、現実的な計画がすでに立てられており、準備を開始している参加者による今回のワークショップでは、日本とフィリピンの経験共有の後に、各国の現状と保存計画の発表を受け、その後に参加者全員で各国の保存計画について検討しました。
これから
第2回ワークショップは、特にネパールのように現在でも多くのハンセン病患者をかかえる国においては、歴史が過去の問題ではなく、現在の保健問題への注意を喚起する役割も担うことが確認されるなど、新しい学びもありました。ワークショップで出された提言は次の通りです。
*世界各国でハンセン病歴史保存に取り組む人々の ネットワークの立ち上げ
*歴史保存の取り組み共有の場/ツールの確保
*専門技術・知識の共有
*歴史保存に関する予算の確保
*各国の歴史保存計画見直し
*歴史保存に必要な国内外諸機関との関係構築
*第1回・第2回国際ハンセン病歴史保存ワークショッ プ参加者による、世界歴史保存宣言の発表
*世界ハンセン病の日での歴史保存の訴え
参加者の帰国後、コロンビアでは歴史保存委員会が組織され、活動計画を協議、タイではハンセン病ミュージ アムを作るための関係者協議が開始、ネパールではワークショップの報告がされ、これから国レベルの歴史ワークショップが計画されるなど、ワークショップ終了後も参加者は熱心に活動を続けています。各国次回のワークショップまでの展開が期待されます。
第2回国際ハンセン病歴史保存ワークショップ参加者

第2回国際ハンセン病歴史保存ワークショップ参加者